2017.6.25 説教 「霊はイエスを荒れ野に送り出した」


聖書箇所

マルコによる福音書1章12〜13節
12 それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


説 教

1.私たちの代表として生きられた主イエス

 私が洗礼を受けたのは21歳の時でした、その時からもう40年近い歳月が流れました。しかし、当時の記憶はまだ私の脳裏に鮮明に残っています。白い服を着せられ、教会堂の中にあった木製の風呂桶の中に座らされ、その上で頭を押さえつけられて水に浸かりました。季節はもう10月でしたのでとても風呂桶の水が冷たかったことを思い出します。「洗礼を受けたら何かが変わるかもしれない」。聖書の物語に記されているような奇跡が自分の人生にも起こることを期待していましたが、その期待とは裏腹に、水から上がっても何の変化もありませんでした。イエスの洗礼の時のように聖霊が鳩のように下ってくることもありませんでしたし、「あなたは今日から私の愛する子どもだ」と言ってくださる神の声も聞くこともできませんでした。「洗礼を受けても何も変わらないんだ」と当時、考えていた私でした。ところが今考え直して見ると実際はそうではなかったことに気づきます。なぜなら、この洗礼を境に私の人生は大きく変わらざるをえなくなったからで。
 日曜日と言えば朝から家でゆっくり寝ていることが自分の長い間の習慣でした。ところが洗礼を受けてキリスト者になってからは日曜日の朝も早起きして教会の礼拝に出席しなければならなくなりました。それだけではありません。今まで当たり前のように過ごしてきた自分の生活習慣も「キリスト者としてふさわしいものかどうか」と言うことを考え直す必要が生まれました。その上で、自分の生活習慣が変わると、今までつきあってきた人間関係も変わって行きます。信仰を持たない家族や友人の間でも今までは起こらなかったトラブルが生じることとなりました。誰かが語ったように「洗礼は信仰生活のゴールではなく、出発点でしかない」と言う言葉が身にしみて分るような体験を繰り返しすることになったのです。
 前回、学びましたように私たちの主イエスもヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。イエスの受けた洗礼の意味は、罪を持った人間が受ける洗礼とは大きく異なっていました。なぜならば罪を犯すことがなかったイエスには悔い改めをする必要は全く存在しないからです。それなのになぜ、イエスはヨハネの元で悔い改めを示す洗礼を受けられたのでしょうか。それは私たちを救うためでした。イエスは罪人である人間を代表してヨハネから洗礼を受けられたと言うことを前回私たちは学んだはずなのです。今日の部分でイエスは荒れ野でサタンの誘惑を受けられています。イエスの洗礼が私たちのためのものであったように、この誘惑も私たちのためのものであったと考えることができます。私たちはそのことを覚えながら今日の聖書箇所を学びたいと思うのです。

2.荒れ野に導く聖霊

 マルコは「それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)と語っています。この「それから」と言う言葉は原文では「すぐに」とか「直ちに」と言った意味を持った言葉であるようです。洗礼を受けられたイエスは、すぐに神の霊、聖霊によって導かれ「荒れ野」に送りだされたと言うのです。私たちもまた信仰を告白して「洗礼」を受けるとすぐに、信仰の戦いの中に送り出されます。そこで私たちは信仰者としてふさわしいものとなるために訓練を受けなければならないのです。信仰の戦いは私たちにとって無意味なものではありません。むしろ、キリストの豊かな恵みを受けるために、私たちは試練を通してそれにふさわしい者として変えられて行くのです 
 先日、フレンドシップアワーで旧約聖書の民数記から学ぶことができました。約束の地を偵察して帰って来た人々はヨシュアとカレブの二人を除いて皆、「あんなところに行ったら自分たちは殺されてしまう」と報告します。そしてイスラエルの民はこの報告を信じ、「きっと、神の力で勝利することができる」と語るヨシュアとカレブの報告を拒否してしまうのです。この彼らの決断の結果、イスラエルの多くの民は40年間の荒れ野の旅の中で死に絶え、約束の地に入ることができなくなってしまいます。約束の地に入ったのはヨシュアとカレブと、民がこの決断をしたときに、まだ幼なくて自分の意志を示すことができずいた未成年者たちだけでした。しかし、この人々も約束の地に入るために40年の歳月を費やさなければならなかったことは同じです。その理由について聖書の解説者は大変興味深い話をしています。彼らの40年は彼ら自身のセルフイメージを変えるために必要だったと言うのです。なぜならイスラエルの民は長い間、エジプトで奴隷としての生活を送っていました。その中で彼らはいつの間にか奴隷としてのセルフイメージを持つようになっていったのです。その奴隷のセルフイメージから神の子としてのセルフイメージに変わるためには、40年の間、彼らは荒れ野で神から厳しい訓練を受けなければならなかったと言うのです。私たちの信仰の戦いも同様です。私たちが慣れ親しんできた古い罪の奴隷としてのセルフイメージから、神の子にふさわしいセルフイメージに変わるために、私たちは日々、神の訓練を受けなければならないのです。聖霊は無責任な方ではありません。洗礼を受けて神の子とされた私たちをずっとケアーし続け、神の子にふさわしいものとしてくださるのです。そのために聖霊は私たちをも荒れ野に導かれるのです。

3.イエスがたどられた道

 私は高校生のとき、筑波山に登って道を見失い遭難しそうになったことがあります。子どものころからよく知っている山でしたので、甘く見ていたところもありました。先に行った友達を別の道を見つけて追いつこうとしたことが私の失敗の原因です。しばらく行くと、道らしい道がなくなり、雑木林の中で堆積した枯れ葉の中に足がはまって容易に進むこともできなくなりました。その後、右往左往しながらしばらくして登山道にやっと戻ることができました。森から出てきて傷だらけになった私の姿を見て、友人たちはびっくりするのではなく、大笑いしていたことを思い出します。
 私たちは厳しい試練の中でこれからどう進んでいけばよいかを悩むことがあります。道を見失った遭難者のように、先に進むことができなくなってしまうのです。しかし、聖書は私たちに次のように語っています。

 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4章15〜16節)。

 このみ言葉によれば、すでにイエスは私たちが受ける試練と同じものを体験してくださっていると言うのです。だからこのイエスによって道は既に作られていると言ってよいのです。どんなに厳しい試練の中でも私たちはイエスが先にたどった道を見いだすことができますし、その道を歩んでいけばよいのです。私たちは試練に出会うとき、聖書の中に記されているイエスのたどられた道を調べ、その道に従って歩むならば決して遭難することはないのです。
 しかも、このヘブライ人への手紙は私たちの主イエスは私たちに同情し、私たちを助けて下さる方であるとも説明しています。イエスは私たちのような無力な者たちが試練の中で道に迷うとき、「何だ、そんなことで悩んでいるのか」と非難されたり、「それではだめだ」と見放されることは決してないのです。むしろ、私たちを試練の中で助けて下さる方が私たちの主イエスであり、そのためにイエスは私たちに先立って試練を受けられたと言うのです。

4.イエスは神の子、私たちの救い主
①天使たちが仕えた

 マルコの福音書はイエスの荒れ野の誘惑を極めて簡単に記しています。マタイやルカのようにそこで悪魔がイエスに対して何をしたか一切説明していません。そのマルコは次に不思議な言葉を記しています。
 「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。
 マルコによる福音書は四つの福音書の中で最も古い時期に記された書物であると考えられています。この後に記されたマタイやルカはこのマルコによる福音書を読んだ上で、さらにイエスに関する別の資料を用いて自分たちの福音書を記したと考えられているのです。たとえばマタイやルカはこの荒れ野の誘惑についても悪魔がどのようにイエスに近づき、どのような言葉を語り、それに対してイエスがどのように答えたかまで詳しく記しています(マタイ4章1〜11節、ルカ4章1〜13節)。しかし、マルコはそれらの出来事を一切ここで触れてはいないのです。ただ、イエスは荒れ野でサタンから誘惑をうけたとだけ記しているのです。
 マルコの福音書の記述の簡潔さはイエスの生涯をヨルダン川での洗礼の出来事から書き始めることにも現れています。このマルコに対して他の二つの福音書はそれよりもっと以前のイエスの誕生にまつわる不思議な出来事を記すことで福音書を始めています。ある人は「もし、自分たちがマルコによる福音書しか知らなかったら、きっとクリスマスをお祝いする習慣は生まれてこなかっただろう」と語ります。マタイやルカはイエスの誕生にまつわる不思議な出来事を記すことで、イエスが神の子であることを読者に知らせようとしています。それではマルコはどうなのでしょうか。マルコにとってはイエスが神の子であると言う事実は、人々に伝えるべき大切な事柄ではないのでしょうか。そうではありません、マルコもまたイエスが神の子であることを別の方法で伝えようとしているのです。それが荒れ野でイエスに天使が仕えると言う簡単な表現を通して示されているのです。マルコはイエスこそ神から私たちの元に遣わされた救い主であり、真の神のひとり子であることをこの天使の存在を通して教えようとしているのです。

②野獣が一緒にいた

 また、マルコがここで記した「野獣と一緒におられた」と言う表現にもある内容が示されていると考えられています。旧約聖書のイザヤ書の預言では救い主によって実現される新しい世界の姿が次のように記されているかれらです。

 「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる」(イザヤ11章6〜8節)。

 ときどき動物園で飼育係が飼われていたライオンにかみ殺されたとか、ぞうに踏みつぶされて大けがをしたというニュースを聞くことがあります。野獣は本来危険な動物ですから、人間が一緒にいることはできません。しかし、神が実現してくださる新しい世界ではその野獣と人間が一緒になって平和に過ごすことができるとイザヤは預言しているのです。荒れ野で野獣がイエスと共におられたという表現はイエスがやがて実現してくださる救いの世界を先取りして示すものと考えられるのです。

5.イエスの勝利を信じて生きる

 イエスとサタンとの戦いはこの荒れ野で決着がつくものではありませんでした。サタンはこの後もイエスにつきまとい、神の救いのみ業がこのイエスを通して実現されることを阻止しようとしたのです。しかし、彼らの抵抗は虚しいものでしかありませんでした、どんなに抵抗しても彼らはイエスに勝利することはできませんでした。むしろ、神の計画はこの悪魔の悪しき業を通しても実現されたのです。イエスが十字架にかかり死んだとき、サタンたちは大喜びしたかもしれません。「これでイエスはいなくなった。自分たちの勝利だ」と彼らが思ったとき、イエスは墓から甦り、悪魔に対する完全な勝利を宣言してくださったのです。
 先ほど、私たちの受ける試練は既にイエスが受けてくださっていると言うことを学びました。だから私たちは彼の足跡を辿って、試練に勝利することができると言えるのです。また、同じ試練を経験されたイエスは試練の中で苦しむ私たちに心からの同情を覚え、私たちに救いの手をさしのべてくださる方なのです。しかし、聖書には私たちが覚えるべきもっと重要な出来事が記されています。イエスは私たちの代表としてその生涯に渡ってサタンと戦ってくださり、サタンに対して勝利を勝ち取ってくださったのです。ですから既に悪魔はイエスに敗北しているのです。そしてイエスのこの勝利によって、イエスを信じて彼に従う私たちにも勝利が約束されているのです。
 私たちの信仰の戦いは今もなお続いています。しかし、その戦いの中で最も私たちを勇気づけるのはこのイエスの勝利です。イエスは私たちに次のように約束してくださっています。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
 イスラエルの民の失敗は自分たちの経験だけで物事を判断しようとしたことにありました。だから彼らは、「自分たちは決して約束の地には入ることができない」と伝える斥候たちの言葉を信じてしまったのです。しかし、私たちに大切なのは神の約束を信じて従う信仰です。「イエスは既に世に勝っておられる」。私たちはこの約束の言葉を抱きながらこれからも信仰の戦いを続けて行きたいと思います。


祈 祷

天の父なる神さま
 地上の生活の中ですっかり負け癖が付いている私たちはその古いセルフイメージから物事を判断してしまう愚かな者たちです。しかし、あなたはそのような私たちを聖霊によって導き、神の子としてふさわしく生きることができるようにしてくださいます。私たちが信仰の戦いを戦い、神の子とセルフイメージを持ち、イエスの勝利によってもたらされた、確信を自らのものとすることができるようにしてください。試練の中でもすべての試練を体験されたイエスを思いだし、その同じ道を辿って行けるように私たちを導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたイエスは、その後誰によって、どこに送り出されましたか(12節)。
2.イエスはそこで何日間とどまり、どんな体験をされましたか。そこでイエスと共にいたのは誰でしたか(13節)
3.どうしてイエスは荒れ野でサタンから誘惑に受けなければならなかったのでしょうか。このイエスの受けられた誘惑は、私たちの信仰生活の戦いとどのように関係しているとあなたは思いますか。