2017.7.30 説教 「汚れた霊を従わせる権威」


聖書箇所

マルコによる福音書1章21〜28節
21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。


説 教

1.イエスの権威とは何か
①様々な説教のスタイル

 先日、礼拝の後に何人かの兄弟姉妹と教会の礼拝で語られる牧師の説教について語り合う時間が与えられました。この教会で求道をして、私の語る説教しか聞いたことがない方は別ですが、たぶん皆さんはこの教会の教会員になる前に、別の教会で別の説教者のお話を聞く機会もあったはずです。様々な説教者の語る説教にはそれぞれ特徴があります。ですから同じキリスト教会であっても人によって語る説教の印象はだいぶ違って来るのです。この違いの原因の一つには、キリスト教会の中に存在する様々な教派の持つ特徴の違いです。皆さんもご存知のようにキリスト教にはいろいろな教派があります。この東川口にも私たちの改革派教会以外にも、福音自由教会やアッセンブリー教会などいくつかの教派の教会が存在しています。そしてそれぞれの教派にはそれぞれ違った伝統や特色があります。特にそれは礼拝のスタイル、またその礼拝の中で語られる牧師の説教によく表されて来るのです。
 以前、私の先輩の牧師に聞いたことですが、その牧師が奉仕している老人介護施設の礼拝で「詩編のメッセージを牧師が順番に語りましょう」と牧師たちに提案したことがあったそうです。ところが、この提案に対して「そんな説教はできない」と言う意見を語る牧師がいたというのです。聖書の順序に従って、その聖書の箇所を解説する説教を通常私たちは「講解説教」と呼びます。今、この教会の礼拝ではマルコの福音書を少しずつ学んでいますが、こう言う説教のスタイルを「講解説教」と呼ぶのです。私たちの改革派教会はこの講解説教を得意とし、神学校ではこのスタイルの説教の作り方を徹底的に教えています。
 しかし、説教のスタイルはこの「講解説教」だけではありません。たとえば「主題説教」と言ったスタイルも存在しているのです。これは説教者が教会員に伝えたい信仰生活や聖書に関するテーマをその都度選んで、そのテーマにそって聖書の様々な言葉を引用しながら行う説教の方法です。実はメソジスト教会とかホーリネス教会と呼ばれるグループの説教者はむしろこの主題説教を良く語り、その主題説教の作り方を神学校で学んで来ているのです。先ほど「そんな説教はできない」と語った牧師は「自分は主題説教しか話して来なかったので、詩編を順番に語るような講解説教はできない」と言う理由があったから、そう発言したのです。

②今も教え続けられているイエス

 このような説教のスタイルの違いだけではありません。ある説教者は毎回、説教に耳を傾ける聴衆の感情に訴えて涙を流させ、感動させるお話を得意としています。そして、その反対に論理的な説得で聴衆の理性に訴える説教者もいるのです。
 これだけ説教者の語る説教には様々な違いがあります。それなのになぜ私たちはその説教者の語るお話を礼拝の中で、神の言葉として受け取ることができるのでしょうか。その答えは簡単で、その説教者の語るべきお話が聖書の言葉に基づくものであるならば、その説教は神の言葉として礼拝の中で受け入れられるべきだからです。つまり、その説教者の語るべき言葉を権威づけるものは神の言葉である聖書であると言えるのです。だから、もしその説教者が教会の講壇で聖書の言葉に基づかない、単なる人間的経験や思想を語ったとすれば、それは神の言葉を取り次ぐ説教としては認められないのです。このような意味で私たち説教者は徹頭徹尾、神の言葉である聖書に服従する必要があります。説教者は聖書が語っている言葉を聴衆に取り次ぐことに専念し、聖書が語っていない部分に関して、いくらそれが聴衆の興味をそそる内容であったとしても、説教者は講壇から語ってはいけないのです。このように教会で働く説教者の権威は、その人がどれだけ聖書を正しく語っているかどうかによって決まってくるのです。
 今日の箇所ではイエスがカファルナウムの会堂に入り、安息日の礼拝でそこに集まる人々に「教え始められた」(21節)と語られています。このイエスの動作は未完了形と言って、この動作がまだ完了せず、ずっと続いているということを表す言葉で表現されています。つまり、イエスはこのときから今に至るまでずっと私たちに教え続けておられると聖書は語っているのです。私たちは今、イエスの教えを彼の口から直接聞くことはできません。しかし、今も生きておられるイエスは天から私たちの教会に聖霊を遣わして、地上の教会の礼拝で奉仕する説教者の口を使って教え続けておられると言えるのです。ですから説教者の語る言葉の権威はここにあるとも考えることができます。今もイエスは私たちの礼拝において、説教者と言う器を使って教え続けてくださっているのです。だからこそ私たちは礼拝で語られる説教を神の言葉として受け入れることができるのです。

2.真実の権威

 今日の部分ではイエスの教えを聞いた人々が非常に驚いたと言う情景が記されています。彼らの驚きの理由は「(イエスが)律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(22節)と語られています。いったい、イエスの語る教えの権威とはどういうものなのでしょうか。その権威は律法学者たちの語る教えとどのように違うのでしょうか。簡単に考えて見ると律法学者は単なる人間に過ぎませんから何の権威も持つことはできません。だから律法学者の教えは神の律法を忠実に語ることにおいてその権威が発生すると言ってよく、この点では説教者の教えが持つ権威とよく似ています。
 しかし、イエスの場合は違います。彼は神の子としての権威を最初からもっておられ方なのです。つまり、イエスが語ること、行うことにはすべて最初から権威があるのです。そう考えるなら、誰にも頼らず自らの権威を示せるのは、この世では神の御子であるイエスお一人しかおられないことになります。それだけではありません。イエスの語る教えには権威があると言う理由は別にも考えることできるのです。
 以前、教会学校の教師が使う教本の中に一つのお話が紹介されていたことありました。ある病院に重病で寝たきりの人々が収容されている病室がありました。そこにいる患者は皆、寝たきりですから一日中病室の天井を見つめて過ごさなければなりません。そんな彼らの一番の楽しみは、その病室の窓際のベッドに寝ている人が、自分の寝かされたベッドから見える窓の外の景色を話してくれることでした。「今日は花壇にたくさんきれいな花がさいているよ。あっ、向こうで小さな子どもがお父さんとキャッチボールを始めたよ」。その人の話を聞きながら病室の他の患者は皆、頭の中で病室の外の情景の空想をふくらませるのです。
 ところがある日、窓の外の景色を紹介してくれていた患者がの様態が急変して亡くなってしまいます。そこで病室の窓際のベッドに別の患者が移されることになりました。そのベッドに移されることになった患者は「いったい窓の外には何が見えるのだろう」と期待を膨らませていました。ところが、実際に窓の外に目を向けた彼は驚きました。その窓からは隣のビルの壁しか見えなかったのです。実は前に窓際のベッドに寝かされていた患者は、他の患者を励ますために、自分の空想した景色をそこで語っていたのです。
 「おおい、今日は窓の外に何が見えるんだい」。他のベッドに寝ている患者が新しく窓際のベッドに移された人へ催促します。すると彼はしばらくして「そうだな。今日は小学校の先生に連れられた子どもたちが歩いていくところ見えるの。遠足なのかな。みんな楽しそうに歩いているよ…」と語りだしたのです。
 自分の置かれた場所で、同じように苦しむ人々を励まそうとした人の姿がこの例話には描かれています。しかし私はこの話を読んで少し疑問に思いました。もし、教会の礼拝で説教を語る人の話がその人が勝手に作りだした空想の産物でしかなかったとしたらどうでしょうか。その言葉で本当に人を慰めることができるのでしょうか。これではむしろ問題は全く解決していないのに、人に暗示をかけて「安心だと」と信じ込ませる催眠術師と教会の説教者は同じようになってしまうのではないでしょうか。
 しかし、説教者の語る聖書の言葉はこのような架空の物語を教えるものではありません。なぜならイエスの語る言葉はそのようなものではないからです。イエスはこの世に遣わされた神の御子ですから、真の神を知り、その方だけが知っている真理を知っておられるただ一人の方なのです(ヨハネ14章9節)。そのような意味でこのイエスの語る言葉はすべて神の真実を語っているのです。「こう考えれば少しは気持ちが軽くなるよ」と言ったアドバイスをイエスは語っているのではありません。彼の語る言葉を信じて受け入れれば、実際に私たちの人生は変わり、私たちは神の救いを受けることができるのです。イエスの教えの権威とはまさに、彼だけが人の知り得ない真実を知り、それを私たちに教えることができると言うことでもあると考えられるのです。実際に、イエスの言葉が真実であると言うことがその場所でたくさんの人々に示されたと言う出来事が次に紹介されています。

3.汚れた霊との対峙
①騒ぎ出した男

 このとき安息日の礼拝に集まる人々の中の一人の男が突然騒ぎ出しました。当時、会堂で行われていた礼拝は、清めに関わる律法の制約があったために病気の人は会堂に入ることが許されなかったようです。この点では現在の教会の礼拝とは大きく異なっています。神の助けを一番必要としている病人たちが汚れた存在と見なされて、会堂に入ることさえ許されなかったからです。ですから、ここに登場する男性はいつもこのような騒ぎを起こす人ではなかったのかもしれません。その人が突然、汚れた霊の仕業で会堂で騒ぎ出したのですから、そこに居合わせた人々はどんなにびっくりしたことでしょうか。その男はイエスに向かって次にように叫びました。

 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(24節)。

 このとき会堂の人々は皆、イエスの正体をまだ知っていませんでした。だからイエスの語る権威ある教えに驚かされたのです。しかし、汚れた霊はそうではありません。彼は最初からイエスの本当の正体を知っていました。そしてそのイエスが何をしにここにやって来たかのかも知っていたのです。イエスは神の御子として、罪と死の奴隷となっている私たち人間を救い出すためにやって来られた方でした。そして彼の攻撃の矛先は人間を苦しめ、罪と死に誘おうとする汚れた霊たちに真っ先に向けられるのです。

②分裂する心

 たいへんに興味深いのはこのとき男性が「我々」と自分のことを複数形で呼んでいる点です。この後、ゲラサと言う場所でイエスは悪霊に取りつかれて苦しむ人を助けていますが、その際に彼の中にいた霊は「大勢」であったことが語られています(5章1〜20節)。ですから、この「我々」とはこの男性の中にいる汚れた霊が複数であることを表現しているとも考えることはできます。しかし、この部分を解説するある人はそれとは別の説明をしています。この「我々」は汚れた霊とその汚れた霊に取りつかれて苦しむ男性の二つの人格を語っていると言うのです。そしてここに、私たちに人間の分裂した心の状態がよく表されていると説明するのです。なぜなら、私たちの心は実際にいつも二つの心の間を揺れ動いているように見えるからです。私たちは一方では神に心から従いたいと思っています。しかしもう一方では、むしろ神に従うより、自分の思い通りに生きたいとも願っているのです。そして私たちはその二つの心の間で揺れ動き、どうにもならなくなってしまうのです。この男はこのとき、自分が汚れた霊から解放されるチャンスを得ながらも、「自分を救ってください」とイエスに言うことも祈ることもできなかったのです。
 イエスは汚れて霊に取りつかれた男に向かって次のように語られました。

 「イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りにな(った)」(25節)。

 日本語の翻訳ではよく分かりませんが、イエスの語った「黙れ」と言う言葉には単数形が使われていて、この言葉が一人の人格に語られているのが分かります。つまり、イエスは「我々を滅ぼしに来たのか」という、この男の混乱した叫びからも真実を聞き取り、その男を救うために汚れた霊に向かってだけ「黙れ。この人から出て行け」と命じたのです。私たちの心がもし、この男性のように分裂していたとしても、そのためにイエスに向かって正しく祈れなかったとしても、イエスは私たちに相応しい助けを与えてくださる方であることがこのところからも分かります。
 このイエスの命令に汚れた霊は最後の悪あがきをし、この男の人に痙攣を起こさせます。しかし、結局は汚れた霊はイエスの言葉に従わざるを得ず、この男の人から出て行きました。そしてこの光景を目撃した人々はふたたび、イエスの権威について次のような驚きの感想を語るのです。

 「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(27節)

 イエスの語る言葉は根拠のない催眠術師が語るような言葉ではありません。そんな言葉では実際に汚れた霊が従う訳はないからです。イエスの言葉には権威があるのです。それはイエスの言葉は普通の人間が語る言葉とは違って神の力を持っていることを表しています。イエスの語る言葉には神の力があるのです。その言葉には世界と私たちの人生を変える力が実際にあるのです。なぜなら、イエスは天地万物をみ言葉によって創造された神の御子だからです。そしてイエスはこの権威ある教えを今も、教会の礼拝を通して私たちに語り続けてくださっています。イエスは今もその教えを持って世界と私たちの人生を変えてくださろうとしているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 はかないこの世の世界に生きる私たちは、人の言葉の無力さ、むなしさをよく体験しています。そして私たちはいつの間にかあなたの言葉の権威を忘れ、そのあなたの言葉を人間の語る言葉と同じように勘違いしてしまうことがあります。しかし、あなたの言葉には権威があることを、世界を、そして私たちの人生を全く変える力があることを信じます。どうか、今もこの礼拝で、また日ごと聖書の学びの中で私たちに教え続けられるイエスに信頼し、その言葉を受け入れることで、あなたの権威を日々体験することができるように私たちをしてください。私たちがあなたの教えの権威を認め、その言葉を人々に取り次ぐことができるように助けてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.ガリラヤ湖で働く漁師だったペトロたちを弟子にしたイエスはすぐにどこに向かわれましたか(21節)。
2.会堂に入られたイエスはそこで何をされましたか(21節)。
3.そのイエスに対して最初、人々が示した反応はどのようなものでしたか(22節)。
4.そのときイエスに向かって叫び出した人はどのような人でしたか(23節)。彼はイエスに向かって何と叫びましたか(24節)。
5.この言葉からこの人に取りついていた汚れた霊はイエスについてどんなことを知っていたことが分かりますか(24節)
6.イエスはこのとき誰に向かって「黙れ、この人から出ていけ」と言ったのでしょうか(25節)。
7.この出来事を目撃した人々はイエスの教えについてどのような感想を語りましたか(27節)。