2017.8.13 説教 「み心が天でも地上でも行われますように」
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聖書箇所
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マルコによる福音書14章36節
(イエスは)こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
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説 教 |
1.御心を求める祈り
①神に従うための祈り
今日も皆さんと共に主イエスが私たちのために教えてくださった「主の祈り」の言葉から学びたいと思います。この主の祈りの構成は大きく二つの部分に分けることができます。前半は神のための祈り、そして後半は私たち自身のための祈りと言う具合に二つに分けて理解することができるのです。このように一つの文章が二つの部分から構成されるのは旧約聖書に記されているモーセの十戒と同じです。ご存知のようには十戒は私たち人間が神に従う方法を教えています。そこでその十戒に私たちが従って生きようとするならば、どうしても神に助けを求めなければならない事情が生まれるのです。なぜなら、私たちには聖霊なる神の助けがなければ神に従って生きることができないからです。その私たちが神の助けをどのように祈り求めるべきなのか、その方法を教えるのがこの「主の祈り」の言葉であると言ってもよいかもしれません。つまり、主の祈りは神に従おうと願うすべての人々が祈らなくてはならない大切な祈りであるとも考えることができるのです。
②責任は神にではなく、人間の側にある
私たちは、まだ神を信じない人々と信仰について話し合っているときに、「神さまがいたなら、どうして世界にはこんなにたくさんの問題があるのか」とか「神さまがいるなら、どうして自分はこんなに苦しい人生を送らなければならないのか」と言った質問を受けることがあります。ただ、このような質問に私たちが自分の知識をすべて動員して懸命に答えて見たとしても、彼らが私たちの説明で満足することはまずあり得ません。なぜなら、彼らのほとんどは私たちに自分を納得させる説明を求めている訳ではないからです。だから、私たちが聖書の言葉を使って懸命に答えようとしても、これらの会話のほとんどは不毛に終わってしまうことが多いのです。しかし、ここであえてこれらの人々の疑問について考えて見るならば、「神さまがいたらな、どうして世界にはこんなにたくさんの問題があるのか」と言う彼らの言葉の意味は、「神さまの御心がこの地上に実現しているとすれば、世界に問題は存在しないはずだ」と言っていと考えることができます。だからこの地上に問題が多いのは、神の御心など存在せず、また神自身存在していないことを示しているだと彼らは主張するのです。
このような質問の背後には私たち人間の側の責任を見逃していると言う大きな特徴があります。なぜなら、この地上に起こる問題のほとんどは私たち人間の側が作りだしているからです。最近、私たちの住む日本でも異常気象が問題となり、この夏も甚大な自然災害のために多くの被災者が生まれました。この自然現象でさえも、私たち人間が起こした自然破壊が原因となっていることは多くの人々に知られています。人類による多量の二酸化炭素の放出によって地球のオゾン層が破壊され、世界的な気温の上昇と言った現象が今起こっているのです。ところがこのような深刻な問題を抱えていても、人類はこの問題の解決のために足並みを揃えることが未だにできていません。逆にどんなに地球環境が破壊されても、自然災害によって自分の国以外の人々がどんなに苦しみことになったとしても、自分たちだけ幸せになれればよいと言う思想がむしろ多くの人々に指示されているのです。ですから、このすべてを神の責任にしようとするのはあまりにも無責任であると言えるのです。
主イエスは私たちに「みこころが天で行なわれるように、地上でも行なわれますように」と祈るようにと勧めています。この祈りはこの世界のすべての問題が私たち人間の手によって引き起こされていること、そして、その問題を解決する手段を私たち自身が持ってはいないことに気づかされている者たちが、切実な思いを持って神に助けを願い求める祈りであると言えるのです。
2.地上に神の御心は実現していないのか
神による創造の物語を記している創世記の1章には神が人間をこの地上に創造されたときに、人間に語られた次のような命令が記されています。
「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」」(28節)
神はこの地上にあるものすべてを御自身に代わって、私たち人間に治めるようにと命じられています。ですから、人間はこの世界を治める責任を神に対して負っているのです。ところが人間が罪を犯して、この使命を正しく果すことができなくなってしまったので、地上には不調和と沢山の問題が生じてしまうことになったのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(8章22節)と語っています。私たちに人間の運命と、この地上のすべての被造物の運命は深いつながりを持っています。だから人間が神によって救われることが被造物全体の救いにも繋がってくるとパウロはここで言っているのです。
ところで、このような人間の罪により、人間はこの地上に神の御心を実現させる使命を今や果たせなくなっています。それでは、この人間のために世界には今、神の御心が実現していないのでしょうか。世界に対する神の支配は今、存在していないのでしょうか。そうではありません。人間の罪や、それによる世界破壊と人間破壊の現実の中でも神の支配はちゃんとこの地上に実現されていると聖書は私たちに教えているのです。
特に神は人間が神のためではなく、自分自身のためになそうとするすべての計画をむしろ御自身の御心の実現のために用いられるのです。パウロはこの事実を踏まえて次のようにローマの信徒の手紙の中で告白しています。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(28節)
この言葉はすべての出来事が私たちの都合のいいように進むと言うことを約束しているのものではありません。むしろ、全く違った人間の思いがそこにあるにも関わらず、すべての出来事を用いて神が御心を実現してくださることを私たちに教えているのです。
人間の意図とは違い、それとは全く違った神の御心がこの地上に実現していくという一番のよい例は、イエス・キリストの十字架の出来事です。イエスの十字架の死は、罪によって滅びるしかなかった私たち人間を救い出すための神の御心、その計画によって実現したものでした。ところが、この計画が実際にこの地上に実現されるきっかけを作ったのは、むしろイエス・キリストの存在をこの地上から抹殺しようとする悪者たちの計画と行動によるものでした。
イエスがエルサレムに入場したときには、たくさんの群衆が歓呼の声を上げて、彼を迎えました。それだけ人気を誇ったイエスがわずかの間に、エルサレムのすべての人々から憎まれ、見捨てられてゴルゴダの丘で十字架刑に処せられることになるためには、人間の立てた巧妙な計画が存在し、それが見事に実現した結果なのです。ところが神はそれらの悪しき人々の意図に反して、むしろイエスの十字架を通して御自身のこの地上に対する御心を実現されたのです。
このように神の御心は人間の罪があったとしても、この地上に間違いなく実現されているのです。だから「みこころが天で行なわれるように、地上でお行なわれますように」と言う祈りは、この地上に間違いなく実現していく神の御心が、私たちの願い、私たちの人生の計画と同じになるようにと言う祈りでもあるのです。この主の祈りの言葉は私たちも神の御心と同じ思いを抱いて生きることができるようにと言う願いを表すものでもあるのです。
3.ゲッセマネでの苦しみの祈り
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14章36節)
今月の言葉は聖書の中でも特に有名な聖句であると言えます。イエスはご自分が十字架に架かって死なれる時が迫られたとき、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を伴ってゲッセマネと言う所に赴きました。そしてそこで父なる神に向かって熱心に祈られたのです。このイエスの祈りを少し前後の文章を含めてもう一度、読んで見ましょう。
「彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マルコ14章34〜38節)。
イエスはこのとき十字架の至ろうとする自分から死の苦しみを取り除いてほしいと願われました。なぜならイエスの十字架の死は勇敢な英雄の死ではなかったからです。彼の死は無残な罪人の死であったからこそ、イエス激しく苦しまれたのです。しかし、その苦しみの中でイエスが願われたことは「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言うものだったのです。
この地上において、イエスによって救われた私たちはすでに神の子とされています。しかし、もう一方で私たちはなおこの地上に留まる限り、この世の悪と罪と激しい戦いを続けなければならないのです。そのような私たちにとってイエスと同じく「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と願うことは、激しい苦しみを伴う戦いの祈りとなるのです。むしろ、私たちはこの世の流れに従い、この世の力に妥協して生きるなら、どんなに簡単で、やさしいことでしょうか。しかし、私たちは既に、そこには私たちの希望はないことを知らされています。イエスの後に従わない限り、私たちには絶望と滅びだけが待っているのです。
ですから、私たちは十字架の死を通して復活の勝利を得ることができた主イエスの姿を思い起しながら、私たちもまた「御心に従うこと」を自分にとっての最善の道であると信じ、願うのです。だから「みこころが天で行なわれるように、地上でお行なわれますように」と言う祈りは、私たちの人生に神が与えてくださる本当の祝福が実現することを願い求める祈りでもあると言えるのです。
4.神の御心とは何か
①これが神の御心です
以前、「神の御心がわかない」と口癖のように語る兄弟が私たちの教会の礼拝に出席されていたことがありました。その方の疑問を聞いて私は自分の説明出来る範囲で、何度も神の御心についてお話しました。しかし、何度説明してもその方は納得いかないようなのです。だから同じ疑問をその後も何度も繰り返し口にしていました。よくよくお話を聞いて見るとこの兄弟の疑問には具体的なある問題が隠されていることが分りました。それはその兄弟が所属する教会の牧師が教会の方針を説明するときに「これが神さまの御心です」と言う言葉を決り文句のように使ったからです。教会の牧師が新しい方針を教会に説明します。その説明を聞いて納得する人もいますし、納得出来ない人もいます。しかし、牧師が「これが神の御心です」と言う言葉を最後に語ると、どんなにその説明では納得できなくても、文句を言わずに従わなければならなくなると彼は思ったのです。その計画が神の御心なら、「みこころが地上でも行なわれますように」と祈っている自分は従わなければならないと彼は考えていたようなのです。だから、その兄弟は「なぜ牧師には「神の御心」が分るのだろうか」と言う疑問を抱かざるを得なかったのです。
その牧師が神の御心についてどのような意味で教会員に語ったのか私にはわかりません。もしかしたら、その言葉を誤解しているのは、その言葉に疑問を抱くその兄弟自身だけだったのかも知れません。おそらく、彼がどんなに聖書を研究しても、彼の疑問は解決しないのではないかと思います。なぜなら神の御心が記されていると言う聖書の言葉の中には具体的な教会の方針などどこにも書かれていないからです。聖書をいくら読んでも、そこには私たちの人生に対する具体的で細かい指図は記されていないのです。むしろ、私たちが「神の御心」と確信するものは自分が聖書の言葉と向き合いながら、祈りつつ考えるときに、始めて与えられるものなのかもしれません。だから、そこで知り得た神の御心は誰にでも通用するものではありません。しかももしかしたら自分が神の御心と確信したこと自体が誤解であったと言うこともあり得るのです。
むしろ私たちは「これが神の御心です」と言う言葉を使って自分の思いを人々に押しつけていくことがないように用心しなければならないと思います。極端な話ですが、テロリストは自分の残虐な行為を正当化するために「これこそ神のみ心だ」と語ることを多いのです。しかし彼らは神の御心を行なっているのではなく、自分の愚かな計画を実行しているだけなのです。
②イエスを信じて生きることが神の御心
それでは私たちは神の御心をどのように知り、またその御心を行なうことができるのでしょうか。イエスは私たちに次のように語ります。
「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6章29節)。
イエスはここで私たちの救いのために神から遣わされたご自分を信じることが神の御心だと説明しているのです。そして、その御心を行なうということは、このイエスを信じて生きることだと言っているのです。このような意味で私たちに対する神の御心は聖書に明確に示されていると言えるのです。
私たちはこの神の御心が地上に実現するために祈り続け、心を一つにして行く必要があるのです。そして教会の一致も私たち一人一人がこの神の御心を自覚して生きるときに実現して行くのです。私たちはこの神の御心が実現するように、熱心に福音伝道を行なう必要があります。なぜならこの福音伝道を通してイエスを信じる人が起こされ、この地上に神の御心が実現して行くからです。ですから「みこころが天で行なわれるように、地上でお行なわれますように」と言う祈りは、私たちを通して神の福音が多くの人に伝えられ、神の救いにあずかる人が多く起こされるようにという願いを示す祈りでもあるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま。
「みこころが天で行なわれるように、地上でも行なわれますように」とわたしたちは主イエスの祈りに導かれて今日も願い求めます。深刻な問題を抱えながらも、その問題を自らの力では解決できないこの世界のために私たちはあなたの助けを求めています。そしてこの世界で起こるすべての出来事を通して御自身の御心を今日も実現されるあんたの心と私たちの計画が一致できるようにと祈ります。そして何よりもすべての人々が主イエスを信じて、あなたの救いを受けることで、あなたの御心が地上に実現されるよう私たちは祈ります。また、あなたがあなたの御心を地上に実現する器として私たちを用いてくださるよう願い求めます。
これらの祈りと願いを主イエス・キリストの御名に依って祈ります。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.創世記の物語(創世1:28)によれば人間はこの地上に神の御心を実現させると言う責任を果すために神によって造られました。それでは人間はその責任を今果すことができているでしょうか。
2.神はこの地上に御自身の御心を実現させるために、私たち人間の思いや行動を、どのように用いられますか。
3.あなたは自分の人生に対する神の御心について今まで考えたことがありますか。あなたが今まで神の御心だと考えたことはどのようなものでしたか。
4.主イエスは私たちにどのような神の御心を示されましたか。私たちが自分の人生を通して神の御心を行なうとはどのようなことですか。
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