2017.6.11 説教 「御名があがめられますように」
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聖書箇所
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ヨハネによる福音書12章28節
父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
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説 教 |
1.誰もが幸せになりたいと思っている
最近、哲学者の岸見一郎氏の書かれた「幸福の哲学」と言う題名の本を読みました。この本の中で岸見氏は「誰もが幸福になりたいと思っている」、つまり「自分から不幸になりたいと願う人は一人もいない」と言っています。しかし、実際に「自分は幸せだ」と確信を持って言える人は私たちの内にどれだけいるでしょうか。むしろ逆に、「自分は不幸だ」と思い込んでいる人も多いはずです。それだけではありません。この世には誰から見ても自己破壊的な生き方をしている人が多数存在しています。そんなことをしていたら益々、自分が不幸になるのは目に見えているではないかと思うような人が多く存在するのです。しかし、「幸福の哲学」の著者はそのような人々も「自分は幸福になりたい」と思いながら生きていると言うのです。
それではなぜ、私たちは自分の思っている通りに幸福になることができないのでしょうか。それはその方法を間違って選択しているからだと言うのです。私たちは幸福になろうと考えながら、誤って不幸になる方法を選択しているのです。ですから私たちが幸福になるためには、私たちがどこでその選択を誤ってしまっているのか究明する必要があるのです。
私たちは「このようになれば、自分の人生は幸せになれる」。そのような自分の人生の設計図をそれぞれ持っているのではないでしょうか。そして私たちはその設計図が実現するために日夜努力しているのです。そして自分の力だけでは自分の思い描いた設計図が完成できないと考えるとき、人に助けを求めたり、さらには神に助けを求めるために祈りを献げるということもするのです。
以前、教会に一人の人がやって来ました。その方はご自分で深刻な精神的な病を抱えて、その苦しみから救われるために教会に来られたようでした。しかし教会に来られて一、二回、礼拝に出席された後でその方は来られなくなりました。しばらくして、教会から礼拝へのお誘いの手紙を送ったところ、その方から丁寧な手紙を受け取りました。その手紙には「実は最近、自分の病気を治してくれる神さまを見つけたので、自分はその宗教を信じることにしました。だから教会に行く必要がなくなりました」と言う内容が書かれていました。私はこの手紙を読んで、ちょっと複雑な気持ちになったことを思い出します。その方に神の福音についてうまく伝えることができなかった後悔もありましたが、それ以上に本当にその方はそれで幸せになったのだろうかと思えたからです。
2.神についての祈りが先になる主の祈りの構造
①まず神のために、そして自分たちのために
主イエスは私たちが神に祈るために「主の祈り」を教えてくださいました。それは自分の幸福のために何を神に願い求めればよいのかさえ分らないで、むしろ誤った願いを持ち続け、自分をむしろ不幸にしてしまう私たち対して、正しい祈りを教えることで、私たちが本当に幸せになる道を教えるためでした。
この主の祈りの文章を読んで私たちが一番に驚くべきことは、この祈りが神のための祈りから始められていることです。おそらく、私たちは最初に自分の願い事を祈るはずです。そして、その願いを上げたあとで、余裕があれば自分以外の誰かのために祈ることもします。しかし、イエスの教えて下さった主の祈りの優先順位は私たちの祈りとは違って、神のために祈る言葉から始まるのです。
主の祈りの文章は「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように」とまず祈るようにと教えています。そしてその後で、やっと「わたしたちに今日もこの日のかてをお与えください」と祈るのです。つまりイエスはこの主の祈りを通して私たちが自分のためではなく、神のために祈ることが大切であること、回り道のようですが、これこそが私たちの人生を幸福に導く鍵だと教えているのです。
②私たちの人生は神のみ業の上に建てられる
それではなぜ私たちは主の祈りが教えるように、まず神のために祈る必要があるのでしょうか。それは私たちの人生のすべてがこの神のみ業の上に成り立っているからです。宗教改革者のカルヴァンは「神を知ることこそ、私たちが自分自身を知る最善の方法だ」と教えたと言います。私たち人間は神に造られた被造物ですから、その人間を一番よく知っているのは神御自身ですから、その方を知ることが自分を知る一番の方法となるのです。これと同じように私たちの人生もこの神のみ業の上にすべてが建てられていると考えてよいのです。それならば私たちが神のために祈るということは、私たちの人生のためであると言うこともできるのです。どんなに美しい建築物も、しっかりとした基礎の上に建てられていなければ、簡単に壊れてしまう可能性があります。私たちの人生も同じです、どんなに見かけはすばらしく見えても、その人生の基礎が神のみ業の上に建てられていなかれば、すぐに崩れてしまうしかありません。そのような意味で神のために祈ることは、私たちの人生を確かにするために最も大切なことだと言えるのです。イエスの教えてくださった主の祈りは、まさにこの点で、私たちの人生のために献げることのできる最もよい祈りであると言うことができます。
しかし、そもそも私たちが神のために祈ると言うことはどのような意味を持っているのでしょうか。それは全能の神が私たちの祈りの助けを必要としていると言うことなのでしょうか。そうなると神は私たちの助けなしには何もできない方となってしまうことになり、全能者とは言えなくなってしまいます。それでは私たちが神のために祈るとはどのようなことなのか。ここで主の祈りの「御名があがめられるように」と言う最初の祈りの文章を手がかりにこのことについて考えて行きたいと思うのです。
3.神のみ名があがめられるように
①神の御名がふさわしく取り扱われるように
「御名があがめられるように」。この祈りはいったいどのような意味を持っているのでしょうか。まず「御名」と言う言葉ですが、これは神の名前のことです。そして「あがめられるように」と言う言葉には「聖(きよい)ものとなるように」と言う意味があります。この「聖(きよい)」は神だけが完璧に持っておられる性質です。ですから、この神の言葉が記されている書物は「聖書」と呼ばれます。またこの神に選ばれて教会に集められている私たちは「聖徒」と呼ばれるのです。これらのものは神との関係を表すものとして「聖」と言う言葉が使われているのです。そうなるとこの神の名を「聖(きよい)ものとしてくださるように」は、「神の名がその名にふさわしいものとなるように」ということを意味していると言うことになるはずです。
皆さんもご存知のように旧約聖書には私たちの信仰の指針となるべき教えとして、モーセの十戒と言う掟が記されています。このモーセの十戒も私たちが幸福に生きるために神が与えてくださったものであると考えることができます。その十戒の第三戒には「主の名をみだりにとなえてはならない」と言う教えが記されています。この第三戒は「主の名を私たちがふさわしく取り扱うように」と教えている所から、主の祈りの「御名があがめられるよう」という言葉と同じように意味を持っていることが分ります。つまり、「御名があがめられるように」と言う願いは私たち自身の生活の場で、モーセの十戒の第三戒が教えているように神の名がふさわしく取り扱われるようという願いであると言ってよいのです。
②それは神の名を口にしないことか?
昔からユダヤ人たちはモーセの第三戒を厳格に守るために、神の名前を口にすることを禁じてきました。実は旧約聖書の中には神の名を意味する言葉がちゃんと書き記されています。ところがユダヤ人たちはその名をむやみに口にすることを恐れるあまり、この名前のところを避けて聖書を読むようになったのです。彼らはその名前が記されているところを読むときは代わりに「わたしの主」と言う言葉を置き換えて読むようにしたのです。ヘブライ語に馴染のない方は分かり難いかも知れませんが、ヘブライ語の文字はすべて子音を表す言葉で表記されていています。そこで私たちが子どもの時に漢字の読み方を学ぶように、子音だけで表記された聖書の言葉も子どものときから読み方を教えてもらっていれば読むことができるのです。ところが、この神の名前だけは別です、最初は読み方があったはずなのに、誰もその言葉を読むことを辞め、誰にも教えることをしなかったのです。だから聖書には「YHWH」と言う文字は書かれていても、その文字をどう読んだらよいのか分らなくなってしまったのです。このため今や神の名前をどのように読むべきなのか誰も知ることのできないミステリーが生まれてしまったのです。
しかし、「御名があがめられるように」と言う祈りの本当の意味は、私たちが神の名を絶対に口にしないと言う意味ではないのです。むしろ、もっと積極的に神の名を私たちがふさわしく取り扱うようにという意味を持った祈りだと言えるのです。
4.神のみ名があがめられるためには
①神の計画が実現するように祈る
それでは私たちが神の名をふさわしく取り扱うとはどのようなことなのでしょうか。そのことを知るために私たちはこの神の名を最も大切にして生きた私たちの主イエスから学ぶ必要があると思います。今月の月間聖句のヨハネによる福音書12章28節にはこのイエスの祈りの言葉が取り上げられています。
「父よ、御名の栄光を現してください」。
この言葉は主イエス自身が父なる神に献げられた祈りの言葉です。主の祈りの言葉とは少し内容が違っていますが、イエスはここで「御名があがめられますように」と祈っていると理解してよいのです。少しこのイエスの祈りの言葉を理解するためにこの直前の言葉である27節も読んで見ましょう。
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」(12章27節)
このときイエスは御自身の十字架の死をはっきりと意識されていました。イエスの死は私たち人間を救うために神が建てられた計画の内で最も大切な出来事でした。神のひとり子であったイエスはこのために地上に来てくださったとも言えるからです。しかしだからと言ってこの十字架の死はイエスにとって簡単なものであった訳ではありません。むしろこのイエスの死は私たちに人間の罪とその呪いを全て引き受けられるための死でしたから、一人の人間の死とは比べものにならないほどの苦痛を伴うものであったと考えることができます。そしてイエスはここで素直に御自身の苦悩を語り、父なる神に助けを求めているのです。この祈りの結果、イエスが得ることが出来た答えが「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と言うものだったと言うのです。つまり、イエスにとって「御名の栄光を現わしてください」と言う願いは、神の計画が自分の人生を通して実現されるようにと言う祈りだったのです。その計画が実現されれば、その計画を建てられた神の御名の素晴らしさがすべての人々に知れ渡ることになるからです。
こう考えると「御名をあがめさせたまえ」と言う祈りは、私たちの人生を通して神の名のすばらしさが実現するように、そのために私たちの人生が神の計画のために用いられるようにと言う願いを表す祈りであることが分ります。
②大切な決断
それでは私たちが自分の人生を通して神の計画が実現するために私たちはどうしたらよいのでしょうか。まず大切なのは私たち自身がまず私たち自身のために神が立てて下さった計画を自分で理解する必要があります。そのために私たちは私たちのために神がどのような計画を持っておられるのか、私たちの人生を通して神は何を実現されようとしているのかを聖書のみ言葉を通して確かめる必要があるのです。自分の勝手な思い込みではなく、まず神の計画を知るために私たちは聖書の言葉を学び続ける必要があります。
第二に必要なことは私たちのために天から遣わされる聖霊が豊かに働いてくださることを祈り求め、進んでその聖霊の働きに私たち自身が自分の人生を委ねていくことが大切です。聖霊はこの地上で主イエスを導いて、父なる神の計画が実現するように働かれた霊です。その同じ霊が私たちの人生に働いてくださるならば、私たちもまた主イエスと同じように、神の計画実現のために生きることができるのです。
主イエスの教えてくださった主の祈りに従って、私たちが「御名があがめられるように」と祈るとき、神は聖霊を私たちに遣わしてくださいます。そして私たちの人生を通して実現されようとされている神の計画を私たちに明らかにし、その計画が実現できるようにと助けてくださるのです。このように私たちが本当に幸せになるためには、神の御名があがめられるようにと祈り、そのために人生の決断をしていくことが大切であることを主イエスは主の祈りを通して教えてくださっているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
「み名があがめられますように」。私たちは今日もイエスが教えてくださったこの主の祈りを祈ります。どうか私たちがあなたの計画に従って生きることができるようにしてください。そうすれば私たちの人生の本当の価値が表され、その私たちを造ってくださったあなたのみ名のすばらしさが明らかにされます。どうかそのために私たちが聖書のみ言葉に耳を傾け、聖霊の助けを受けて生きることができるようにしてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.あなたは自分が幸せになるためには何が必要であると今まで考えてきましたか。
2.多くの人が自分の幸せを実感できないのは、どこに問題があるとあなたは思いますか。
3.イエスの教えてくださった主の祈りの構造を通して、わたしたちが気づくことは何ですか。
4.どうして自分の願いではなく、神のために祈ることが私たちの人生のために大切だと言えるのですか。
5.神の「御名があがめられる」ためにあなたはどうしたらよいと思いますか。
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