2017.9.10 説教 「今日もこの日の糧を与えてください」
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聖書箇所
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マタイによる福音書6章26節
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
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説 教 |
1.私たちの日常生活に関心を持たれる神
①飢餓と飽食
私の父が胃がんで亡くなってからもう何年もの年月が流れました。亡くなる一年ほど前に父は胃がんのために病院に入院して、胃の摘出手術を受けました。そのとき手術が済んで数日間は家族が昼夜付き添いで看病をする必要がありました。父の病床の横に病院が準備してくれた簡単なベッドを並べて過ごした夜のことを私は今でも思い出します。手術の後の痛みからか父は夜になってもなかなか寝付くことができません。きっと病床でいろいろな不安も感じていたのだと思います。暗い病室の中で横に寝ている私に父はずっと語り掛けて来るのです。そのとき父が語った話は特別なものではありませんでした。父は私に向かってずっと食べ物の話をして来たのです。きっと胃を取ってしまって自由にものが食べられないと言うせいもあったのかもしれません。「うなぎのかば焼きを食べたい。病気がよくなったらあそこのかば焼きを食べに行こう」。「どこそこのラーメン屋のラーメンも最高だ」。そんな話をずっと私に聞かせるのです。
今、考えて見ると父はこの時だけではなく、よく食べ物の話をしました。子供の頃、父と外出先をして、食堂で食事をしました。そのとき私が食べきれないでいると、父は必ず私の食べ残したものをすべて平らげてしまいます。私の父にとって食べ物を残すことなどあってはならない罪悪であったのかもしれません。父は昭和2年生まれで戦争やその後の混乱した日本の状況の中で青春時代を送りました。父の家は農家ではありませんでしたから、深刻な食糧危機の時代を直接経験しています。そんな父だったからこそ、あれほどまでに食べることに対して執着を感じていたのだと思います。
今日も皆さんと共に主イエスが教えてくださった主の祈りから学びたいと思います。今日、私たちが学ぶ主の祈りの言葉は「わたしたちに今日もこの日のかてをお与えください」と言う部分です。ここで「かて」と訳されている言葉は原文ではっきり「パン」と言う言葉が記されています。聖書の物語を読めばわかりますが、イスラエルの人々の主食は「パン」でした。ですから、私たち日本人にとってはこの言葉は「ご飯」とか「お米」と置き換えてもよいものかもしれません。聖書の中にはその日のパンに事欠く人々の姿がよく登場しています。イエスの後を追い続けた群衆は、イエスによって自分たちの飢えを解決したいと考えていたほどです。ですから当時の人々にとって「わたしたちに今日もこの日のパンを与えてください」と言う祈りは切実な願いを表すものであったと言えるのです。そんな時代に生きた人々と現代の日本に生きる私たちとは環境において相当の違いがあります。現代の日本には「飢餓」ではなく、「飽食」と言われるほどに食べ物が有り余っているからです。そんな私たちにとってこの主の祈りの言葉はどのような意味を持つものなのでしょうか。そのことをこれから皆さんと考えていきたいと思います。
②神に対する信頼を示す祈り
主の祈りの文章は今までも学んで来たように、大きく分けて二つの部分から構成されています。前半は神のための祈り、そして後半は私たち自身のための祈りと言うものです。ある説教者は「この主の祈りは前半だけで完結してもよいものだ」と言っています。なぜなら「みこころが天で行われるように、地上でも行われますように」と言う祈りが実現すれば、私たちの抱えている問題のすべては解決されるはずだからです。神の御心がこの地上にその通りに実現すれば問題は何も起こらないはずなのです。しかし、主イエスはこの主の祈りの文章をそこで終わらせるのではなく、続けて祈るべき内容を私たちに教えてくださったのです。
私たちがこの主の祈りの文章が学ぶことができる点は、私たちの神が私たちの毎日の生活に深い関心を持ち、そのために配慮してくださる方であると言うことです。私たちの神は私たちの生活のある部分だけに関りを持ち、それ以外のことには関心を示さないと言う方ではありません。信仰とは心の問題、霊的な問題を取り扱い、その他の日常の生活の一切の雑事とは関係がないと考えることは間違いです。むしろ今月の聖句に選ばれた箇所でイエスも語っておられるように、神は私たちの衣食住すべての点に対して深い関心を持たれ、私たちに必要なものを与えてくださる方なのです(マタイ6章25〜34節)。
空を飛ぶ鳥にも、また野の花にも恵みを施される神は、私たちの生活のすべての領域に対して深い関心を持ち、私たちに必要なものを与えようとしてくださるのです。だからイエスはこの神がおられるのだから、私たちに「思い悩まなくてもよい」と語ってくださったのです。ところでここで少し、誤解しないように注意したいのはこの思い悩みと、祈りとの関係です。例えばイエスは神への信頼を私たちに求める同じ個所で次のようにも語っています。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6章31〜32節)。
「神は私たちに必要なものをすべてご存知である、だから神を信じない異邦人のように思い悩むことはない」とイエスはここで教えてくださっています。それなら私たちは「この日のかてをお与えください」と祈る必要もないのではないか…そう考える人もいるかもしれません。日ごとのパンのために神に祈るのは、神の御業を信頼できない不信仰の表れだと考えるのです。しかし、そうではありません。私たちは神が私たちに必要なものを与えてくださると言う信仰があるからこそ、神にそれを与えてくださいと熱心に祈ることができるのです。むしろそのことを知らない者は真剣になって自分の毎日の生活のために必要なものを神に求めることはできないのです。だから「この日のかてを与えてください」と言う祈りは、そう祈らなければ神は何も与えてくださらないと言う心配から生まれてくるものではありません。神は自分に必要なものをすべてご存知であり、それが必要になったときに必ず与えてくださる方だと言う私たちの信仰、神への信頼がこの主の祈りの言葉の中には表明されているのです。
2.私たちが生きるために必要なものとは何か
私たちはこの地上に生きる限り、食べ物が無ければ生きていくことができません。いえ、食べ物だけがあってもそれだけでは不十分です。私たちが生きるためには食べ物以外にも様々なものが必要となるからです。
私は神学校に入学する前に、地元の小さな印刷会社の営業マンとして働いた経験があります。それまで社会経験の乏しかった私はこの会社の上司や仲間から様々なことを学ぶことができました。そこで働いていたときに、私はこんな体験をしました。当時、印刷会社の社員として働く私には有給休暇を取る権利が与えられていました。あるとき、私はその有給休暇を取りたくて、申請書を書き上司に提出したことがありました。そのとき、上司はその申請書に書かれた私の休暇の理由を読むとすぐに「この休暇は許可できない。却下する」と言い出したのです。なぜなら、私はその申請書の理由の欄に「教会の修養会に出席するため」と書いていたからです。そのとき私の上司はわたしに「お前を食べさせてやっているのは会社であって、教会ではない」と語りました。そして「お前は勘違いをしている。よくそのことを考えてみろ」と説教されたことを今でも思い出すのです。
仕事に事に関して私は上司から学ぶことがたくさんありましたが、この意見に関しては私は最後まで納得することができませんでした。同時に、「この人にいくら自分の考えを説明しても理解してもらうことは無理だろうな」とも思いました。なぜなら、神を信じない人に私の考えを語っても分かってもらえるとは到底思えなかったからです。
私はこの会社に就職する前、長い間、家に閉じこもるような生活をしていました。当時、生きる希望も勇気も持つことができなかった私は、何をしてもむなしいと考えて、毎日無気力に暮らしていたのです。そんな私が生きる希望を得ることができたのは、聖書を通して神に出会い、教会に導かれて、神を信じることができたからです。神を信じることができなかったら、私はこうして地元の印刷会社で働くことなどできなかったのです。印刷会社に社員になった後も、悩んだり、苦しむこともたくさんありました。しかしそれも聖書の言葉に励まされ、毎日曜日に教会の礼拝に出席することで勇気づけられたからこそ、私は挫折することなく、仕事を続けることができたと言えるのです。私はそのとき「私を生かしているのは会社ではなく、神である」とはっきりと確信することができました。しかし、その神を知らない人には、私のその確信は理解できないと思えたのです。
「この日のかて」、この「かて」はパンと言う意味だと言うことを先ほど語りました。しかし、実はこの祈りは私たちの生存に必要なパン、つまり食べ物を与えてくださいと言う願いだけを語っているのではないのです。なぜなら、この「かて」には私たちの生存に必要なすべてのものが含まれていると言えるからです。だからある聖書の解説者はこの「かて」の中には、私たちの家族や友人の存在も含まれていると説明しています。私たちは誰も一人ぼっちで生きているわけではありません。たくさんの人々との関わりの中で私は生かされているのです。神は私たちの生存に必要なそれらのすべての条件を知り、私たちのために整えてくださるのです。その中には私たちが働いて給与を得ている会社のような職場も含まれます。神は私たちのために働きの場をも提供してくださるのです。ところが、神を知らない者はそのすべてをあたかも自分一人で得たかのように考えてしまうのです。そして、そのように考える人は神に「この日のかてをお与えください」と祈ることは到底できないのです。
3.なぜ、この日の糧だけを求めるのか
①どうして「この日のかて」なのか
主の祈りの文章の中には「この日のかてを与えてください」と「この日」と言う言葉が記されています。以前の主の祈りでは「日用と糧」と訳されていました。実はここに登場する「この日」と言う言葉が聖書学者の間では長い間、論争の的となりました。なぜならこの言葉は聖書の中でここでしか使われていない特別な言葉だからです。ですから、ある学者は「この言葉は福音書を書いた著者が発明した言葉ではないか」と推測しています。この言葉は聖書や他のギリシャ語文献にも使われる例がほとんどありません。だから、この言葉の本当の意味を私たちが調べることも困難となっているのです。ある人はこの言葉を「この日」と訳し、また別の人は「明日の」と訳してみたり、また「必要なものすべて」と考える人もいるのです。私たちが読んでいる新共同訳では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ6章11節)と訳されています。つまりこの聖書の翻訳者たちはこの言葉を「必要なもの」と考え訳しているのようです。この新共同訳と違い口語訳や新改訳聖書を訳した人々はこの言葉を「この日の」と訳す立場に立っています。
私たちの使っている主の祈りがこの言葉を「この日」と訳す意味は、おそらく、聖書が教える神と神が与えてくださる食物との関係を念頭に置いているからではないでしょうか。旧約聖書の出エジプト記には神が与えてくださる食物についてのたいへん不思議な物語が記されています。当時、エジプトを脱出して、荒れ野を旅するイスラエルの民は深刻な飢餓状態に陥っていました。神はそのイスラエルの民を養うために天から「マナ」と言う特別な食物を降らせたのです(出エジプト16章)。聖書によればこのマナは「コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」(31節)と言われています。ところがこのマナの不思議な点はその形状や味以上に、次の日の分まで保存しようとしても、翌朝になると「虫がついて臭くなって」食べられなくなってしまう点にありました。つまり、マナは毎日、その日の分を神からいただく必要があったのです。さらにもっと不思議なことはこのマナ、安息日のためには前の日に採取して、保存しても腐敗せず、食べられたと言う点です。だからイスラエルの民は安息日に神を礼拝することに集中することができたのです。神は日ごとにイスラエルの民に天からマナを降らせて彼らを養われました。私たちが「日ごとのかて」と呼ぶ根拠はこのような聖書の教えに基づくものとも考えることもできるのです。だから私たちは毎日、神に私たちの生存に必要なものを、その日一日の分だけ祈り求める必要があるのです。
新約聖書の中ではこのマナの教えを忘れて大きな失敗を犯してしまった一人の人物の記録が紹介されています。それは主イエスが教えてくださった「愚かな金持ち」のたとえに登場する主人公です。彼は自分の畑でとれたたくさんの収穫物をすべて新しく作った倉に貯め込もうとしました。そうすれば一生、自分は食べることに不自由せず、生活に困ることがなくなると考えたからです。彼はもはや神に向かってその日の糧を求める必要も無くなるのです。しかし、彼は自分がため込んだ食物を食べることなく、自分の人生を終えてしまうと言う結末を迎えています(ルカ12章13〜21節)。
②日々の神との交わり
この主の祈りの言葉を説明するある説教者はたいへん興味深いたとえ話を私たちに紹介しています。ある王様がいました。その王様には大切にしている一人の王子がいました。王様はこの王子をたいへんに愛していました。だから、この王子に必要なものすべてを取り揃えて、一年に一回、王子にそれらの品物を与えていたのです。しかし、やがて王様はこれでは愛する王子に一年に一回しか会えないと言うことに気づきました。王様は王子の顔を毎日でも見たいと考えていたのです。そこで王様は王子に必要なものをそれからは一日分だけ与えるようなりました。そうすれば必ず王様は毎日、王子と顔を合わせることができるからです。
神が私たちに必要なものを一度にすべて与えてくださらないのは、決してケチであるからではありません。神が出し惜しみをしているからではないのです。神は私たちと毎日、豊かな交わりを持ちたいと願われているのです。つまり、この日ごとのかてを求める祈りの背後にも、私たちにとって一番大切な日ごとの神との関係の重要さが教えられているのです。
これは食事だけの問題ではありません。私たちが毎日聖書を読むこと、毎日曜日、礼拝を献げること、これらのすべての繰り返される行動の背後には、私たちと神との日々の交わりの関係が隠されているのです。そしてこの神との交わりこそが私たちの命にとって最も大切な「生存のために必要」な条件と言えるのです。「たくさん食べたからもう、これ以上食べなくても大丈夫」などと言うことはありません。信仰生活も同じです、毎日毎日、私たちは聖書の言葉に耳を傾け、祈りを献げます。そうすることによって私たちは毎日、神との豊かな交わりに生きることができるのです。私たちはその神との日々の交わりから力を受けて、生きる希望と勇気を毎日受けて生きることができるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
空の鳥を養い、野の花に美し装いほどこされるあなたは、今日も私たちの生活に深い関心を払われ、私たちに必要なものを整えてくださることを感謝いたします。私たちはそのようなあなたを信頼して今日も「私たちのこの日のかてをお与えください」と祈ります。どうか私たちがあなたによって生かされていることを日ごとの生活で覚えることができるようにしてください。私たちが毎日主の祈りを献げることで、あなたとの豊かな交わりの関係を深めていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.「わたしたちに今日もこの日のかてをお与えください」と言う主の祈りの願いを通して、神が私たちにとってどのような方であることが分かりますか。
2.あなたが生きていくために必要なものとは何だと思いますか。
3.どうして私たちは私たちの生存のために必要なものを得るために主の祈りを神に祈る必要があるのですか。
4.私たちが「必要なもの全部を与えてください」と祈るのではなく、「この日のかてをお与えてください」と祈る理由はどこにありますか。
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