2017.7.16 説教 「老いと死を考える」
|
聖書箇所
|
イザヤ書46章3〜4節
「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
|
説 教 |
1.老いを考える
①コヘレトの言葉
旧約聖書の中には「コヘレトの言葉」と言う文書が収められています。以前の聖書では「伝道者の書」と言う題名で呼ばれて、親しまれていたものです。このコヘレトの言葉の最後の章は「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。」と言う言葉で始まっています。実はこの後に続く、謎のような言葉は皆人間の老化によっておこる現象を語っていると考えられています。
「その日には/家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ/窓から眺める女の目はかすむ」(3節)。
年を取ると手足が震え、腰も曲がります。「粉ひく女」とは食物を咀嚼するために必要な人間の歯を意味しており、老人の歯が無くなってしまうことを意味しています。また視力も落ち、白内障のような症状になればすべてのものは「かすんで」見えるようになります。
「通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。」(4節)
この部分は人間の聴力が衰えていく姿を語っていると考えられています。
「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある」(5節)。
この言葉は年を取れば歩くことさえ困難となり、階段を上ることさえ恐怖を覚えるようになると言っているのです。こんなふうにコヘレトの言葉を続いています。コヘレトはここで人間が年齢を重ねて様々な機能が衰えていく姿を客観的に語っているのです。ただ、コヘレトは人が青春の日々に創造主を覚えることによって、これらの機能の衰えは変わることがなくても、充実した人生を送ることができると教えます。そしてもし、人が創造主を覚えることができなければその人生はすべて「空しい」ものになってしまうと彼は警告しているのです。
②社会的孤独
人間としてこの地上に生まれた者は、誰でもかならず年齢を重ねていかなければなりません。そして人は老年を迎えれば、コヘレトの言葉が語っているように身体の様々な機能が奪われていくと言う経験をして行かなければなりません。健康が奪われ、自分の身体の機能が少しずつ奪われていくことだけでも、私たちの心を不安にさせる材料になります。しかし、もっと私たち取って深刻な問題は、これらの身体の機能が低下すことによって、自分が今まですることができてきたことができなくなってしまうと言う現実です。私たちは家族や職場、社会に属するとき、自分の持っている能力を使いその集団に何らかの貢献を果すことで、自分の存在理由を見いだそうとしています。だからもし、私たちが今までできていた仕事をすることが不可能になれば、私たちの価値は無くなってしまうのでないかと思ってしまうのです。そのような意味で私たちの脳裏には自分が年を取って身体が弱っていくことは、家族や社会から必要の無い者とされ、邪魔者として取り扱われることになると言う不安が消え去らないのです。
日本の各地には「姥捨て山」と言うような悲しい伝説が残されています。年をとって何も出来なくなった老人を、山に捨てに行くというお話です。きっと昔の日本にはこれに似たような悲しい現実があったのかもしれません。しかし、私たちはこの話を決して昔話だけだとは考えることができないのです。私が母を介護施設に入居させようとしたときに、母に「どうせ姥捨て山に連れて行くんだろう」と言われたことを今でも思い出します。あのとき母は「自分はもう家族から必要とされていないのだ」と感じていたのかもしません。
かつてノーベル賞を受賞したマザー・テレサはある介護施設を見学したときの話を次のように語っていました。ありとあらゆる設備が整っている高級な施設を一通り見学し終わった後、入居者たちがくつろぐ集合スペースを訪れたとき、マザー・テレサはそこで一つのことに気づきました。そこにいる人々は皆、一日中ぼんやり座って、ある場所を見つめているのです。マザー・テレサはそのことについて施設の案内人に尋ねました。「あの人たちは一日中あそこに座って何をしているのですか」。すると案内人は「ああ、彼らはずっと玄関のドアを見続けているのですよ。彼らは一日中、あのドアを見ながら、自分の家族の誰かが尋ねて来るのを待っているのです。」人もうらやむような高級な施設に入ることができだとしても、それだけで人は幸せになることはできません。なぜなら、人間は自分が誰かに必要とされているということを感じることができなければ、生きる希望を持つことができないからです。
2.聖書が教える人間の老い
①神の愛の対象である老人
もし、私たちが年を取って身体の機能が奪われることが、私たちの人間としての価値を下げ、私たちの存在の意味を無くすものだとしたら、「老いる」と言うことは私たちにとって恐怖以外のなにものでもなくなってしまいます。本当に私たちは「老いる」ことで私たちが今まで持ち続けて来た人間としての価値を失ってしまうことになるのでしょうか。今日の礼拝の聖書箇所とされているイザヤ書の言葉を読むと、聖書はそう言っていないことが分ります。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
この言葉によれば、神の私たちに対する態度は私たちが生まれたときから、年を重ねて、老いていったとしても少しも変りがないと言っているのです。私たちに対する神の見方が変わらないと言うことは、神の私たちに対する評価は一貫して変わることがないと言うことを伝えてもいます。つまり、私たちがたとえ年を取ったとしても神の私たちに対する愛は変わらないのです。そればかりではありません。聖書は年老いた人に対してむしろ神が特別な関心を持っておられることを次のように紹介しています。
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ記19章32節)。
聖書の言葉が教えているように、神は年老いた高齢者を愛し、受入れ、尊敬するようにと私たちに勧めています。おそらくこの命令は人間ができることを通してその人の価値を考えようとするこの世の価値観と違い、神の特別の愛情の対象である年老いた人々をイスラエルの人々も同じように愛の対象としなければならないと教えているのです。つまり、年老いた者も若い者もその人の本当の価値は変わることのないのです。なぜならは人とその生涯は一貫して神の愛の対象であるからです。
「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう」。
私たちを支えるのはこの世の変わりやすい価値規準ではありません。私たちに対する神の愛が変わらないように、私たちの人間としての価値はいつまでも変わることがと言えるのです。
②神からの使命が無くなった訳ではない
しかし、私たちは一方で早合点をして「自分は年を取ってしまったので、もう何もできない」と勝手に思い込んでしまっているかもしれません。ところがそれもまた私たちの犯す間違いであると言えるのです。なぜなら、神が命を与えてくださっている者はすべて、同時にこの世に生きる意味、つまり使命が神から与えられているからです。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、「本当だったら自分は一日でも早くこの世を去ってキリストの元に行きたいと思っている」と語っています。しかし、実際にパウロは今も神によってこの地上に生かされていると言う現実を見たときに、彼はその理由を「この地上で果すべき使命が残されているからだ」と考えているのです。神によって生かされている私たちは皆、誰かに必要とされているとパウロは語るのです(1章21〜24節)。
神によって今、私たちが生かされていると言うことは、なを、私たちがこの地上に止まって果すべき任務が神から与えられていると言うことを意味します。確かにそれは今までと同じことをすることはでないかもしれません。しかし、私たちには年老いた今だからできることもあるのです。私たちの人間としての価値は死ぬまで変わることはありません。神は私たちが地上に止まる限り、私たちがしなければならない使命を与えてくださっているのからです。神が私たちに預けてくださったタラントンはまだ十分に使われてはいないのです(マタイ25章14〜30節参照)。
3.死を考える
医療に携わる者にとって人間の死は、医学の敗北と考えられていると言います。だから、医学は無意味と言えるような延命処置を人間に施したとしても、それを疑問に思うことが無いのだと長くホスピスの活動に携わったクリスチャンの医師がある本の中で語っていました。確かに高度に発達した医療器具は、たとえ無意識となって、植物人間になっても人間の命を人工的に長らえることができます。しかし、それが本当に生きていると言うことなのかどうかについて医学は答えを持っていないのです。医学が考えるように果たして本当に人間の死は、私たちの人生にとって敗北であると言えるのでしょうか。人間の死について聖書は何を教えているのでしょうか。
簡単に整理すると聖書、人間の死について三つの捉え方をしています。
第一は文字通り、私たちの肉体の死、この地上の命の終わりのときを意味する死と言う現実です。医学が関わることのできる死がこれあると言えます。しかし、どんなに医学の力が進んだとしても、この死の現実を医学は完全に克服し、勝利することはできません。
聖書が教える第二の死は「霊的な死」と言う現実です。これは言葉を換えれば私たち人間と神との関係を表す死です。なぜならもし、私たちと神との関係が断絶しているなら、本当の意味で人間は生きていくことはできないからです。生きているようには見えても、実は霊的に死んだ状態であることをこの死は意味しています。
聖書はアダムとエバの犯した罪によって人間と神との正しい関係が断絶してしまったことを教えています。ですから、このアダムとエバの子孫として生まれた人類はすべて、そのままでは霊的に死んだ状態のままなのです。そしてこの霊的な死こそが、第一の肉体の死を生み出した原因であるとも聖書は教えています。つまり、人間はアダムのエバの罪により、肉体的にも霊的にも死を免れ得ない存在となってしまったのです。
さらに聖書が教える第三の死は「永遠の死」です。これは神との関係が回復されない人間が最後の裁きの時に味わうことになる神との永遠の断絶状態を表しています。
これらの死の中で聖書がおもに取り扱う死は第二の「霊的な死」の問題です。なぜなら人間の命はその命の源である神との関係なくしては一時たりとも存在することができないからです。そしてこの霊的な死の状態を解決するために、私たちの救い主イエスがこの地上に来られ、その救いのみ業を実現してくださったのです。このイエスの十字架のみ業を通して私たち人間の罪は解決され、私たち人間と神との関係が正しくされたのです。それによって私たちは霊的な死の状態から、霊的に生きた状態に生まれ変わることができたのです。そしてこのイエスのみ業は私たちを「永遠の死」から救い出し、さらには私たちに「永遠の命」を与えるものとなったのです。
聖書は、このイエスによって人間の死が滅ぼされたと告げています。敗北したのはむしろ死のほうであったことを聖書は教えるのです。ですから、私たち教会が大切にしているハイデルベルク信仰問答は、私たちの地上の死は「罪との死別」であり、「永遠の命」への入り口となった(問42)と教えているのです。このような意味でイエスは私たちの地上の死の意味も変えてくださったのです。だからイエスを信じる者にとって死は決して敗北ではないのです(第一コリント15章26節)。
4.私たちの葬儀もまた、神を証しする場
ヨハネによる福音書11章を読むと、そこにラザロという一人の男性が登場しています。この男性は、病気になって、死んでしまい、墓に葬られました。そして三日も経った彼の遺体は墓の中で早くも腐敗しようとしていたのです。ところが驚くべきことに、イエスはこのラザロを死から甦らせられたのです。ヨハネはこのラザロの物語をかなりの長さで福音書に紹介しています。ところが、その物語の中でラザロが何かを語る場面は全く紹介されていません。結局ラザロは自分では病気になって、死んでしまうことしかできなかったのです。しかし、イエスはこのラザロの存在をむしろ神の素晴らしさを証しする存在と変えてくださったのです。なぜならラザロの周りに集る人は彼の存在を通して神の素晴らしさを知ることができたからです。
私たちにもイエスによって復活が約束されています。そして私たちにもやがてはこの地上での生を終わるときが訪れます。しかし私たちの人生はそれで終わるわけではありません。私たちもまたイエスによって必ず甦らされるからです。そのような意味で、私たちはラザロと同じような存在であるとも言えるのです。
ラザロが神の素晴らしさを証しすることができたように、私たちの葬儀にはこの神のみ業の素晴らしさを証しするという大切な役目が与えられています。私たちの葬儀のとき、私たちはもはや何もしゃべることも、何もすることもできなくなっています。しかし、神は私たちのその存在を通して神の素晴らしさを、私たちに与えられた復活の希望を人々に示してくださるのです。ですからキリスト教葬儀は私たちに与えられた復活の希望を明らかにするときでもあるからです。
私たちに神から与えられている使命は年老いても変わることはありません。そして、その使命は私たちが地上の命を終わるそのときまで、与えられていることを覚えたいと思うのです。
|
祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちの命を与え、その命を守り続けてくださるあなたのみ業に感謝いたします。そのあなたの私たちへの愛はいつも変わることがありません。そのあなたの私たちへの愛によって私たちにイエス・キリストが与えられ、そのみ業によって復活の希望と永遠の命の祝福が与えていることを心から感謝いたします。そのあなたのみ業に答えるために、どうか私たちがあなたから与えられる使命を地上での生涯の最後の時まで果すことができるようにしてください。
主イエス・キリストに御名に依って祈ります。アーメン。
|
聖書を読んで考えて見ましょう |
1.私たち人間が、自分が年老いて行くことを感じるとき覚える不安はどのようなものですか。その不安の原因はどこから来ていると思いますか。
2.私たちが自分の身体的機能の衰えを自分の価値の喪失だと考えてしまう理由はどこにありますか。
3.人間の老いについての聖書の考え方とこの世の考え方は同じでしょうか。それとも違っていますか。もし、それが違っているとしたら、それはどこですか。
4.人間の死を敗北と考える医学は、人間の死と言う現実に対してどのような取り組みをしようとしますか。
5.聖書は人間の死と言う現実について私たちに何を教えていますか。
6.救い主イエスが私たちの死の原因である罪を解決してくださることによって、私たちの死はどのようになったと聖書は教えていますか。あなたはそのような聖書の言葉をどう考えいますか。
|