2017.8.6 説教 「今日を生きるために」
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聖書箇所
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マタイによる福音書6章25〜34節
25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
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説 教 |
1.心配と「思い悩み」
①心配することは悪くはない
私たちは時々、心配事で心が一杯になっている人に「心配しなくてよいよ」と声をかけたくなることがあります。しかし、それはある意味で無責任な言葉なのかもしれません。なぜなら、心配している人は心配する必要があって、心配しているからです。もちろん、その心配を解決するために、こちら側から何かのお手伝いを提供しようとして、「心配しなくてもよい」と声をかけるのであれば、その言葉には意味があると思います。ところがそんな気持ちなど、更々ないのに口先だけで「心配しなくてもよい」と語ることは、自分は満足できても、その心配している当人には何の訳にもたたないものだと言えるのです。
そもそも、心配することは本当に悪いことなのでしょうか。そうではないと私は思います。確かに、私たちは自分の人生についていろいろな心配を日頃から抱き続けています。しかし、私たちは心配するからこそ、その心配を解決するためにいろいろな知恵を絞り、物事をよい方向へと導いていくことができるのではないでしょうか。心配のない人生はどこにもありません。それでも、私たちはその心配に対処することができ、自分の人生を向上させることができるからこそ、その心配には重要な意味があると言うことができるのです。
②なぜ「思い悩む」ことは問題なのか
私たちの主イエスは私たちに対して「思い悩んではならない」と聖書の中で語っています。イエスはこの言葉を通して私たちに何を伝え、私たちに何を望まれているのでしょうか。イエスはここで心配する人に「心配しなくてもいい」と無責任な言葉をかける人と同じように、私たちに「思い悩んではならない」と口先だけで語っているのでしょうか。今日はこのイエスの言葉を手がかりに、私たちが「思い悩み」から解放され、今を生きることのできる方法を学んで見たいと思います。
まず、最初に皆さんに考えてほしいのは、心配することとイエスがここで取り上げている「思い悩み」の間には大きな違いがあると言うことです。心配事は、それに対して私たちが何らかの対処をすれば、むしろ自分の人生をプラスの方向に導くことができます。しかし、イエスが言う「思い悩む」はそうではありません。簡単に言えば、「思い悩み」は私たちがいくら思い悩んでも自分では解決の付かないことを考え、思い悩むこと意味しているのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(27節)とイエスは同じ聖書の箇所で語っています。これは私たちが長生きのためにいろいろと努力することは無駄だと言っているのではありません。神の決められた一人一人の命の年月は人間には変えることができないと言っているのです。それはなぜでしょうか。人の命は神が私たち人間に与えてくださるものであって、私たち人間が作り出すものではないからです。そして人間の「思い悩み」はこのことを私たちが忘れてしまうところで生まれて来ると言えるのです。神だけができる領域に私たちが足を踏み入れて、あたかも自分が神になったかのうに勘違いすることで、私たちの人生に「思い悩み」が生まれるのです。しかし、私たちは神ではありませんから、結局何もできないままに「思い悩む」ことで無意味な時間を過ごしてしますのです。そうです、私たちが思い悩むことによって起こる最大の悲劇は、思い悩むことで無意味に人生の貴重な時間を過ごしてしまい、自分の命の時間を無駄遣いしてしまうことにあるのです。
思い悩むことは無意味なことです。私たちがいくら思い悩んだとしても、私たちの力ではその思い悩みを解決することできないからです。もし、思い悩みが私たちの人生に役立っているとしたならば、それは私たちが何もできないことを言い訳するために利用することができると言うことだけです。「自分は今、悩んでいるから何もできない」と言う人がいます。しかし、実際にそうではなくむしろ、自分は何もしたくないために、「思い悩み」をその理由にしようとするのです。しかし、結局「思い悩み」をいくら言い訳として使ったとしても、その人は何もしていないのですから、その人の人生は何も変わることはありません。相変わらず思い悩むことで大切な人生の時間を無駄遣いしてしまうことになってしまうのです。
2.神の配慮と賜物
しかし、私たちはそう言われながらも「思い悩む」ことを止めることができないでいます。思い悩んでも仕方がないの、それが分っていても止めることができないのです。私が子どもの頃に流行った歌の文句に「わかっちゃいるけど、やめられない」と言う台詞がありました。あの歌が流行ったのはもしかしたら、分っていてもどうにもならない人間の本質を歌っていたからかもしれません。
しかし、イエスは私たちに「思い悩むな」と語りかけてくださいます。つまり、私たちは「思い悩み」から解放されることができるとイエスは教えているのです。そして、そのためにまずイエスは空の鳥や野の花に私たちの目を向けなさいと聖書の中でアドバイスされています。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(26節)。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(28〜29節)。
確かに私たちは空の鳥がお金を持ってスーパーに買い物に行く姿を見たことはありません。野の花がクローゼットに何枚もの着替えを準備している姿を目撃したことはないのです。空の鳥も野の花も自分にできることは、私たち人間に比べて本のわずかであしかありません。それなに鳥は自由に空を飛ぶことが出来、野の花は美しく咲き誇ることができます。それはどうしてなのでしょうか。空の鳥も野の花も神のみ業の中で生かされている存在だからです。神は空の鳥のために、また野の花のために豊かな賜物を与えてくださっているのです。その神のみ業こそが彼らが自由に空を飛び交い、また美しく咲き誇ることのできる秘密だとイエスはここで教えてくださっているのです。
イエスは私たちに「あなたがたは鳥よりも価値があるものではないか」と語り、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(30節)と語ってくださるのです。神は私たちに対して、空の鳥よりもまた野の花よりも関心を持っておられ、豊かな賜物を与え続けてくださっているとイエスは教えてくださるのです。このイエスの言葉からまず、私たちが思い悩みから解放されるために、私たちに対して神が深い配慮と豊かな賜物を与えてくださっていることに知らなければなりません。そして私たちは思い悩む代わりに、その神を信じる必要があるということをイエスは教えてくださっているのです。
3.自分にできることを神のためにする
インドで貧しい人のために懸命に働き、生涯をその活動のために献げたことでノーベル平和賞を受賞したマザーテレサと言う人物がいます。特に彼女は身寄りが無く、町角に放置されて、死を待つばかりの病人を引き取って、彼らの最後を看取る活動をしたことで有名です。
ある映画スタッフが彼女の貴重な活動をフイルムに収め、ドキュメンタリーを作りたいと、マザーテレサの元にやって来たときの話です。あるとき彼らは、自分たちの撮影の仕方で悩み、そのことが原因でスタッフ間で言い争いさえ起こりました。それはどうしてかと言えば、自分たちが取りたい映像を作るためにはどうしても撮影機材やスタッフが足りないのということに彼らが気づいたからです。しかし、彼らにはその不足を補う資金も、時間も今はありません。そしていくら彼らの持っている経験や知恵を尽くして話し合っても、この問題は解決できないまま時間は過ぎていきます。
すると、そのスタッフたちの言い争いに気づいたマザーテレサが彼らに「一体何をしているのか」と尋ねて来たと言うのです。そこで映画スタッフが一部始終を説明するとマザーテレサはすぐにこう答えてと言うのです。「神さまは私たちにできないことをするようにとは望んでおられません。だから私たちは自分にできることを神さまのためにやればよいのですよ」。
マザーテレサの活動は世界の人々に影響を与えるほどに大きなものでした。しかし、その活動の原理は極めてシンプルであったと言うことがこの彼女の語った言葉からも分ります。「私たちは自分にできることを神さまのためにする」。このことに気づき、神を信頼して生きたマザーテレサだからこそ彼女は世界の人々に影響を与えるほどの活動をすることができたのです。
4.「思い悩み」のチェックシート
それではどうして私たちはマザーテレサのように「自分にできることをする」と言うシンプルな生き方ができないのでしょうか。その理由はこれも単純です。私たちは私たちに深い配慮を示し、賜物を豊かに与えてくださっている神の存在に気づかないでいるか、その存在を否定しようとするからそうなってしまうのです。それではもし、私たちが神の存在に気づかず、神の存在を否定するなら、私たちはどうなってしまうでしょうか。私たちは自分で神の働きを代わってしなくてはならなくなってしまうのです。何度も言いますように、「思い悩み」の悲劇は私たちが自分を神とするところに始まるのです。もしかしたら、「あなたはそんな大それたことをしてはいない」と言い訳するかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。試しにそのことが分るチェックシートをここで皆さんに紹介したいと思います。
まず、第一にあなたは自分の家族を含めた他人があなたの期待通りに生きてくれないからと言って、不満を抱いたり、怒りを感じることはありません。私たち人間はそれぞれ異なった人格を神から与えられています。私たちは自分とは違う、人格を持った他人を支配することも自分の自由に動かすこともできないのです。なぜなら、それができるのは神だけだからです。もし、私たちが他人を自由に操作しようとしているなら、それは自分が神になっている証拠であると言えるのです。
第二に、あなたは自分を取り巻く環境が自分の思う通りにならないと言って不満を感じ、怒りを覚えていませんか。もちろん、これは自分の努力次第で変えることのできる身近な生活環境のことを言っているのではありません。人は天気のような自然現象を自由に操作することはできません。それなのに「今日は、なぜ雨が降っているのか」とかと考え、憂鬱になってしまうとしたらどうでしょうか。人間がいくら嘆いて、不満を語っても天気は変わりません。しかし、自分が神だと勘違いしている人は、そのことさえ気づかないまま、自然現象の変化にまで文句を付けるのです。
第三にあなたは過ぎ去ってしまった自分の過去を思い出して、嘆き悲しむことはありませんか。その反対にまだやって来ていない明日のことを考えて不安を感じることはありせんか。過ぎ去ってしまった過去を変えることは誰にもできません。また、まだやって来ていない未来のことについて私たちがいくら不安を感じても、その未来を私たちは変えることはできなのです。このいずれも、自分が神だと勘違いしている人に起こる現象であると言えるのです。
5.神の賜物であるイエスを信じて生きる
イエスの言葉に耳を傾けましょう。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(33〜34節)。
私たちはまず、私たちの目を神に向けましょう。最初に心配している人に「心配しなくてもいい」と言うだけでは無責任だと言うことを語りました。しかし、私たちの主イエスはこのような無責任な人間とは違っています。私たちに「思い悩むな」と言ってくださるイエスは、私たちが思い悩む必要がないように、私たちの人生に介入し、その責任を負ってくださる方だからです。イエスは私たちに「自分でその「思い悩み」を解決しないさい」と言っているのでは決してないのです。
私たちの神は私たち一人一人の人生に深い関心を持ち、賜物を豊かに与えてくださる方です。そしてその神が与えてくださった最もすばらしい賜物こそ私たちの主イエスなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。
このイエスは私たちのために十字架にかかり死んでくださいました。それは私たちには決して変えることのできない罪人としての過去を変えてくださるためにです。そして、私たちがその罪のために負わなければならない永遠の滅びの刑罰を取り去ってくださるためでした。だから私たちの未来はこのイエスによって永遠の滅びから永遠の命へと変えられたのです。そればかりではありません。私たちの人生と私たちの世界を支配している悪の力にイエスは十字架の死を通して勝利してくださいました。だから、私たちの人生に私たちためにならないことは決して起こることはないと聖書は私たちに約束しているのです。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)。
もちろん、この言葉は私たちの人生が私たちの都合のよい通りにいつも進むと言うことを言っているのではありません。むしろ、この言葉はイエスが私たちの人生を導いて、私たちの人生に永遠の命の祝福が実現されるようにしてくださることを語っているのです。
イエスはこのように、私たちに「思い悩むのを止めなさい」と勧めた上で、私たちが思い悩む代わりに、私たちの人生を責任を持って導いてくださる主イエスを信じて生きるようにと教えて下さっているのです。私たちがこのイエスを自分の救い主として自分の人生にお迎えするなら、私たちもまた私たちの人生を支配している深刻な「思い悩み」から解放され、「自分にできることを神さまのためにする」と言うシンプルな生き方を自分の人生で選び取ることができるようになるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神様
思い悩むことで人生の貴重な時間を無駄遣いしてしまう私たちは、主イエスのアドバイスによって今、空の鳥と野の花に目を向けます。空の鳥を自由にはばたかせ、野の花を装わせてくださるあなたは、私たちに深い配慮と、豊かな賜物を与えてくださいます。その最高の賜物として主イエスを私たちのために遣わしてくださったことを心から感謝いたします。私たちが私たちの人生を責任を持って祝福へと導いてくださる主イエスを信じて、自分の人生をゆだねて生きることができるようにしてください。願わくは今、思い悩みの内で苦しんでいる人に、あなたが聖霊を遣わし、神の救いを受け入れて、真の平安を受けることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスは私たちに何のことについて思い悩むなと言われていますか(25節)
2.私たちが「思い悩み」から解放されるために、イエスは何から学ぶべきだと語っておられますか(26〜30節)。
3.イエスは私たちが思い悩む必要がない理由をどのように説明していますか(32節)。
4.イエスは私たちが思い悩む代わりに何を求めるべきだと教えておられますか(33節)。
5.思い悩み続ける人はそのことで大切な、今という時間を無駄遣いしてしまいます。イエスは私たちがこのような誤りに陥らないように、ここでどのようなアドバイスをされていますか(34節)
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