2017.8.20 説教 「彼女は一同をもてなした」


聖書箇所

マルコによる福音書1章29〜34節
29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。33 町中の人が、戸口に集まった。34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。


説 教

1.ペトロ伝承
①ペトロの個人的な証し

 この福音書を記したとされるマルコについては福音書の中では何も語られていません。しかし教会には彼についての様々な伝承が語り伝えられています。マルコの本名はヨハネで、使徒言行録に登場するキプロス島出身の伝道者バルナバのいとことであったと聖書には説明されています(コロサイ4章10節)。彼はガリラヤの漁師からイエスの弟子とされたペトロの通訳者として働いたとされています。おそらく、ギリシャ語に堪能ではなかったペトロに代わって、ペトロの語るキリストについての証言をギリシャ語に直して人々に伝える重要な働きをマルコは担っていたのだと思われます。ですから聖書学者たちはこのマルコによる福音書の取り上げている物語の大半がこのペトロからマルコに伝えられた伝承ではないかと考えています。
 福音書はその著者とされるマタイやマルコ、ルカ、ヨハネと言った福音書記者が考えた創作の物語ではありません。彼らはイエスについて教会に伝えられて来た伝承を丹念に集めて、それを編集し、それぞれの福音書を記したと考えられています。そしてマルコは自分の福音書を記す際に、生前のイエスの姿を最も身近で知ることができたペトロから話を聞き、この福音書を編集したと考えられているのです。
 今日の聖書箇所はペトロの家で起こった出来事が取り上げられています。ですからある聖書研究家はこの部分をペトロ自らが自分の体験を語った証しとして読むべきであると私たちに勧めているのです。そうなると今日の箇所は「すぐに、私たちは会堂を出て、私とアンデレの家に行った。」と読むことができますし、「(そこで)私のしゅうとめが熱を出して寝ていた」と読み替えることができるのです。福音書の中にはイエスの行われた奇跡がたくさん収録されています。しかし、ペトロにとって今日の聖書箇所に記された出来事は自分の身内に起こった出来事として忘れることができない特別なものであったと想像されるのです。そしてペトロは人々に福音を伝える際に、自分が体験した出来事を感動をもって伝えたのです。
 先日の韓国のホサナ教会のメンバーの中でご自分の信仰の体験を証された方のお話がありました。このような証しを聞く機会は私たちの教会ではあまりありませんが、その証しの原型と言えるものはイエスに出会い、イエスの御業を体験した弟子たちの証言にあると言えるのです。

②中途で使命を放棄したマルコ

 実はこの福音書の記者であるマルコついて、聖書は大変興味深いことを証言しています。もし、この福音書の著者が教会の伝承の通り、バルナバのいとことされるマルコと呼ばれたヨハネだとすれば、彼はペトロの助手になる前に、自分のいとこのバルナバとその協力者であるパウロの助手として彼らと伝道活動に共にしていた時期があったのです(使徒13章5節)。しかし、マルコはどのような理由があったのか分かりませんが、一人でバルナバやパウロと別れてエルサレムに帰ってしまうと言う出来事が語られています(使徒13章13節)。つまり、マルコは自分に与えられた大切な使命を途中で投げ出して、自分の家に戻ってしまったのです。実はこの出来事が後になってバルナバとパウロの協力関係を終わらせる原因となりました。その一部始終について使徒言行録15章36節から次のように語っています。
 「数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(36〜40節)。
 パウロはこのとき自分に与えられた使命を途中で放棄してしまうような失敗を犯したマルコを一緒に連れていくことはできないと強く主張しました。パウロは大変厳しい態度をここで示しています。もしかしたら、これはマルコをどんなことが起こるかわからないような伝道の旅に同行さえることは、彼とってもよくないと判断した、パウロのマルコに対する思いやりの表れだったのかもしれません。しかし、このパウロの主張の故に、マルコだけではなく、パウロと一緒に旅立つ筈だったバルナバまで彼と袂を分かつことになります。マルコの犯した一度の失敗がパウロとバルナバの大切な関係を破壊する原因となったのです。
 この後、どのような経緯があったのかわかりませんが、このマルコはペトロの協力者として働くことになったと教会の伝承は伝えているのです。マルコはパウロたちと協力することはできませんでしたが、その代わり、ペトロの通訳者として働き、教会にとってもっとも大切な福音書を記す使命を担い、その働きに忠実に励んだのです。

2.病に伏すシモン・ペトロのしゅうとめ
①ペトロを通して語られたイエスの愛

 マルコは過去に自分に与えられた使命を放棄してしまったという大きな失敗の過去を持った人物でした。そんなマルコには「自分たちと伝道旅行を共にする資格はない」と語ったパウロの言葉が一番に身に染みてよく分かったはずです。そんな彼がペトロの通訳者として、ペトロの口から語られるイエス・キリストについての証言を聞いた時、彼はたぶん驚きを覚えたはずです。なぜならこのペトロは、マルコの失敗以上に深刻な失敗を過去に犯してきた人物だったからです。ユダヤ人に逮捕されたイエスを見捨てて逃げてしまった出来事は、ペトロにとって取り返すことのできない失敗であったはずです。ペトロもまた、かつてマルコと同じように自分に与えられた使命を途中で放棄してしまうという失敗を犯した人物だったのです。おそらくマルコはこのペトロの証言を自分に起こった出来事のように身近に聞くことできたのではないでしょうか。
 よく私たちは他人の語る失敗談を聞いて安心することがあります。「ああ、こんな人も失敗するのか」と自分だけが特別ではないことを教えられて安心するのです。しかし、他人の失敗談を聞いて安心すると言う方法には大きな落とし穴があります。なぜなら、そのように他人の失敗談を聞くことで自分の安心を得ようとする人は、逆に他人の成功談を聞くとガッカリして落ち込んでしまう可能性があるからです。ですから、このような人は他人の成功談を素直に受け入れることができません。だから優秀で成功経験を重ねているような人を避けて、自分と同じような失敗を繰り返す人を捜し出して、その人だけを友達にしようとするのです。
 マルコはペトロの失敗談を聞いて安心したのではないと思います。なぜならペトロの証しは自自分の失敗談を語ることが目的ではなかったからです。ペトロは自分の深刻な失敗経験にも関わらず、決して変わることのなかったイエス・キリストの愛を人々に示すために自分の体験談を語ったはずだからです。ペトロは確かに取り返しのつかないような失敗を犯しました。しかし、そのペトロが弟子として今も生き続けることができるのは、そのペトロを決して見捨てず、むしろ、愛し続けたイエス・キリストの存在があったからなのです。そしてマルコが福音記者としての使命を果たすことができたのは、ペトロを通してこのイエス・キリストの変わらない愛が自分にも向けられていることを知ったからだとも言えるのです。

②病に臥せるペトロのしゅうとめ

 今日の聖書箇所にはその変わることのないイエス・キリストの愛とその御業の素晴らしさが豊かに示された物語が記されています。この日、カファルナウムの会堂での礼拝を終えたイエスをシモン・ペトロは自分の家に招待しようとしました。この日の会堂の礼拝では汚れた霊に取りつかれた人が騒ぎ出すというハプニングが起こっていました(21〜28節)。ペトロは自分の家にイエスがお連れすることで、イエスに落ち着ける場所を提供しようとしたのです。ところが、一行がペトロの家に到着すると彼のしゅうとめが熱を出して寝ていることが分かりました。ここまでペトロのしゅうとめの状況は説明されず、むしろしゅうとめの病状はペトロ以外の人々が家に到着したイエスにお話したから、分かったようです(30節)。つまりこの時ペトロ自身はまだしゅうとめの病を知らなかったと考えることができます。イエスに従っていたペトロたちが家に帰ってみると、そこで彼のしゅうとめが突然の病に犯され、熱を出して床に臥せっていたのです。
 ペトロはひょっとしたら、このしゅうとめにイエスとその一行のもてなしをしてもらおうと思っていたのかもしれません。しかし、彼のしゅうとめは突然の病によってその使命を果たせなくなっていました。病気によって引き起こされる苦しみは、その病気によって起こされる肉体の苦しみだけではありません。突然、健康を失うことによって今まで、当たり前のように暮らして来た生活の継続ができなくなることも病気に伴う大きな苦しみの一つです。今まで一家を経済的に支えていた主人が病気になって、かえって家族から面倒を見てもらわなければならない立場に代わってしまうことがあります。子どもたちや夫の毎日の生活を懸命に支え続けてきた一家の主婦が病気のためにその一切の仕事ができなくなってしまうことがあります。そこで病にかかった人はこれから先の自分の家族のことを心配するかもしれません。そして今は病床で何もできなくなってしまった自分の人間としての価値の喪失感にも苦しめられるのです。
 ペトロのしゅうとめは突然の病のために熱を出して床に臥せていただけかもしれません。しかし、ここでのペトロのしゅうとめの存在は人間の人生に起こる突然の病や、そのほかの様々な出来事によって本来の使命を果たしえなくなってしまった人間の姿を代表して示すものとも考えることができます。その意味でペトロもかつては自分の弱さの故に弟子としての使命を果たしえなくなった体験を持っていました。またマルコも同様の経験を持っていた人物だったのです。それでは自分の肉体や心の弱さの故に与えられた使命を果たすことができなくなった人間はどのようにして、本来の使命を果たし得る存在になることができるのでしょうか。その秘密を解き明かすのがこのシモン・ペトロのしゅうとめに起こった出来事であると言えるのです。

3.イエスの癒しを体験する

 ある説教家はイエスの行われた奇跡を取り上げて次のように説明しています。イエスの行われた奇跡には、一つ一つ大切な目的があると言えます。イエスが目の見えない人の目を開かれたのは、その目をもって彼が神の素晴らしい救いの出来事を目撃するためでした。また、イエスによって耳が聞こえるようになった人は、その耳で神の喜ばしき知らせ、福音の真理を聞くことができます。さらに足が不自由で歩けなくなった人をイエスが歩けるようにされたのは、その足でイエスの後に従って来ることができるようにされるためだと言うのです。
 実際にシモン・ペトロの家でもこのときイエスの奇跡が実現しました。

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(31節)。

 イエスの御業によってペトロのしゅうとめの熱は去り、彼女はすぐに一同をもてなし始めたとマルコは語っています。しゅうとめはイエスの起こされた奇跡によって彼女に与えられた使命を果たすことができるようにされたのです。
 「一同をもてなした」。これは単にしゅうとめが食事の支度をしたと言うことを表現するものではありません。癒された彼女はイエスに仕える者となったと言うことを言い表している言葉なのです。その証拠にここで使われている「もてなした」と言う言葉の時制は未完了形で表現されていますから、この動作がずっとその後も続いていることを表しています。きっと、この出来事がペトロにとって忘れ難かったのは、この出来事を通してペトロだけではなく彼の家族すべてがイエスによって救われ、弟子として生きるようになったからではないでしょうか。
 私たちがイエスの弟子としてその使命を果たすことができるのはどうしてでしょうか。「自分は人と比べても優れている様々な能力を持っている」。「人より我慢強い」。「重要な使命を果たすためにそれらのものが役に立つ」、そう私たちは最初、思い違いをするかもしれません。しかし、ペトロやマルコのように自分の弱さの故にその使命を果たせなくなった体験を持つ人は、また突然の病の故に苦しんだ体験を持つ人は、その使命に堪え得る根拠を自分の内側に見出すことができないことを知らされるのです。
 マルコを通して語られたペトロの証言はそのような体験を持つ私たちに語り掛けています。私たちが使命を担えるのは、その私たちが、与えられた使命を担えるようにしてくださるイエスの奇跡的な御業の結果なのです。だから、私たちのような者であっても、イエスに従うことができると言えるのです。
 ユダヤでは新しい一日が夕方に日が沈むことによって始まります。日が沈むとそれまでは安息日のために行動を控えていた人々がペトロの家に押し掛け始めます。この時戸口に集まった人々の中にも病気にかかっている者や、悪霊にとりつかれて苦しんでいる人々が多数いたようです(33〜34節)。イエスはここでも休むことなく、彼らを奇跡的な御業で癒されました。そして悪霊にとりつかれて苦しむ人から悪霊を追い出されたのです。これによってイエスは自分で使命を果たせなくなっている人々を癒し、彼らを本来の使命に生きる者としてくださったのです。
 ペトロの証言はイエスが私たちを見捨てることなく、どこまでも私たちの弱さと付き合い、その私たちを癒してくださる方であることを私たちに示しています。ですから私たちの信仰の確信は、私たちの内側に置かれるものではないのです。もしその信仰の確信が私たちの内側にあるなら、私たちの人生に起こる病や突然のトラブルによって簡単になくなってしまうはずです。しかし、私たちの信仰の確信の根拠は私たちにどこまでもつきあって、私たちを癒し続ける主イエスに側にあるのです。なぜならイエスはそのままでは自分に与えられた使命を担うに堪え得ない私たちを癒し、私たちを弟子として生かしてくださる方だからです。そのことを私たちは今日の聖書箇所の出来事を通してもう一度心に刻み、イエスに従う信仰生活をこれからも続けていきたいと思うのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちはあなたから大切な使命を一人一人与えられていながらも、その使命を忠実に果たすことができず、途中で投げ出すことしかできないような弱さを持つ者であること覚えます。しかし、あなたは取り返しのつかないような失敗に犯して苦しんだ弟子のペトロを癒し、忠実な使徒としてくださいました。パウロたちが非難されるような過ちを犯したマルコをも癒し、福音書を書き記す務めを忠実に果たすことができる者としてくださいました。あなたはどこまでも私たちを見離さず、私たちを癒し続けてくださる方であることを覚えます。私たちがそのあなたを信頼して、新たな信仰の歩みを続けていくことができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.安息日に会堂を出たイエスとその一行はすぐにどこに向かわれましたか(29節)。
2.その家に着いて、イエスはどんなことを知らされましたか。
3.イエスは熱を出して寝ていたシモン・ペトロのしゅうとめに対して何をされましたか。その結果、彼女はどうなりましたか(31節)
4.夕方になって日が沈むと、ペトロたちの家の戸口にどんな人が集まって来ましたか。
5.イエスは彼らにどのように対応されましたか(34節)
6.イエスはこのとき悪霊にたちが何をすることを許されなかったのですか。