2017.5.28 説教 「あなたはわたしの愛する子」


聖書箇所

マルコによる福音書1章9〜11節
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説 教

1.洗礼を受けるイエス
①ガリラヤのナザレ
 今日もマルコによる福音書から学びます。前回は荒れ野の預言者として登場した洗礼者ヨハネの活動について学びました。この時点ではイエス自身はまだ福音書には登場していません。そしてマルコはこのヨハネのメッセージはイエスの登場を準備させるものであったと説明しているのです。いよいよ今日の箇所の部分からイエスの公生涯、つまり救い主としての生涯が始まることになります。マタイやルカの福音書はイエスの公生涯以前の誕生物語や幼年期についての物語を記録するのに対して、このマルコはそれらの出来事には一切触れていません。マルコはいきなりヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたイエスの姿を書き記すのです。
 ここで記されている「ガリラヤ」はイスラエルの北に位置するガリラヤ湖周辺の地域を指す言葉です。このガリラヤは当時、神殿のあったエルサレムからはるか北方の辺境の地と考えられていました。ただ、この地域は温暖で農作物を育てるには適した土地でもあったようで、イエスの時代にも多くのユダヤ人がこの地に移り住んでいたと考えられています。さらにイエスの出身地とされている「ナザレ」と言う村の名前は旧約聖書でも、またイエスの活動した時代に書かれた他の文献にも一切登場していません。私の故郷の茨城県は毎年、魅力度ランキング最下位となることで有名ですが、イエスの出身地のナザレはその当時は誰にも注目されることのない小さな村であり、歴史にも名を残すような場所ではなかったようです。

②なぜイエスは洗礼を受けられたか

 ここで、イエスはガリラヤのナザレからやって来てヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたと福音書は簡単に記しています。しかし、この出来事、昔から多くの人々の論議を呼び起こす的となりました。なぜなら、前回も学びましたようにヨハネが人々に授けた洗礼は罪人が悔い改めて、神に従って生きることを決心する印であったからです。その洗礼を受けた人は誰も皆、「自分は今まで神さまに背を向けて生きて来た」と言う事実を認め、悔い改めの心を明らかに示すために洗礼を受けたのです。そう考えると、神の子としてこの地上にお生まれになったイエスは、なぜヨハネからこの洗礼を受けたのでしょうか。イエスもまたこれまで神に背を向け、罪人として歩んで来た普通の人間の一人だと言うのでしょうか。そうなると、イエスについて教会が教えた内容には誤りがあると言うことになってしまいます。なぜなら、教会はイエスが神の子であって、自らは何も罪を犯すことのないお方だったからこそ、他の人間を救う力を持っていると教えて来たからです。それではなぜ神の子であり、何の罪も犯したことのないイエスが、本来は罪人が受けるべきヨハネの洗礼を受けられたのでしょうか。イエスの洗礼にはこのような謎が隠されているのです。
 マタイの福音書はこの問題を巡って洗礼者ヨハネが実際に感じた混乱を次のように紹介しています。

 「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(3章14〜15節)。

 洗礼者ヨハネは自分が今まで指し示して来た救い主こそこのイエスであることを知っていました。ヨハネはイエスが「聖霊で洗礼を授ける」方(8節)であると言っています。ですからヨハネはイエスが洗礼を受けることを思いとどまらせ、「むしろ自分こそあなたから洗礼を受けたい」と願い出たと言うのです。ヨハネはイエスには洗礼を受ける理由を見出すことができなかったからです。
 しかし、イエスはそのヨハネに対して「正しいことをすべて行うこと」が大切であると語られました。そしてイエスがこの時、ヨハネから洗礼を受けることも「正しい」ことなのだと言われたのです。この「正しさ」とは神さまの救いの計画から見て「正しい」ことと言う意味を持っています。つまり、イエスがこのとき洗礼を受けられたのは自分のためではなく、神さまの救いの計画が成就するためであったと言えるのです。
 ヘブライ人への手紙の著者はこのイエスの行為の秘密を次のように説明しています。

 「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(2章17節)。

 私たちの救い主であるイエスは私たちを救い、その罪を償うために私たちと同じようになる必要があったとヘブライ人への手紙の著者はここで説明しています。つまり、イエスがヨハネから洗礼を受けられたのは、自分自身のためではなく、私たち人間を救うためであると考えることができるのです。
 私たちがこれから学ぶ福音書は単に過去に起こったイエスの言動を報告しているのではありません。福音書は救い主であるイエスが私たちのために何をされたのかを伝える書物であると言えるのです。イエスの生涯は洗礼から十字架の死に至るまで、私たちの救いのために行われたものなのです。だからこそイエスの生涯を伝える物語こそが私たちにとって「良き知らせ」、福音であると言えるのです。そしてイエスの救い主としての生涯はこの洗礼の出来事から始まったことをマルコは私たちに教えているのです。

2.聖霊を受けられたイエス
①天が裂けた

 このようにしてイエスの救い主としての生涯はヨルダン川でヨハネから洗礼を受けることから始まっています。そして、マルコはイエスがヨハネから洗礼を受けたときに何が起こったのか、その出来事を次のように報告しているのです。

 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(10〜11節)。

 この当時の人々は神がおられる天と人間が住んでいる地との間には幾層にもわたる世界が存在し、それぞれ世界の間には隔てがあると考えていました。ですから「天が裂ける」と言う表現は、この幾層もの隔てを突き抜けて地上のイエスと天の神が直接につながった状態になったと言うことを表しているのです。救い主イエスの登場により人間の世界と神の世界の隔てが取り除かれ、一つにつながったと言うことがここに視覚的な表現で語られているのです。

②神の計画を実現する聖霊の働き

 そしてその天から「"霊"が鳩のように」イエスのもとに降ってきたとマルコは語っています。この「霊」は神の霊、聖霊を意味しています。今日の出来事の後に続く12節には「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した」と記されています。ですからこの時、イエスの元に降られた聖霊はこの後もイエスの元にとどまり続け、救い主としてのイエスの生涯を導くものとなったのです。救い主としてのイエスの生涯が彼の勝手な思い付きや、彼自身が立てた計画によってなされたものではなく、天の父なる神の計画にそって実現していったことをこの聖霊の働きは私たちに教えるのです。
 教会のカレンダーでは今日はイエスの昇天を記念する記念日です。そして次の日曜日が聖霊降臨日の礼拝となっています。聖霊は神の救いの計画を実現するためにこの地上で働き続けられる方です。ですから、キリストの昇天後には、今度はこの聖霊がキリスト教会の上に降られたのです(使徒2章)。なぜなら教会は、今は天におられるイエスの働きをつづけてこの地上で行っているからです。聖霊は天の父なる神の救いの計画を実現させるためにイエスを導き、またその教会を導かれる方なのです。

③私たちを導く隠れた英雄

 さらに、この聖霊は私たちに一人一人の信仰者の元にも降り、神の救いの計画が私たちそれぞれの人生の上にも実現するように働かれる方でもあります。聖霊はイエスが私たちのために勝ち取ってくださったすべての恵みを、私たちに与えるために今でも働いておられるのです。そしてこの聖霊の働きによって、私たちは天におられる救い主イエスと一つにされて生きることができるのです。救い主イエスの地上の生涯を導かれた聖霊が、私たちの教会を導き、また私たち一人一人の人生をも導いてくださると言うことは何と素晴らしいことでしょうか。

先日、新聞で今から100年以上も前に青森で起こった八甲田山雪中行軍事件の記事が載っていました。忘れられた地元の英雄たちを再評価する活動が今青森で起こっているというのです。この事件は大雪の八甲田でたくさんの兵士たちが命を落としたことで有名です。青森から弘前に向かった部隊の兵士のほとんどが雪の中で道に迷い凍え死んで行きました。ところが同じ時に弘前から青森を目指した別動隊は遭難者を一人も出すことなく見事に生還することができたのです。当時の陸軍は自分たちの犯した失敗を隠すために、正しい記録を残さなかったようです。実はこの別動隊が大雪の中でも無事に帰還できたのは、雪の八甲田のことを良く知っている一般市民、地元の英雄たちの案内があったからだと言うのです。危険な冬の八甲田を良く知っている地元の経験者の隠れた働きこそが彼らの命を救ったと言うのです。
 私たちを導く聖霊は救い主イエスを導き、たくさんの信仰者の生涯を今まで導いてくださった方です。ですから、どのような試練の中でも私たちを間違いなく目的地である神の元に導くことができるのです。私たちの信仰生活において聖霊はまさに「隠れた英雄」として私たちのために働いてくださるのです。

3.確かにされたイエスの召命感

 このときイエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けると天から聖霊が降り、その天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が聞こえたとマルコは記録しています。これは天の父なる神がイエスに語った言葉です。イエスが神の愛するひとり子であって、神の御心に従ってこの地上に来られた救い主であることを指し示す言葉になっています。ここで注意すべきことは、マルコはこのとき、天が裂けて聖霊がイエスの元にくだった情景や、この時、天から聞こえた神の言葉を洗礼者ヨハネやそこに居合わせたほかの人々が聞くことができたと言っているのではないと言うことです。もう一度この箇所をよく読んで確かめてみましょう。
 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」 
 マルコはこのとき聖霊がイエスのところに降って来たのを見たのはイエス自身であり、また天からの声を聞くことができたのもイエスだったと記録しているのです。つまり、マルコはイエスの洗礼の出来事はイエス自身にとって大変に重要な出来事であったことを語っているのです。
 なぜならイエスにとってこの出来事は自分が救い主として父なる神から選ばれたという召命感得るために大切な出来事だったからです。イエスはこのときご自身の目と耳を通して、自分が天の父なる神の計画に従って、救い主として選ばれたことを確認することができたのです。
 キリスト教会では自分が神からの特別な使命を与えられていることを確認するために、その人に神から「召命」が必ず与えられると信じています。牧師になる者も、長老になる者も、執事になる者も、いえそのような教会の役員として資格が与えられていなくても、誰もがこの神からの召命感をいただくことで、自分に与えられた大切な使命を遂行できると考えているのです。
 先日、行われた東部中会婦人会でお話をされた三人の婦人長老も皆、それぞれ違った形ではありますが、神からの召命が自分に与えられたことを語ってくださいました。だから自分は長老の職務を引き受けることになったと証しされたのです。神のために働こうとする者にとってこの召命感を確かに自覚することは大切なことです。どんなに才能に恵まれていても、この召命感がなければ、誰も神のための働きを続けることができないからです。イエスはこのとき救い主としての生涯を全うするために、この召命感を自らも確信する必要があったのです。そしてそのためにイエスはヨハネから洗礼を受ける必要があったと考えることができます。
 これから福音書が記すイエスの公生涯の物語はこのとき語られた神の言葉が確かであることを証しするためにも書かれているようです。その証拠にイエスの地上での生涯の最後に十字架につけられた彼の姿を目撃したローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」(15章39節)とイエスが洗礼を受けたときに聞いた天の声と同じ言葉を語っているからです。


祈 祷

天の父なる神様
 私たちを罪から救い出す使命を担うためにイエス・キリストはヨハネの元で洗礼を受けられました。罪を一つも犯したことのないお方が私たちの救い主として私たちの罪を背負い、その生涯を生き、十字架にかかってくださったことを感謝いたします。そしてあなたはイエスによって救われた私たちにも尊い召命感を与え、私たちがイエスに仕え、教会に仕えることで、あなたの御業を行えるようにしてくださいます。どうか私たちがこの使命を聖霊なる神の導きに従って全うすることができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはどこからヨルダン川の元に来られましたか。イエスは何をするためにここに来られたのですか(9節)
2.教会に教えのようにイエスが今まで罪を一つも犯したことのない方であるなら、なぜ彼はこのときヨハネから洗礼を受ける必要があったのですか。
3.さらにイエスが水の中から上がると、そこでどんなことが起こりましたか(10〜11節)
4.このときイエスがご自分の視覚と聴覚によって確かめることができたことは何ですか。どうしてこの出来事はイエスが救い主としての生涯を出発するために大切だったのでしょうか。
5.あなたは神からどんな召命感をいただいていますか。