2017.5.14 説教 「天の父よ、わたしたちの父よ」
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聖書箇所
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ローマの信徒への手紙8章15節
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
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説 教 |
1.神を父と呼ぶ
①それは当たり前ではない
今日は今月の聖句であるローマの信徒への手紙8章15節の言葉から私たちが天におられる真の神を私たちの「父」と呼べることの意味について考えてみたいと思います。主イエスが私たちのために教えてくださった主の祈りの冒頭もこの「天の父よ」と言う呼びかけで始まっています。ですから、私たちは同時にこの主の祈りの冒頭の呼びかけの意味についても学ぶことになる訳です。
私たちはいつも神に祈りを献げる際に神さまを「父よ」と呼んでいます。ですから私たちは神を「父」と呼ぶことに何の疑問も感じなくなっているのかも知れません。それでは私たちが普段、当たり前のように呼んでいるこの「父よ」と言う呼びかけは、本当に私たちにとって当たり前のものであると言えるのでしょうか。
最初から答えを言ってしまえば、私たちが天の神を「父」と呼べることは当たり前のことでは決してないのです。むしろ、私たちが神を「父」と呼ぶことができるのは、この神の御業の結果であり、その意味でこれは私たちの人生に起こった驚くべき神の「奇跡」であると言ってよいのです。聖書には神がなされた奇跡の業が数多く記されています。私たちはこのような記事を読む度に、「なぜ自分も同じような体験ができないのだろうか」と疑問に思ったり、うらやましがったりすることがあります。しかし、聖書は私たちの人生にも神が驚くべき奇跡を起こしてくださっていると教えています。それはイエス・キリストによる救いの出来事です。そして私たちはそのイエスが遣わしてくださる聖霊の働きによって神を「父」と呼ぶができるのだとパウロはここで語っているのです。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」。
私たちが神を「父」と呼ぶとき、それは聖霊の働きが私たちの人生を通して実現したことを示しています。なぜなら、神に背を向け、神に逆らいながら生きて来た本来の人間は、自分の力や能力で神を「父」と認めることも、その方を「父よ」と呼び求めることもできないからです。ですから、この出来事は神からの一方的な恵みの御業によって実現したものと言えるのです。
②奴隷から子どもに
パウロはこのローマの信徒への手紙の言葉の中で「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」と言う言葉を語っています。本来、私たちは喜んで神を「父」と呼び、その方に従うことのできるような権利を持っている訳ではありません。私たち人間は確かに神によって創造された被造物の一つです。そのため、私たちと神との間には本来、親子関係は存在せず、むしろ、人間を造った作者である神と、その作品との関係が神と人との関係であると言ってよいのです。
パウロはローマの信徒への手紙9章で焼き物を作った焼き物師とその焼き物との関係を神と人間の関係にたとえて説明しています。パウロはここで焼き物をどのように作り、どのように扱うかは作者の考えに任されていて、焼き物自身は作者に対して自分の取り扱い方について何の文句を言う権利も持っていないと説明しています。つまり、神は自分が造った焼き物が失敗作であれば、それを粉々に壊してしまう権利を持っていると言うのです。
本来、私たちはそのような意味で神の行為に恐れと不安を感じるだけの存在でしかなったのです。私たちが神の御心に反して何か神の気に入らないことをしでかせば、いつでも神に滅ぼされてしまっても文句が言えない立場に私たちは置かれているのです。だから、その場合に神に従って生きているとは言っても、それは喜んで自分からするのでなく、言うことを聞かなかったらどんな目に遭うか分からないと言った恐怖によって、奴隷のように強制されて神に従わざるを得ないのです。しかし、今や私たちと神との関係、まったく変えられたとパウロは語っているのです。
それでは、どうして私たちと神との関係は全く変わってしまったのでしょうか。それは真の神の独り子であるイエスが私たちのために地上に遣わされ、私たちを罪と死の呪いから救い出し、私たちが神の子となれるようにしてくださったからです。ですから、このことについて聖書は次のように証言しています。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1章12節)。
ここで「言」と呼ばれているのは、私たちの救い主イエスのことです。そしてこのイエスが為された救いの御業によって、イエスを信じる人々はすべてが「神の子となる資格を与え」られたのです。本来、神を父と呼べるのは唯一の独り子であるイエスだけなのです。しかし、そのイエスによって父なる神を私たちは「父」と呼べるようになったのです。私たちはイエスによって、イエスと同じ神の子としての資格を受けたのだと聖書はここで教えています。これはなんとすばらしい出来事ではないでしょうか。かつては神を恐れ、奴隷のように従わなければならなかった私たちが、今すでに神の子とされているのです。
2.私たちにとって父とはどのような方か
このように私たちが天におられる真の神を「父」と呼べるのは神の独り子であり、私たちの救い主であるイエスの救いの御業によるものなのです。イエスの為された奇跡が私たちの人生の上に実現したのです。ですから私たちは今や、神の独り子であるイエスと同じ資格を持って神を「父」と呼び、またイエスと同じような関係を神との間に持つことができるようにされたのです。
それでは真の神を「父」と呼ぶことができるようになった私たちは、その神をどのように知り、また信じる必要があるのでしょうか。私たちはこの真の神の独り子であるイエスを通してのみ、神を知り、信頼する必要があるのです。なぜならこの方を通してだけ私たちは、真の神をわたしたちの「父」として信頼し、信じて生きて行くことができるようにされるからです。
聖書にはこのことに関してイエスと弟子たちとの間で交わされた興味深い会話を報告しています。イエスはこのときご自身がこれから十字架にかけられて死なれることを前提にして、弟子たちに様々なことを遺言のように語り伝えられました。そしてイエスがご自分の死は無意味な出来事ではなく、私たちが天の父である神の元に行く道を開くためにあるという説明をされた時、弟子の一人のフィリポはイエスにこう尋ねたと言うのです。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(14節)。
神が存在することを信じる人は今でも多くおられるはずです。しかし、神が存在することを信じられても、それだけでは私たちの人生にとって重要な意味を持ってはいません。肝心なのはその神が私たちをどのように見ておられるのか、どのように思っておられるかを知ることです。フィリピの「父を示してほしい」と言う願いには、そのような切実な弟子たちの思いが隠されています。イエスの弟子たちはこれまでイエスと一緒に過ごして神がイエスをどのように愛しておられるのかを知っていたはずです。神とその独り子であるイエスとの関係を彼らは理解しつあったのです。しかし、彼らには神のイエスに対する思いは理解できても、肝心の自分について神はどう思っておられるのか分からずにいたのです。だからイエスはこのときフィリピに次のように答えてくださったのです。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(14節)。
この答えによればイエスを見た者は、父を見たのだと言われています。イエスがはっきりと私たちに対する父の思いを示してくださっていると言っているのです。言葉を換えて言えば、神がご自分の独り子であるイエスを愛し、慈しまれたその関係がそのまま私たちと神との関係として理解してよいと言われているのです。だから私たちは「神の私たちに対する思いが分からない」と言って不安になったり、恐れる必要はないのです。イエスを通して、私たちは「父」である神の私たちに対する思い、その愛と慈しみを知らされているからです。
3.「父」は私たちをどのように思っておられるのか
①運命論、決定論的信仰
私たちの信仰にとって私たちが神を「父」と呼ぶとき、必ず忘れてはならないことは、私たちが私たちの救い主であるイエスを通してだけ、父を知り、その方を信頼することです。この方を抜きにして、私たちは神の愛を確信することも、信じることもできないのです。イエスなしの神信仰は運命論、決定論と言う言葉で表現されるような空しい信仰になってしまう恐れがあるからです。
運命論、決定論と言うものは、世界は神によって創造され、神がその世界を自分の計画に従って導いておられることを信じます。私たちの人生に起こるすべてのこともこの神の計画に従って起こっていると考えます。ですからすべての出来事は起こるべくして起こったものであり、その意味ですべての出来事は偶然ではなく必然的なものと信じるのです。しかし、神の御子イエス抜きの信仰の決定的な誤りは、肝心のこの神が私たちに対して、また世界に対してどのような思いを持って、それを支配し、導いてくださっているかが分からないことです。ですからこの信仰では「すべては神さま次第」と考えことはできますが、それ以上の積極的姿勢は生まれて来ません。神の御心が分からない人間はその御心を理解するために、今まで自分の人生に起こった出来事を通してだけ、それを推理して判断することしかできなくなるのです。
②イエスを通して神の愛を知る
ヨハネによる福音書9章に記された「生まれつきの盲人のいやし」の物語の中に、このような運命論的な信仰の立場に立つ者が抱く典型的な考え方が示されています。
エルサレムの神殿に通う人々に物乞いをして日々の生活を送っていた一人の盲人がいました。今でも目が見えない人は生きることに様々な困難が伴います。障害者に対する対策など何も考えられていなかった古代社会では彼らの生活はもっと困難であったと思います。ですから人々は生まれつき目の見えない人を「何もできない。不幸な人だ」としか考えることできませんでした。「どうしてこの人はこんなに不幸なのだろう。どうして生まれたときから目が見えないのだろう」。そのような疑問を抱く人々はその答えとして「だれかが神に対して罪を犯したために、この人は神から厳しい裁きを受けているのだ。誰の罪に結果だろうか、この人の罪のせいか、それとも両親が犯した罪のせいか…?」と考えたと言うのです。これはイエスに従って来た弟子たちも同じでした。しかしこれでは「確かにこの出来事の原因は分かった」と言えるかもしれませんが、それだけです。人間はそれ以上何もすることができずに、あきらめてその人生を送って行かなければならないのです。
しかし、イエスの答えは彼らの答えとは全く違っていました。なぜなら、イエスだけは神の思いを正しく理解することができたからです。神がどのような思いを持って、その人の人生を導こうとしているかをイエスだけは知っておられたのです。ですからイエスはこう語りました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。
イエスを通して神を知ること、イエスを通して神を「父」と呼ぶとことができると言うことは、私たちも私たちの人生に起こった出来事に対して、このイエスの言葉を当てはめてもよいと言うことです。だからこのイエスの言葉は私たちの人生の秘密を解き明かす言葉であるとも言えるのです。そこでパウロはローマの信徒への手紙の中で私たちの人生に起こる様々な出来事の結果について確信を持って次のように語っています。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(8章28節)。
これこそが神を、イエスを通して知り、「父」と呼べる者に示された神の御心なのです。そして私たちが主イエスに教えていただいた、主の祈りを「天の父よ」と言う呼びかけの言葉で始まっています。この呼びかけの言葉は私たちが今、神の独り子であるイエスと同じ資格をもって神に取り扱われていることを示し、イエスに対する神の愛と同じ愛をもって愛されていることを確信させる言葉だと言えるのです。
4.父の財産を相続する者とされた
私たちは祈りにおいて様々な願いを持ってその祈りを神に献げようとしています。自分や自分の家族が幸せになれるようにと祈ることもありますし、世界に平和が訪れるようにとも祈ります。願いの大小は違っていても、神に聞いていただきたいという思いをもって私たちは神に祈り続けているのです。そんな私たちに今日のローマの信徒への手紙の言葉の続きは豊かな慰めと励ましの言葉を語っています。
「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(8章16〜17節)。
私たちはキリストが受け継ぐべき相続財産を共同で相続することができる権利を持っているとパウロはここで語っているのです。
こんなお話を聞いたことがあります。物乞いを生業とする一人の少年がいました。まだもの心もつかないような小さな頃に物乞いの親方の元につれて来られて、そこで彼は毎日、街角に立ち物乞いをさせられていたのです。自分を奴隷にようにこき使う親方の元で、将来に対する希望もない少年は、いつも街角に座って通りを行く人を眺めていした。あるとき、それは身なりの素晴らし紳士が物乞いをする彼の前に立ち止まりました。この紳士は身なりもみすぼらしく、薄汚れた顔をしている少年をじっと見つめています。少年はもしかしたら、「この人は自分を哀れんで、お金を恵んでくれるかもしれない」と思って期待して、こう声をかけました。「どうか、私を哀れんで、ほんの少しで結構ですから、お金をめぐんでくださらないでしょうか」。
すると少年を見つめていた紳士は、突然涙を流し始めます。そしてその姿を不思議な思いで眺める少年にこう語りかけたのです。
「やっと見つけた。わが息子よ。私はお前が幼い頃に人さらいにさらわれてから、ずっとお前を探し続けて来たのだ。そして今日、やっと私はお前のところにたどり着けた。お前の本当の父親は私なのだ。そして私の財産のすべては皆、お前のものなのだ」。
キリストによって私たちは、神の子とされています。そしてその私たちの「父」は私たちの祈りに答えて、ご自身持っているすべてのものを私たちに相続財産として与えてくださると約束してくださるのです。このように私たちが「天の父よ」と神を呼べる幸いは、私たちの思いを遙かに超えてすばらしい祝福に満ちているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
あなたのを「父よ」と呼ぶことができるために、独り子であるイエスを私たちために与え、その救いの業によって、私たちに聖霊を遣わしてくださった幸いを心より感謝いたします。あなたが独り子であるイエス・キリストを愛した、その同じ愛をもって私たちを愛してくださる恵みを覚えます。私たちがキリストと共に準備された相続財産を継ぐために、私たちがさらにあなたに信頼して信仰生活を送ることができるように導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.焼き物師が焼き物の取り扱い方を勝手に決めることができ、そのことについて焼き物は何の文句はいえないと言う関係が私たちと神との関係だとしたら、私たちは神についてどのような思いを持って生きなければなりませんか。
2.私たちが神を「父」と呼べるのは当たり前のことではありません。私たちが神をそう呼べるために神はどのような御業を表してくださったのですか。
3.神を「父」と呼べるようにされた私たちは、その神をどのような方法で知り、また信頼する必要がありますか。
4.私たちに神がキリストと共に相続できるようにされている、神からの相続財産とは何でしょうか。
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