2017.7.2 説教 「時は満ちた」


聖書箇所

マルコによる福音書1章14〜15節
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。


説 教

1.洗礼者ヨハネの逮捕と死
①ヘロデによって首を切られる

 今日もマルコによる福音書から皆さんと共に学びたいと思います。聖霊に導かれて荒れ野でサタンの誘惑を受けられた後、イエスは救い主としての公の活動を開始されています。その開始の時期についてマルコは今日の部分で「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き…」と説明しています。他の福音書を読むとイエスはしばらくの間、ヨハネの活動していたヨルダン川周辺で活動していて、そのときにヨハネの弟子だった人々がイエスの元に集って来たと言う記述が残されています(ヨハネ3章26節)。そのイエスがヨハネの逮捕をきっかけに、伝道の根拠地をガリラヤに移されたと福音書は語っています。
 洗礼者ヨハネの逮捕はガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスの結婚を「神の律法に適わないものだ」と非難したことに対する報復として為されたものでした。ヨハネに批判されたヘロデは自らの誤りを悔い改めるのではなく、ヨハネを牢屋に閉じ込めて、その口を封じることで解決しようとしたのです。当時の人々は洗礼者ヨハネと言う人物に大きな期待を抱いていたようです。ですからある人々はヨハネを神から遣わされた特別な預言者と考えていました。またその中には「ヨハネこそ神から遣わされるはずの約束の救い主ではないか」と考えていた人もいたようなのです。もちろんこれらの人々の抱いた期待についてはヨハネ自身が否定しています。そして彼は「自分は真の救い主の到来を準備するために働いているだけだ」と説明したのです。
 そのヨハネがヘロデによって投獄されてしまいました。もしかしたら、人々は「ヨハネが神の奇跡的なみ業によって牢獄から脱出することができるのではないか」と考えていたかもしれません。しかし、ヨハネはやがてヘロデが催した宴会の席で踊りをおどった娘への褒美として首をはねられて殺されてしまうのです(マタイ14章1〜12節)。このような結末から見るとヨハネの死は悲惨で、無意味なものだと考えられてしまうかもしれません。
 しかし、マルコは私たちに洗礼者ヨハネの死をそのようには語っていないのです。なぜなら、ヨハネの死によってイエスのガリラヤ伝道が始まったと説明しているからです。つまりヨハネの死は神の救いの計画を遅らせたり、後退させることではなく、むしろその計画を実現させるために大いに用いられたと福音書は説明しているのです。

②一粒の麦

 私が牧師になって最初に立ち会うことができた洗礼式は一人の年配の男性のために行なわれた病床洗礼式でした。当時のその男性の奥様が私の奉仕していた教会の執事として熱心に信仰生活を送られていました。この夫人から「夫が医師に余命宣告をされた」と説明された私と宣教師はそのときからその男性の病床を訪問することになりました。しばらくして、この男性は洗礼を決心され、神を信じて洗礼を受けられたのです。私はこの後もこの男性の臨終にまで立ち会い、牧師になって最初に葬儀の手配をすることになりました。ですから私にとってこの男性は忘れることのできない人の一人でもあります。
 さらにこの男性の奥様である夫人も、新米の牧師であった私を励まし続けてくださった方でした。実はこのご夫人が熱心なキリスト者になった理由も一人の人物の死と関係していました。それはその夫人の愛する娘さんが若くして脳腫瘍で天に召されたことが関係してくるからです。当時、大学生であったその夫人の娘さんは教会の教会学校で教師として奉仕するような熱心なキリスト者であったそうです。しかし、その娘さんが若くして病を得、世を去ってしまいました。たぶん、その時の夫人の心理的なショックは語ることもできないほど大変なものであったに違いありません。しかし、その夫人は娘さんのためにキリスト教会で葬儀を上げたことをきっかけに、教会で求道生活を始めたのです。そしてやがて自らも洗礼を受けて娘さんと同じキリスト者になったと言う訳です。考えて見るとこのご夫妻が時間の経過はあったとしても二人とも同じ信仰を得ることができたのは、彼らの愛する娘さんの死を通してであったと考えることができるのです。
 神は私たちの命を疎かに扱う方ではありません。むしろ、神は私たちの人生をその救いの計画の一部として大切に用いてくださるのです。そしてそこには私たちの死と言う現実も含まれています。一粒の麦でしかないものがその死を通して多くの実に変えられることを神はなさるのです。そのような意味でマルコはヨハネの死が決して無意味ではないこと私たちに示しているのです。

2.ガリラヤで神の福音を伝える

 ヨハネの逮捕の後、イエスはユダヤからガリラヤに活動の拠点を移されました。ヨハネを逮捕し、後に彼を処刑したヘロデ・アンティパスはこのガリラヤの領主でした。ですからイエスのガリラヤ行きはヘロデから逮捕されることを恐れたからではないと言うことが分ります。なぜなら、イエスがヘロデを恐れていたなら、その支配地域であったガリラヤにわざわざ行くことは考えられないからです。
 イエスの生涯で示された彼の伝道方針を見ると分るのは、彼はいつも福音からもっとも遠くにいる人々、福音を聞く機会を奪われている人々のところに行って、彼らに福音を語ったと言うことです。当時、ガリラヤは神殿のあったエルサレムの人々から見ると、北のはずれの辺境の地と考えられていました。ですからエルサレムの人々のような恩恵を受けることができないガリラヤの地をイエスはわざわざ、自らの伝道の地として選ばれたのです。
 イエスはガリラヤの地で「神の福音」を宣べ伝え始められました。当時、ユダヤ地方を含めて地中海一帯の広大な領土を治めていたのはローマ帝国と言う国でした。そしてそのローマ帝国のトップである皇帝が発する命令は当時「福音」と呼ばれていたと言うのです。つまり、たとえその命令が市民にとっては都合の悪いものであっても、市民は「福音」として皇帝の命令をありがたく、喜んで受け取らなければならなかったのです。しかし、イエスが伝えた「福音」はこのようなものではありませんでした。この福音を聞く人々がすべて喜ぶことができるものなのです。なぜなら、この福音はローマ皇帝のような世の権力者から出たものではなく、「神の福音」、つまり神から発せられ、神から私たちに伝えられた福音だからです。

3.時は満ちた、神の国は近づいた
①ダビデに約束されていた王国

 それではこの「神の福音」とはどのようなものなのでしょうか。どうしてこの福音はそれを聞く人々に喜びをもたらすものと成り得るのでしょうか。イエスは次のようにこの福音の内容を明らかにしています。

 「時は満ち、神の国は近づいた」。
 イエスが私たちに伝える神の福音の主題、その中心テーマは「神の国」です。旧約聖書に約束されていて、人々が長い間待ち続けていたこの神の国の実現がすぐに迫っているとイエスはここで語っているのです。
 当時、ユダヤの人々は旧約聖書に記されている神の約束が実現することを長い間待ち続けていました。それはかつてのユダヤの王であったダビデに語られた神の約束です(サムエル下7章1〜16節)。神はダビデに彼の子孫として生まれる者にその王座を継がせ、その王国は永遠に揺るぎなく、とこしえに続くことになると約束して下さったのです。ユダヤの国はこのダビデの時代に最も栄えたと考えられています。だからそのダビデの王国が救い主によって再建されることを神は約束して下さっていると多くの人は考えていたのです。
 聖書を読むと、イエスに対してその周りに集った群衆だけではなく、弟子たちさえもこれと同じ期待をイエスに対して持っていたことが分かります。イエスは今、ユダヤの国を植民地にしているローマ帝国の軍隊を追い出して、ダビデのときと同じような巨大な王国を建設して下さる。それが彼らにとっての「神の国」ついての希望でした。だから弟子たちは、この王国がイエスによって建設されたことを期待していました。彼らはその王国が実現したとき、自分がその国の重要閣僚として入閣することを夢見ていたのです。しかし、イエスによって実現された神の国はこのようなものではありませんでした。それではいったいイエスの語る神の国とはどのようなものなのでしょうか。

②聖書の教える神の国

 まず、イエスの語る神の国はこの世の王国とは違います。中近東のわずかな区域を領土としたダビデの国とは全く違うのです。むしろ、神の国の統治範囲は神が造られたすべての民族、国家をも含む全世界であると言えるのです。
 神の国は「神の支配」と訳して良い言葉です。世界中の人々がこの神の支配の元に生きることができること、それが「神の国」が実現すると言うことです。地上の王は権力を使ってその国の人々を支配しようとします。しかし、神の支配はそうではありません。神は愛と慈しみを持って私たちを支配してくださるのです。世界中の人々がこの神の愛の支配の元で生きることができるのがイエスの語る「神の国」の正体です。
 それではこの神の国はどのように私たちの住む世界に実現するのでしょうか。実はこの神の国を実現するのが救い主イエスの持つ使命であったと言えるのです。私たちがこの神の支配に生きるためにイエスがなさらなければならなかったことが二つあります。一つはかつてのイスラエルの人々が長い間エジプトの地で奴隷状態にあったときに、神が彼らを奴隷状況から解放してくださったように、神は罪の奴隷をなっていた私たちをその罪から解放して自由な者にしてくださるのです。そして第二に、奴隷状態から自由にされた人間を、喜んで神の支配に生きることができるように、神との関係を回復し、それを維持されるのです。
 イエスは私たちが神の支配に生かさせるために十字架にかかり、その命を献げられました。イエスの命の代価によって私たちは罪の奴隷状態から解放されて自由な者になることができたのです。しかし、自由になっただけではまだ不十分です。問題はその自由を何のために使うかが大切なのです。私たちがこの自由を自分が滅んでしまうようなことのために使ってしまったら、本末転倒のようなものになってしまいます。しかし私たちがこの自由を神のために使うとき、この自由の価値は豊かに表されるのです。そのために今は天におられるイエスは私たちに聖霊なる神を遣わして、私たちが神のために生きることができるようにしてくださるのです。
 イエスを信じ受入れる者はすべて、罪から自由にされ、聖霊なる神の導きによってこの地上にあっても神の支配の元に生きることができるのです。これがイエスの伝える神からの福音の内容なのです。

4.福音を信じて生きなさい

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

 このイエスの福音への招きはすべての人に向けられています。この福音の対象と成り得ない人はこの地上に一人もいないのです。大切なのはこの福音の招きに私たちが一人一人、責任を持って応答することだけだと言えるのです。
 「宝くじなんて当るはずがない」。夢のない私はいつもそう思っているので、今まで宝くじを買ったことがありません。しかし、可能性などほとんどなくても、その宝くじを買った人には宝くじに当選する可能性が本のわずかですが残されています。それに比べ宝くじを買わない人には宝くじに当る可能性は全く存在していないのです。
 神の福音もどんなにそれがすばらしいものであっても、その福音を信じて受入れなければ、神の国に入ることは誰もできません。一方、この福音は宝くじとは違って、はずれは一つもありません。ですから福音を信じて受入れる者はすべて、神の国の住民として生きることができるのです。
 そしてここでイエスは「時は満ちた」と語っています。これは神の国が実現する準備はすべて整ったと言うことを意味しています。準備は神によって全て整えられているのです。つまり、私たちの側がしなければならない準備は一切無いと言えるのです。
 私たちは何か物事をしようとするとき、自分の側の準備が足りないことを言い訳にすることがよくあります。「自分には才能がありません」。「自分には財産がありません」。「自分は健康ではありません」。「もっと才能があったら、財産があったら、自分が健康であったらそれができたのに」と思うのです。しかし、イエスの招きに答える者は自分の側の条件を考える必要は一切ありません。つまり、このイエスの福音の招きを拒否できる理由を、私たちは何一つ持ち合わせてはいないのです。「もっとまじめになってから、神さまを信じます」と言う言い訳は、通用しないのです。神の国の住民となるために私たちはこのイエスの福音の招きに答えるだけでよいのです。ですからここでイエスが語る「悔い改め」とは自分が今まで考えて来た一切の言い訳を捨てて、イエスの招きにすぐに答えることを意味していると考えることもできるのです。
 福音書の中でマタイの福音書だけは「神の国」を「天の国」と言う言葉で呼び変えて説明しています。なぜならマタイは自分の福音書を「神の名をみだりに唱えてはならない」という戒めに熱心に生きようとしたユダヤ人に向けて書いたからです。ですから「神の国」と「天の国」は本来同じことを言っているのです。しかし、私たち日本人は「天の国」と言うと、何か蓮の花が咲く静かな世界で、どこからともなく美しい音楽が聞こえ、そこでお釈迦様と共に静かに暮らすといったような「極楽浄土」のイメージと取り違えてしまうことがあります。しかし、聖書の語る神の国は静かで何も問題が起こらないとこではありません。もっとダイナミックな世界こそが聖書の語る神の国なのです。ですから、この神の国に生きる者は必ず生ける神のすばらしいみ業を知り、人生を喜びに満たされながら生きることができるのです。そしてこのダイナミックな神の国の姿を福音書は続けて、イエスの生涯とその言葉を通して私たちに教えようとているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 イエス・キリストによって告げられた神の国の福音を私たちもまた、今、知らされ、その福音を信じることができるようにされた幸いを心から感謝します。私たちがこの地上にあっても神の国の民として生きることができるために、主イエスはその命の代価をもって私たちを自由な者としてくださいました。その上で今もなお主イエスは天から聖霊を私たちに送り、神の国の民として続けて生きることができるようにしてくださいます。私たちがこの神の国の民として、あなたとの豊かな命の関係に生き、あなたに喜んで従うことができるように、続けて私たちの信仰生活を導いてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.マルコによる福音書は救い主イエスの公の活動がいつから、どこで始まったと語っていますか(14節)。
2.洗礼者ヨハネの活動と生涯について、あなたはどのようなことを知っていますか。
3.当時の人々はなぜ「神の国」が実現することを待ち望んでいたのですか。
4.イエスが語る「神の国」と当時の人々が期待していた「神の国」との間にはどのような違いがあったと考えることができますか。
5.神の国が実現するための準備を神がすべて整えてくださったのなら、私たちはその神のみ業にどのように答える必要があると思いますか。