2017.7.23 説教 「わたしについて来なさい」


聖書箇所

マルコによる福音書1章16〜20節
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18 二人はすぐに網を捨てて従った。19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。


説 教

1.イエスによって実現した神の国

 今日も皆さんと一緒にマルコによる福音書から学んで行きたいと思います。前回の箇所では、いよいよイエスの救い主としての活動が始まったところを私たちは学びました。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)
 イエスは人々に「神の国が近づいた」ことを語り伝えました。神の国については、既に学びましたようにイエスの語る神の国は地上のある特定の地域を支配する国家を意味しているのではありません。むしろ、イエスの語る神の国とは私たちと神との関係を表す言葉なのです。つまり、この神の国は「神の支配」と呼ぶべき言葉で、私たちの人生の上に正しい神のご支配が実現しているかどうかを示す言葉なのです。イエスは壊れてしまっていた神と私たちとの関係を正しくするために来られた救い主です。ですから、この神の国は「神の国が近づいた」と語ってくださったイエス御自身によって私たちの人生に実現するものなのです。
 しかし、イエスが活動された当時の人々はこの神の国を違った意味で解釈していました。当時のユダヤ人たちはこの神の国を地上に立てられる王国の一つだと考えていたのです。具体的に言えば、イスラエルの歴史上もっともその領土を拡大させたとされるダビデ王時代の国が再建されることをイメージしていたのです。彼らはなぜダビデの王国が再建されることを待ち望んでいたのでしょうか。それは彼らが、自分たちが幸せになれない理由は自分たちの国が異民族の支配下にあり、その異民族たちが自分たちを苦しめているからだと考えていたからです。
 聖書にところどころに「徴税人」と言う人々が登場します。有名なところではイエスの弟子のマタイもかつてはこの徴税人の一人であったと考えられています(マルコ2章14節)。またイエスに出会って人生を変えられたザアカイもこの徴税人の頭であったと言われています(ルカ19章2節)。この当時のユダヤ人たちは徴税人を大変嫌っていました。なぜなら、彼らは自分はユダヤ人でありながらも、ローマ帝国に仕え、そのローマへの税金を代わって人々から徴収する勤めを行なっていたからです。ローマ帝国このような徴税人を通してユダヤ人を激しく搾取していたのです。
 イエスはローマの総督ピラトによって十字架刑にされました。この十字架刑はローマの支配に抵抗する者たちに科せられた刑罰でした。十字架刑はローマの支配に少しでも異を唱えられば、このような目に会うと人々を脅かすために用いられた最も残酷な刑罰だったのです。このように確かに当時の人々はローマの支配によって苦しめられていました。しかし、本当にこのローマの支配がなくなれば、人は幸せになれるのでしょうか。
 私は教会に行き、洗礼を受ける前に、長く左翼の学生運動家として活動していた時期があります。当時の私は世界や日本が変われば自分は幸せになれると真剣に考えていたのです。「悪いのは自分ではなく、自分を正しく評価しない社会に原因がある」と思っていたからです。しかし、やがて私の活動家としての生き方はすっかり行き詰まってしまいました。なぜなら、世界や国家を変えようと考える自分自身が少しも変わることができないことに気づいてしまったからです。どんなに崇高な理想を人々に語ることができても、自分一人変えることのできない現実を痛感したからです。
 イエスの神の国は私たちの外側の環境を私たちに都合の良いように変えるものではありません。むしろイエスは私たちの心を変えられるのです。そして本当の意味で私たちを苦しめている原因を取り去り、私たちを新しい命へと生かしてくださるのです。それではそのような変化をイエスはどのように一人一人の人生に起こさせるのでしょうか。今日の聖書箇所に登場するペトロやヨハネという人々はこのイエスに変えられた人々であるとも考えることができます。

2.ペトロたちの召命

 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」(16節)。

 イエスの弟子とされたシモン・ペトロについて、ルカによる福音書は彼らの召命の直前にイエスによって起こされた大漁の奇跡を付け加えて報告しています。この奇跡に驚くペトロたちをイエスが弟子として召しと説明しているのです(ルカ5章1〜11節)。また、ヨハネによる福音書ではシモン・ペトロとアンデレの兄弟は既に洗礼者ヨハネの弟子であったのに、その洗礼者ヨハネに導かれてイエスの弟子になったと言う事情が記されています(1章35〜42節)。しかし、私たちが今日読んでいるマルコではそのような記述はありません。イエスがたまたまガリラヤ湖のほとりを歩いておられたときに、いつもの通りに漁師の作業をしているペトロたちをご覧になったとだけ記しています。そこでイエスは彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)と声をかけられると「二人はすぐに網を捨てて従った」(18節)と言うのです。
 マルコの表現はイエスとシモン・ペトロたちの間に以前どのような関係があったとしても、それらの関係とは全く別にペトロたちがイエスの弟子としてなった理由を説明しています。彼らを弟子にした直接のきっかけはイエスの語られた「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言う言葉であったことを指摘するのです。つまり、イエスの言葉こそはシモン・ペトロたちの人生を180度変えてしまう力があったことをマルコはここで語ろうとしているのです。
 創世記によれば神はご自分の語られたみ言葉によって天地万物の一切のものを創造されたことを報告されています。その同じ神の言葉が、今、イエスを通してシモン・ペトロたちに語りかけられています。彼らの人生を変えたのは人間の側の何らかの力や行いと言ったものではありませんでした。一方的な神の語りかけであり、そこで語られたイエスの言葉を通してペトロたちの人生が変えられたと言うのです。そしてこのようにして彼らの人生にイエスの語られる神の国が実現したことをマルコは私たちに教えようとしているのです。

3.イエスの招きの性質
①採用の条件は一切問われていない

 キリスト教会にはペトロやパウロと言う使徒たちの名前が付けられた文書が新約聖書の中に収められているもの以外にも多数存在しています。これらは教会によって神の言葉を伝える聖書としては認められなかった文章で、通常「偽典」と呼ばれています。これらの偽典は私たちが読んでいる新約聖書の文章よりもずっと後になって書かれたものであると考えられています。そして、これらの「偽典」の文章の特徴はキリスト教会の土台を築いたとされる使徒たちが、通常の人間とは違う存在として紹介されている点です。偽典には個人の優れた点を列挙して褒め称える傾向が見られるのです。しかし、私たちが読んでいる新約聖書の文章にはこのような人間を賞賛する記述は記されていません。イエスによって弟子として選ばれた人が特別に優れた人々であったという描写はどこにも残されていないのです。むしろ、福音書はイエスによって選ばれた弟子たちが、私たちと同じ平凡な人間であり、それぞれ欠点を持ち、失敗を犯し、この世の人々と同じように野心さえ抱くような人たちであったことを伝えているのです。彼らはガリラヤ湖で魚を捕る漁師でしかありませんでした。イエスがここで弟子として選ばれた者たちは聖書や律法の専門家でもまた熱心な宗教家でも無い平凡な人々に過ぎなかったのです。
 このことから分ることは、人がイエスの弟子とされるとき、イエスは一切の条件を人間の側には求めていないと言うことです。最近は労働基準法によって企業が求人をする際、そこに様々条件をつけることが禁じられているようです。しかし、実際に採用を決めるときには企業はやはり、その人がどれだけ企業の求めに合う条件を持っているかを調べ、それを規準として採用を決めようとするのです。ところがイエスの採用基準は全く違っています。彼は人の側の条件を一切問わないのです。なぜなら、実際に私たちがイエスの弟子として生きよう決心するとき、私たちが弟子として生きるために必要な力や能力、信仰のすべてをイエスが与えてくださるからです。そのような意味で誰でもイエスの弟子になることが可能であると言えるのです。
 そしてこの事実は、私たちがイエスから召しを受けたとき、「こちら側の条件はまだ十分に揃っていない」と言う理由でその召しを断ることはできないと言うことを表しています。「私にはその資格はない、そんな能力はない」と言って断ろうとする人に、イエスは「わたしは最初からそんな条件をあなたから求めてはいない。あなたを弟子としてするのはわたしであってあなたではない」と言われるからです。
 イエスの弟子となった四人はいずれも、いままで自分たちの生計を立てる大切な道具としていた網や舟を捨て、また父親さえも後に残してイエスに従っています。ここをイエスの弟子となるために彼らは多大な犠牲を払ったと言う風にも読めるところですが、やはりここにもイエスの弟子となる者にはイエスの呼びかけの言葉に答える以外に何の条件も求められていないことが表されていると考えてよいのです。イエスの弟子として生きるために必要なものはすべてイエス御自身が準備してくださり、その都度私たちに与えてくださるからです。

②それぞれの営みの中に語られる招きの言葉

 イエスはこの時、シモン・ペトロたちに「人間をとる漁師にしよう」と語りかけられました。それは彼らの福音伝道の業を通して神の国の民が集められることを意味する言葉です。そしてこの「人間をとる漁師」と言う言葉はシモン・ペトロたちが漁師であったことからそれを考慮して語られた言葉であると考えることができます。この言葉を通してイエスの招きは彼らの漁師としての日常の営みの中へ語りかけられていることが分ります。イエスの呼びかけは今も私たちに語られています。そしてイエスは今も一人一人の営みにふさわしい言葉を持って私たちに語りかけてくださるのです。激しい労働に苦しむ者には「その働きが報われる者にしてあげよう」と語りかけます。不安に支配されている者には「その不安から解放されて、本当の平安を受けることができる者にしてあげよう」と語りかけます。このようにイエスの私たちに語りかけてくださる召命の言葉はそれぞれ違っています。しかし、その語られた言葉は違っていても私たちがその招きに答えるなら、イエスは私たちをご自分の弟子としてくださり、神の国に生きることが出来る者としてくださるのです。

4.イエスに従う弟子

 イエスの弟子となるとは、正確に言えば「イエスの後に従う者」となると言うことです。いつも、イエスの後ろに従って生きていくことこそ、イエスの弟子であると言えるのです。ですから私たちがイエスの弟子として生きるために大切なことは、まず第一にいつも私たちの前に立って歩むイエスから私たちの目を離してはならないと言うことです。ペトロはあるとき湖の上を歩くイエスの姿に驚き、「自分も同じように歩けるようにしてください」とイエスに願ったことがありました。この時、イエスの言葉に従ったペトロは最初、湖の上を無事に歩くことができました。ところが、彼が一瞬、自分の視線をイエス以外の者にそらしたときに、彼の身体は水中に沈み始めたと聖書は報告しています(マタイ14章22〜33節)。私たちが毎週のように礼拝に出席して聖書の言葉に耳を傾けるのは、私たちの視線をイエスに向けて、イエスの後に従う弟子となるために大切なことであると言えるのです。 
 さらにイエスの弟子として生きる私たちに求められることは、私たちの前を歩むイエスに信頼して従い続けると言うことです。かつてイエスは自分が十字架にかかって死なれると言うことを弟子たちに予告されたことがありました。このときペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と聖書は記しています。「わきへお連れする」とは自分の方にイエスを引き連れると言うことを意味しています。つまりペトロはイエスを自分に従わせようとしたと言うことになるのです。だからイエスはこのときペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言う激しい言葉を使って非難されたのです。(マルコ8章31〜33節)。
 私たちはイエスが為されること、また考えておられることを十分に今理解することはできません。しかし、私たちはイエスのみ業に間違いはないことを信じることができます。だから私たちはそのイエスに信頼して生きればよいのです。
 私たちはいつも自分のことや自分の周りに起こる出来事を見て迷い出すような愚かな者たちです。「自分がイエスの弟子とされたことは間違いではなかったのか」。「本当に自分は最後までイエスに弟子として従うことができるのだろうか」。そんな疑問に襲われることが私たちの信仰生活には度々あるのです。しかし、私たちが自分や自分の周りの出来事に心奪われている限り、その疑問を解決することは不可能です。私たちはそんなときにこそ、私たちの前を立って歩むイエスに信仰の目を向けるべきなのです。なぜならイエスだけが私たちの信仰生活を導くことができ、また私たちが弟子として生きることができるようにしてくださる方だからです。この方が弟子として生きようとする私たちの人生に全責任を持ってくださるのです。だから私たちは安心して、主の後に従って行くことができるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちをペトロたちと同じように弟子として召してくださったあなたのみ業を心から感謝いたします。私たちは皆、それぞれの人生に語りかけてくださったあなたの呼びかけの言葉を聞いて教会に集り、信仰を告白して洗礼を受けることができました。そしてあなたは私たちと全く同じような弱さを持った弟子たちを用いて教会を作ってくださいました。今、あなたたちは私たちにもその同じ使命を与えてくださることを心から感謝いたします。私たちがこの使命に答えることができるように、ふさわしい信仰とその他の賜物を与えてください。主イエスの弟子として生きるようにされた私たちが、その主イエスの後に従い、信頼して生きることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いているとき、そこで誰をご覧になられましたか(16節)。
2.そのときシモンとシモンの兄弟アンデレは何をしていましたか(16節)。
3.イエスはこの二人にどのような言葉を語られましたか。その言葉の意味を説明してください(17節)。
4.二人はこのイエスの言葉にどのような反応を示しましたか(18節)。
5.イエスはこの後、続いて誰をご覧になられましたか(19節)。彼らはイエスの呼びかけにどのような姿勢を示しましたか(20節)。
6.もし、あなたがイエスからこのような呼びかけの言葉をいただくことができたとしたら、あなたはどのような反応をするでしょうか。