1.神の国に生まれるためには
①自分で自分の生まれる国を選ぶことはできない
私は子どものときからよく「どうして自分は日本人に生まれたのだろう」と言うことを考えることがたびたびありました。物心がついて、世界には日本以外にもたくさんの国があり、たくさんの民族が存在していると言うことを知りました。その知識が増えるにつれますますこのように考えることが多くなりました。たしかに戦乱の中で命の危機を感じている国々の人々、貧困のために食べるものも少なく、飢えで苦しんでいる国々の人々の姿をテレビなどで見ると、「日本人に生まれて来て善かったな」とつくづく思わされることがあります。しかし、もう一方で日本社会の抱える深刻な問題に触れると「もっと違う国に生まれていればよかったかも知れない」と思うこともあるのです。皆さんは、こんなことを考えたことはありませんか。
私たちは誰も自分で自分が生まれて来る国を選ぶことはできません。たまたま日本人の両親から生まれたために私たちの多くは日本と言う国で日本人として生まれ、生きることとなったのです。考えてみればこれは当たり前のようなことですが、自分にとっては「なぜだろう」と思わずにはおれない不思議なことのように思えてならないのです。
②ニコデモの抱える疑問
聖書には自分が生まれた国に満足することができずに、違った国に生まれたいと願った一人の人物が登場します。ヨハネに福音書3章に記されているニコデモと言う人物です。彼はファリサイ派の律法学者であり、ユダヤの最高議会の議員の一人でもありました。地位や財産、知識にも恵まれていたニコデモでしたが、彼はどうしても分らない深刻な信仰的な問題を抱えていました。それは「どうしたら神の国に入ることができるのか。どうしたら神の国の住民となることができるのか」と言う疑問です。
実は当時のユダヤ人たちはこの問いに対する模範解答を持っていました。ニコデモもその回答を知っていたはずなのです。それは「アブラハムの子孫として生まれ、モーセが教えた律法を熱心に守る者こそ神の国の民である」と言う答えです。おそらくニコデモもこの模範解答に従い子どもの頃から熱心に聖書を学び、律法を厳格に守り続けてきたのではないでしょうか。だから彼はフィリサイ派の教師として、当時最高の権威を持っていた議会の議員にまでなり得たのです。ところがニコデモはそれでも自分が「神の国の住人になれた」と言う確信を持つことができなかったのです。
若い人が人生の問題にぶつかり、哲学や宗教に答えを求めることはよくあります。しかし、ニコデモはこのとき既にかなりの年齢に達していたようです。もしかしたら、彼の疑問は自分の死と言う現実と深く関係していたのかもしれません。「自分はこれからどこに行ってしまうのだろうか」。「死んだら自分の存在は完全に消滅してしまうのだろうか」。「それとも死んだ後も、自分が住むべき場所があるのだろうか」。そんな疑問がニコデモの悩みの背後に隠されていたのかもしれません。
③水と霊によって生まれる
ニコデモは人目を忍んで「夜」、こっそりとイエスの元を訪れます。おそらく、ニコデモとイエスの間にはかなりの年齢の差があったはずです。年老いた老人が若者に自分の人生についての深刻な悩みを打ち明けることは通常ではあり得ません。しかし、ニコデモはイエスがふつうの若者ではなく、神から遣わされた特別な存在であることが感じていたようです。
確かにイエスは特別な存在でした。なぜなら、彼こそニコデモが入りたいと願っていた「神の国」からやって来られた方だからです。だからイエスはすぐにニコデモの抱えていた問題に答えを与えることができたのです。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3章5節)。
イエスの答えによれば確かに人が神の国の住民となるためには「新たに生まれなければなりません」(3節)。しかし、ここでの「生まれ変わり」はニコデモが母親のお腹の中に戻って、もう一度生まれてくると言うことを語っているのではありません。それは救い主であるイエスを信じることによって生まれ変わること語っているのです。「水と霊」は私たちがキリストを信じる信仰を得るときに働かれる聖霊の力とその力を目に見える形で表す洗礼を意味しているからです。私たちは誰も自分の力で生まれ変わることはできません。それができるのは私たち人間を造ってくださった神だけなのです。だから、神が私たちに救い主イエスを遣わしてくださり、そのイエスを信じる信仰を通して、神の国の住民として生まれ変わることができるようにしてくださったのです。
2.御国が来ますように
私たちは今や、イエスを信じる信仰によってこの地上に生きていながらも、神の国の住民として生きる特権が与えられています。そして私たちが既に神の国の住民とされていることを表すものが、私たちにイエスが与えてくださっている「主の祈り」であると言えるのです。この祈りには神の国の住民とされた者の願いが、祈るべき項目が示されているからです。そして、その主の祈りの第二の願いは「御国が来ますように」と言うものです。
私たちはここで少し疑問を感じます。私たちは既にイエスを信じることで神の国の住民となったはずです。それなのに主の祈りは私たちに「御国が来ますように」と祈れと命じています。これでは、神の国つまり「御国」はまだ実現していないことになってしまいます。それでは私たちはこのことをどのように理解したらよいのでしょうか。
神の国は確かにイエスによって既に実現しています。だから私たちは彼を信じることで神の国の住民となることができるのです。しかし、一方でこの国はまだ完全な形では実現してないのです。なぜなら、イエスを信じる信仰を持ってこの国の住民とされている者は、まだ人類の一部に過ぎないからです。神はご自分の国の住民とすべき人々を既に決めおられます。そして神はこの国の住民とされるべき人々に聖霊を送って信仰を与えてくださるのです。しかし、まだ計画された神の国の住民がすべて集められている訳ではありません。だからイエスは私たちに神の国の訪れを告げる福音をすべての人々に伝えるようにと命じているのです。
神は神の国の住民として選ばれた人々をすべて集めるために、私たちの福音伝道を用いてくださるのです。だから「御国が来ますように」と願う人々は、実際にこの福音伝道の業に励む必要があるのです。なぜなら神の国の完成は私たちの福音伝道の業によって近づくことになるからです。
もちろん、私たちの福音伝道を導かれるのも神のみ業です。この福音伝道を通して救いを受け、神の国の住民とされる人を決めるのも神のみ業なのです。そして、この福音伝道における神の主導権を認める人は、自分勝手な判断に基づいて人々に福音を伝えることを中断することはできません。私たちは小さな自分の経験に基づく判断で「この人は見込みがある。この人はだめ」と決めてしまう傾向があります。しかし、私たちには他人に対してこのような判断をする権限は与えられていないのです。私たちにはただ「時がよくても、悪くても福音を宣べ伝える」ことが求められているだけなのです。
3.神の国とその義を求める
確かに神の国はまだ完全な形では実現していません。そしてこの神の国が完成するときこそイエス・キリストの再臨の時、終わりの時であるとも言えるのです。そのときはこの世界自身が生まれ変わり、新しいものとされるのです。だから私たちはその日を待ち望みつつ「御国が来ますように」と祈り続けているのです。
また、神の国の完成と言うことを考えるときに、忘れてはならないのは、私たち一人一人の人生を通して実現する神の国の完成という出来事です。有名なある神学者は「聖書の語る神の国と言う意味は場所を示すものではなく、関係を示している」と言っています。確かに私たちがイエスを信じて生まれ変わって神の国の住民となるということは、この神と私たちとの関係が一新されたと言うことを意味しています。今までは神に背を向け、またその方に敵対しながら歩んできた私たちの人生が、神のものとされること、神が私たちの人生を治める王となると言う両者の関係がこの言葉には隠されているのです。
私たちは今まで、自分を自分の人生の王として生きて来ていました。だから自分の判断こそ絶対であると考えてきたのです。不思議なことに私たちの傲慢はそれだけで終わるものではありません。自分が自分の人生の王となることだけで満足することなく、他人もまた自分に従うものでなければならないと考えるようになるからです。そしてそれはやがて世界を自分の思うままに動かしたいという願望にも発展していきます。そんなことを自分は今まで考えたことがないと言う方もおられるかもしれません。しかし、どうでしょう私たちは他人が自分の期待通りに動かなかったときに、文句を言いい、腹を立てることがないでしょうか。また、自分を取り巻く環境が自分の都合に合わないと考え、不機嫌になるのも、自分が世界の王とであるかのように勘違いしている証拠なのです。私たちは今、ニュースで自分の発言した内容の録音テープを公開されて問題になっている国会議員のことを知っていますが、本当に彼女のことを「愚かだ」と笑うことができるでしょうか。神から離れていた私たちもまた「慢心」し、今まで自分が王であるかのように勘違いして生きて来たのではないでしょうか。
今、私たちはイエスを信じて、神の国の住民とされています。生まれ変わるとは自分が今まで座っていた「王座」から降りて、代わりにその王座にイエスに就いていただくことを意味しています。そして、私たちの人生はこの日を境に大きく変わって行くのです。私たちは今まで自分が王様だと思っていましたから、自分のことを優先して考え、行動して来ました。しかし、今はそうではありません。だからイエスは私たちに次のように語ってくださっているのです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)。
まず、私たちの人生の王をイエス・キリストとするとき、またその方の御心が実現されるようにと心から願うとき、私たちが求めていた祝福が私たちの人生に実現するとイエスは語っています。私たちが幸せになることができないのは、私たちに財産や才能が足りないからではありません。自分の地位が低いことが問題なのでもないのです。そのすべてを私たちの祝福のために用いてくださる王であるイエスに、自分の人生を委ねることをせずに、自分の勝手な思いで人生を送ろうとすることこそ不幸の原因なのです。
使い方を知らない幼い子どもによく切れる包丁を与えることほど怖いことはありません。しかし、その包丁が名料理人に渡されたならどうでしょうか。むしろその包丁は本来の力を発揮し、たくさんの人々の舌を楽しませる料理を作ることができるはずです。同じように、私たちもまた、私たちの人生を私たちの王であるイエスに委ねていくことが大切なのです。そうすれば神の国は私たちの人生の上にも完全な形で実現していくことができるからです。
4.神に従い今を生きる
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
神の国の住民とされた私たちは自分の人生の王座をイエスに譲り渡し、神の国と神の義を求めながら生きることが大切であるとイエスは教えてくださいました。そしてこのイエスの勧めは次のような言葉に続いているのです。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章34節)
私たちが「思い悩む」生活、ノイローゼに陥るような生活から解放されるための知恵がここにあるとイエスは教えて下さっています。実はこの同じ箇所には「空の取りをよく見なさい」(26節)、また「野の花」のことを考えてみなさい(28節)と言うイエスの言葉が収められています。空を飛ぶ鳥も、野に咲く花も無力な存在でしかありません。しかし、彼らが私たち人間と違う点は、自分の存在を神のみ業に抵抗することなく、委ねきっているところにあるのです。
それでは自分が自分の人生の王であると勘違いしている者はどうして思い悩まざるを得ないのでしょうか。それは自分には不可能なことを自分の力で為そうと考えているからです。まず、私たち人間は過去を変えることはできません。それなのに、それに気づかない者は過去に何時までもこだわり、恨み言を言ってその日を送ってしまいます。また、私たちに人間はまだやって来ない将来の事柄を支配することもできません。それなのにやはりそれが分らない者は、まだやって来ない将来のことを先取りして心配し、恐れのあまり今、何もできなくなってしまっているのです。
さらに私たち人間は他人を自分の思うままに変えることはできません。それなのにそれを理解できない者は、泣き叫んだり、脅しをかけたりすることで他人の人生を支配しようとしてしまいます。しかし、このように生きる者は、結局は自分の人生を自分で変えることのできるチャンスを見失って、不幸な人生を送ることしかできなくなってしまいます。
私たちは世界を自分の思うままに操ることはできません。私たちは全能の神ではありません。それなのになぜ、私たちは私たちを取り囲んでいる環境の変化に不機嫌になってしまうのでしょうか。私はよく、運転をしているときに思わぬ渋滞に巻き込まれて、不機嫌になることがあります。自分以外誰もいない車の中で「何だ。これは!」と怒鳴ってしまうこともあります。しかし、考えてみればそんなことをしても渋滞が解消されるわけではありません。それよりも、渋滞を回避する方法を考えたり、渋滞になっても楽しく車内で過ごせるような方法を考え出すことのほうが得策なのです。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章34節)
この言葉を私たちは誤解してはならないと思います。「すべては神まかせ、だから何もしてはならない」とか、「すべて諦めなさい」とイエスは言っているのではないのです。そうではなく、自分で不可能なこと、神が働いて下さらなければならない領域のことはすべて神に任せ、自分に今できることを考え、忠実にそれを行なって行くことをイエスは勧めているのです。自分の人生の王座をイエスに明け渡し、そこに座っていただく人間には、それが可能となるのです。
このように「御国を来ますように」と言う主の祈りを祈る者は、自分の人生の王座をイエスに譲り渡し、自分はそのイエスの弟子として生きて行くことを願うのです。イエスは私たちが思い悩みの多いノイローゼ生活から解放され、喜びを持って生きる方法はここにあると教えてくださっているのです。
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