2017.5.7 説教 「祈りの力」
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聖書箇所
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ヤコブの手紙5章13〜20節
13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。18 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。19 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、20 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。
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説 教 |
1.恵みによって生きる信仰生活
今まで続けて学んで来ましたヤコブの手紙は今日の説教でひとまず終わりとなります。私がこのヤコブの手紙を礼拝で取り上げようとしたきっかけは、このヤコブの手紙が多くの人から誤解を受けていると考えたからです。たとえば、パウロはローマの信徒への手紙の中で「信仰による義」を強調しましたが、ヤコブはむしろ信仰者の行いに目を向け、「行いによって義」とされると教えていると考える人がいます。パウロとヤコブは真っ向から対立する教えをそれぞれ語っていると言うのです。聖書はそれぞれ書物を記した著者は異なりますが、彼らに聖書の言葉を書き記すようにされたのは神お一人です。もし、このお一人の神が記された聖書の中に矛盾するような手紙があると考えるなら、それはおかしなことになってしまいます。本当にヤコブはパウロと対立するような教えをこの手紙の中で語っているのでしょうか。そんな疑問を解くために私たちはこのヤコブの手紙の学びを始めたのです。そして学びの中ではっきりしてきたことはヤコブも神の恵みによって生きる信仰生活を強調する点では、パウロと同じ考えを持っていると言うことです。そしてヤコブはこの手紙の中で、神の恵みによって生きているはずの私たちの生活がそうではなくなってしまっていることを厳しく指摘しているのです。その上で彼らが恵みによって生きる生活へと戻るように促しています。神を信じていながら、実際の生活では恵みを知らないこの世の人々と同じ原理を採用して生きている、そのような人々の過ちをヤコブは指摘しているのです。真の信仰は頭だけの知的な理解を超えて、実際の私たちの生活を変えるができることをヤコブの手紙は教えています。そしてヤコブこの手紙を閉じるにあたり、再び私たちが神の恵みによって生きるために大切な祈りについて語っています。そしてさらにはこの恵みよって生きる生活から迷い出てしまっている兄弟姉妹をキリストの恵みの元に連れ戻すことが大切であることを教えているのです。
2.病気の人のために祈る
①苦しみと試練
今日は皆さんと共にヤコブの言葉から病と神の癒しとの関係について少し考えて見たいと思います。ヤコブは今日の箇所を次のように始めているからです。
「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)。
ヤコブはこの手紙の最初で読者たちに「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1章2節)と教えています。私たちはできれば自分の人生に試練が起こることがないようにと願っています。誰もが平穏無事な生涯を送りたいと思うからです。なぜなら、試練は私たちを耐え難い苦しみに追い込むからです。その耐え難い試練の中で私たちは苦しみ続け、やがては疲れ果ててしまいます。しかし、ヤコブはこの試練こそ私たちの信仰にとって大切なものであることを語ったのです。なぜなら試練こそが私たちを完全な者にすると彼は教えているからです(1章4節)。
どうして、試練は私たちを完全な者にすると言えるのでしょうか。なぜなら、私たちは試練を通して、この世の様々な偶像を頼る生活から離れ、ただ神を頼る者に変えられるからです。そのような意味で試練は私たちが本当に頼るべき方が誰であるかを教え、その方の元に私たちを導く働きをすると言えるのです。だから、苦しんでいる人が祈るということは、まさにその人が危険な場所から安全地帯である神の元に逃れるための大切な方法であると言えるのです。
昔、アブラハムの甥のロトとその一家は自分の住むソドムの町が神によって裁きを受け滅ぼされると言う知らせを受けました。彼らはその裁きから逃れるために小さな町に避難することを許されます。ところがロトの妻だけはかつての自分の生活を忘れられなかったのか、逃亡の途中に後ろを振り返ることで、その場で塩の柱にされてしまいました(創世記19章)。祈ると言うことは、後ろを振り返ることなく私たちの避難所である神の元に逃れる方法であると言えます。
そして試練を通して神の恵みをいただくことができる者は、この世の提供する喜びではなく、神が与えてくださる喜びを受けることができます。その喜びを体験する者は神をさらに讃美する者に変えられるのです。
②病と試練
ヤコブは続けて読者に語りかけます。
「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(14〜15節)。
私たちは自分の人生の中で様々な試練を体験します。その中でも多くの者が体験する試練こそ病気の問題であると言えるのです。ある日、突然に発症した病気によって今までの生活が一変してしまうと言うことが起こり得るからです。病気は私たちに病苦、つまり肉体的な苦しみを与えます。しかし病が私たちに与える苦しみはそれだけではありません。旧約聖書のヨブ記の主人公ヨブは激しい病苦に苦しめられますが、彼がヨブ記の中で語っている苦しみは肉体の苦しみでなく、心の苦しみ、霊的な苦しみでした。なぜなら病気は私たちを取りまく人間関係を一変させる可能性がありますし、神との関係も変えることになるかもしれないからです。
私は大学生の時に煩った病気のために長期間に渡って休学したことがあります。最初は大学の仲間が心配してわざわざ茨城の田舎まで私を訪ねて来てくれることもありました。しかし、私の休学が長くなるとそのような仲間との関係も徐々に途切れて行きました。私が後に復学したとき、かつての学友は皆、先に卒業して大学にはいませんでした。当時、私は自分だけが一人取り残された気持ちになったことを思い出します。
確かに医学は私たちの肉体から苦しみを取り除き、健康を回復させることができるかもしれません。しかし、病気を通して失われたもののすべてを医学は取り戻すことはできません。ヤコブはここで「主がその人を起き上がらせてくださいます」と語っています。彼は私たちを本当に癒すことができる方は神だけだと教えているのです。
3.長老のつとめ
①聖礼典の一つではなく、教会の牧会的行為
ところでヤコブはここで、病気で苦しむ者のために神に祈りなさい(13節)と教えるだけではなく、彼らに教会の長老を病床に招いて自分のために祈ってもらったらよいと勧めています。また、ここでヤコブは教会の長老たちにも病気で苦しむ者のところを訪ねてとりなしの祈りを献げるようにと勧めているのです。なぜならそれが教会の長老たちに神から委ねられた大切な任務であると考えているからです。
カトリック教会では私たちプロテスタント教会と違い、聖礼典の数が七つあると教えています。私たちは聖礼典と言えば洗礼と聖餐の二つしかないと信じているのですが、カトリック教会は他にも様々な礼典があると主張しているのです。その中の一つに「終油」、あるいは「病者の塗油」と言う儀式があります。神父が危篤の信徒の病床を訪れ、オリーブ油のような聖なる油を塗り、祈りを献げると言うものです。もっとも、第二バチカン公会議後はこの儀式の対象が危篤の信徒だけではなく、一般的な病気で苦しむ人に広がったと聞いています。そして彼らはこのヤコブ書の言葉を頼りにこの儀式の正当性を主張しているのです。
私たちはキリストの救いにあずかるために受けなければならない聖礼典は洗礼と聖餐の二つだと信じています。この二つは聖書の中で主イエスが明らかに私たちに守り続けるようにと命じているものだからです。それに対して、ヤコブがここで語る病気の人に油を塗って祈る行為は病気で苦しむ人々を助ける教会の牧会的な行為の一つとして教えていると考えることができるのです。その点でこの行為は洗礼や聖餐式とは全く違った意味を持ったものだと考えることができるのです。
②それでもあなたは大切な存在である
スイスで活躍したトゥルナイゼンと言う牧師はこのヤコブ書の講解説教の中で、長老が病気で苦しむ者のところを訪れてオリーブ油を塗り、とりなしの祈りを献げることについて大変興味深い解説を加えています。
なぜ、神は病気で苦しむ人の元に教会の長老を遣わそうとされるのでしょうか。このヤコブの言葉を読む私たちに対してトゥルナイゼンは「病者が教会の交わりから決して除外されていないと言う神のご意志を示すためだ」と語っています。
先ほども申しましたように病気は私たちから様々なものを奪っていきます。アドラー心理学の紹介者で有名な哲学者の岸見一郎氏はその著書の中で自分が心筋梗塞で倒れたときのことを取り上げながら、今まで自分が大切にしてきた仕事やそのほかの様々なものを失った上に、病気でベッドに寝たきりになった自分にとって「それでもなお、自分が幸せであると言えるとはどのようなことなのだろう」と改めて考え直す機会を得たと語っています。
私たちは普段、様々な人間関係の中で自分の居場所を確保しています。それは自分がその関係に対して何らかの寄与しているからです。会社で働く者はその会社の中で、家庭の中でも私たちは様々な勤めを持って自分の存在感を示しています。そこで何かをし、その集団に何らかの寄与をすることによって、自分はそこに存在してもいい、価値がある人間だということを確認することができるからです。ところが病気によって私たちは自分が今まで引き受けて来た働きを突然、果たせなくなってしまう可能性が生まれます。だから病気で寝たきりとなり、何もできなくなってしまうとき、それでも自分には生きていく価値があるのかと問わざるを得ない状況に誰もが立たされるのです。哲学者の岸見氏は自分が実際にそのような状況に立たされて、それでも自分が幸せであると言えるとしたら、その幸せとはいったいどのようなことなのかを問い直したと言うのですから、すごい人だと思わされました。きっと自分が同じような立場に立たされたら、自分にはそんなことを考える余裕はないのではないかと思ったからです。確かに、私たちのほとんどは病気で寝たきりとなったとき、それでも自分には生きて行く価値があるのだと思うことは難しいはずです。だからこそ私たちにはそのようなときに、自分の内側からではなく、外側からの助けが必要となるのです。トゥルナイゼンは長老たちが病者の元を訪ねる意味を、たとえ今、その人が病気で今までしていたことができなくなっていたとしても、神はその人を教会の交わりから決して除外してはいないこと教え、神の目から全くその人の価値は変わっていないし、大切な存在として取り扱われていることを示すためにあると語っているのです。ですから教会の長老たちがこの勤めを忠実に果たすとき彼らは神の癒しの御業ために用いられていると言えるのです。
4.病者にオリーブ油を塗る
①医療行為を通して癒しが実現するように祈る
トゥルナイゼンは教会の長老たちが病気の人のために「主の名によってオリーブ油」を塗ることについても興味深い解説を語っています。福音書によればイエスによって宣教旅行に派遣された12人の弟子たちも派遣された町で病人に油を塗って彼らを癒したという記録が残されています(マルコ6章13節)。ただ、トゥルナイゼンはこの油を塗る行為を魔術に使う道具のように考えてはならないと注意を促しています。なぜなら、古代において病気の人に油を塗ると言うのは医療行為の一部と見なされていたからです。現代でもアロマセラピーと言うのがありますが、この場合の油はそのような医療行為として考えてよいと言うのです。そこでこのヤコブの教えから私たちが適応できることは、油を塗ると言うことは、癒しのために積極的に医療行為を用いること、つまりその病人が医療の恩恵にあずかるように配慮することを意味すると考えてよいのです。
キリスト教会の一部では医療行為と信仰を対立的に捉える人々が今でもいるようです。しかし、少なくとも私たちの改革派教会ではそのような意味で信仰と医療の関係を考えることはありません。なぜなら、医療を含めた人間の科学技術もまた神から私たちに人類に与えられたものだと考えられているからです。つまり、私たちは医者が病気を治すと言うよりは、神が医者を使って病気を治すと考えているのです。その点で、私たちは病気の人が相応しい治療を受けることができるように配慮し、またその治療を通して病気が癒されることを積極的に祈るべきであると言えるのです。
教会は病気の人に薬や医療行為をすることはできませんが、それらが神によって用いられ、その人に癒しが与えられるように祈る大切な使命が与えられているのです。
②神の祝宴に連なっていることを示す
さらにトゥルナイゼンは病気の人にオリーブ油を塗ると言う行為には、もっと大切な霊的な意味が隠されているとも語っています。なぜなら、古代において油を塗るということは、祝宴に招待された者に施される行為であったと考えられているからです。つまり、病気で苦しんでいる者にオリーブ油を塗るのは、彼らがすでに天国の祝宴に確かにあずかる者とされていることを示す行為であると言えるのです。この礼拝の最初で司会者に詩編23編の言葉を朗読していただきました。ここで詩編の記者は次のように歌っています。
「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる」(5節)。
詩編記者は私たちの羊飼いである主がいつも共にいてくださって、自分を導いてくださることの幸いをこの詩の中で歌っています。だから彼は「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」(4節)とも歌うのです。病に苦しむ者を慰めるものはこの主が共にいてくださるという事実です。オリーブ油はこの事実を病気で苦しむ者に示す意味があると言うのです。そしてヤコブはさらに続けています。
「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(15〜16節)。
ヤコブがここで罪と赦しの問題に言及するのは、病気で苦しむ者に主との関係が確かであることを確信させるためです。私たちが自分の罪を深く感じるのは、主が共にいてくださるからです。聖霊がその罪を私たちに悟らせてくださるからです。神が近くにおられるからこそ、私たちは自分の罪深さと自分の不完全さを痛感せざるを得ないのです。そしてそのとき、私たちは私たちの罪のために死んでくださったイエスの救いのすばらしさをなおさら実感を持って思い起こすことができるのです。ですから「罪を告白し合い、互いのために祈る」とはこの主イエスの恵みを私たちが共に分かち合うためになされるべき行為であると言えるのです。
5.主が起き上がらせてくださる
ヤコブは私たちを癒す方は主なる神であることをここで明確に語っています。「主がその人を起き上がらせてくださいます」と私たちに教えているからです。主は癒しのために私たちに医療行為を与えてくださいます。また、苦しみの中でもなお、主が私たちと共にいてくださり、導いてくださるという恵みを示し、私たちに信仰の確信を与えてくださるのです。
先日の設立記念日の講演会の時にも皆さんと分かち合いましたが、聖書が言う「癒し」と医学的な癒しとの間には大きな違いが存在しています。医学はその人の病気の症状を少しでもやわらげ、また完治させて、元の状態に戻そうとすることを目的とし、それを「癒し」と呼んでいます。しかし、聖書の語る癒しはそのようなものではありません。聖書の語る癒しは全人格的なものです。神は私たちが病気で失ってしまったものを、肉体の健康だけではなく、すべてを回復させてくださるのです。いえ、神の癒しは私たちが病気で失ってしまった以上の祝福を私たちに与えてくださるのです。
「主がその人を起き上がらせてくださいます」とヤコブはここで語ります。中風のために床から立ち上がることもできない人が、その床ごと友人によって運ばれてイエスの元にやって来たことがあります(マルコ2章1〜12節)。そして、その人はイエスによって病が癒され、その場で立ち上がり、自分で床を担いで返って行きました。イエスは今でも、私たちの病を癒し、私たちを再び立ち上がらせてくださることがおできになる方です。しかし、この「立ち上がらせてくださる」という言葉は私たちの病気が一時的に回復するようなことだけを意味しているのではないと思います。なぜなら、私たちはたとえこの世でやがて死を迎えても、終わりの日に主によって再び「立ち上がらせて」いただく復活の希望を持っているからです。そのような意味で、ヤコブが語る癒しは、私たちの病気が完治する以上に、私たちが主イエスの恵みによって身も心もすべてが癒され、完全な者とされる「癒し」のことを語っているとも考えることができるのです。そして私たちはこの癒しのために神に祈りを献げ、お互いに執り成しの祈りを献げる必要があるとヤコブは教えているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
あなたが私たちの真の癒し主であることを覚え、心から感謝を献げます。この世の価値観や評価にとは違い、あなたは私たちが病の故に何もできなくなったとしても、その愛を変えることはありません。むしろ、私たちに希望を与え、私たちの心を癒してくださる方であることを覚えます。どうか私たちが互いに祈り合うことによって、また仕え合うことによって、あなたに希望を起き、あなたの完全な癒しである私たちの救いの完成の日を待ち望むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.ヤコブは苦しんでいる人に何を、喜んでいる人に何をすることをそれぞれ勧めていますか(13節)。
2.ヤコブは病気の人に教会の長老を招いて何をしてもらいなさいと勧めていますか(14節)。
3.さらに彼は私たちに信仰に基づく祈りは何を実現させると教えていますか(15節)。
4.罪を告白し合い、互いのために祈る(16節)ことはどうして私たちに取って大切なことなのですか。
5.ヤコブは真理から迷い出た人を真理に連れ戻すことが重要な訳をどのように説明していますか(19〜20節)。
6.あなたは今までヤコブの手紙を学んで来て、どのような感想を持ちましたか。ヤコブの手紙は新約聖書の他の文章とどのような点で共通した教えを語っていると思いますか。また、ヤコブの手紙の教えから自分の信仰生活について学ぶことができた点がありますか。
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