2017.9.17 説教 「ほかの町や村に行こう」


聖書箇所

マルコによる福音書1章35〜39節
35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


説 教

1.イエスはどうして祈られたのか
①忙しいカファルナウムの一日

 今日も皆さんと一緒にマルコによる福音書の記したイエスについての物語から学びたいと思います。今日の箇所ではイエスがカファルナウムでの活動を中断し、他の町に向かって活動を続けられたことが報告されています。それではイエスはこのときなぜカファルナウムを離れて、他の町に行こうとされたのでしょうか。そしてこのイエスの決断は彼にとってどのように重要なものであったのでしょうか。まず、私たちは事情を理解するためにイエスの今までのカファルナウムでの活動をここでもう一度振り返ってみたいと思うのです。
 イエスはまず安息日にこのカファルナウムの町を訪れ、会堂に入って人々に教え始められました(21節)。この会堂に居合わせた人々はイエスの語る聖書の教えが他の律法学者たちの語る教えとは全く違っていることに驚きます。イエスが権威ある者として語っていることを知ったからです。それはこのイエスが普通の人間ではなく、神の子としての権威を持っておられたことを表しています。さてその後、この会堂で突然の事件が起こります。汚れた霊に取りつかれた一人の人物がイエスの話を聞いて騒ぎ出したからです。しかし、イエスがその人に「黙れ、この人から出ていけ」と命じると汚れた霊がその人から出ていきます。イエスのもつ権威は汚れた霊であっても従わざるを得ないものであることがここでも人々の前に明らかとなりました(23〜27節)。
 このカファルナウムの町はガリラヤ湖の湖岸に立つ町でした。イエスの弟子とされたシモン・ペトロたちはこのガリラヤ湖で漁師をして生計を立てていた人たちです。そしてこのカファルナウムにはこのシモンの家があったと考えられています。ここで舞台はカファルナウムの会堂から、同じ町にあったシモンの家に移ります。会堂での騒ぎが収まったあと、シモンはイエスを自分の家に招待して、イエスをもてなそうとしたからです。ところがここでもまた問題が起こります。シモンがイエスをもてなすために頼りとしていた彼の妻の母親、つまりしゅうとめが突然熱を出して床についてしまったからです。これではイエスをちゃんともてなすことはできません。しかし、この問題も同じように神の子であるイエスの力によって解決されます。なぜならイエスはすぐにシモンのしゅうとめの手を取り、彼女の病を癒してくださったからです。そして癒されたしゅうとめはすぐにイエスたちのもてなしを始めることができました(29〜31節)。
 夕方になって日が沈みます。ユダヤの暦は夕方から新しい一日が始まり、次の日の夕方でその一日が終わることになっていました。つまり日没によって安息日が終わり、新しい一日が始まったのです。するとそれを待っていたかのようにカファルナウムのあちこちから人々がシモンの家を目指して集まり始めました。町の人々の中にはイエスが会堂で汚れた霊に取りつかれ人を癒されたこと、さらにはその後、シモンの家で彼のしゅうとめの病を癒されたと言ううわさが広まっていたからです。小さな町で起こった出来事はすぐに町中に知らされ、「自分の病を癒してほしい」、「汚れた霊を追い出してほしい」と言う人々がシモンの家に集まり、イエスの助けを求めようとしたのです。そしてイエスはこのような人々の願いにも丁寧に答えられ、彼らの病を癒し、また悪霊を追い出されたのです(32〜34節)。

②イエス様がいない?

 私たちだったら聞いているだけでも疲れてしまうような出来事が次々とこの日、カファルナウムの町におられたイエスの周りで起こります。そして夜も深まりシモンの家に押し寄せた人々が皆満足して帰って行く頃には、イエスのそばにいたシモンたちもすっかり疲れを覚えていたはずです。彼らはすぐに自然と深い眠りに入っていったのではないでしょうか。そして今日の物語はこの後に起こった出来事を私たちに伝えています。
 先日もお話したように、マルコはこれらの物語をシモン・ペトロ本人から聴取して、記録にとどめたと考えられています。ですから、今日の物語もシモンが実際に経験した出来事を語っていると言えるのです。シモンはこれらの物語を自分に起こった出来事として私たちに報告しているのです。ですからシモン・ペトロは次のように語ったはずです。
 「その晩、私たちはすっかり疲れてそのまま寝込んでしまいました。ところがまだ日も昇っていない時刻なのに、私たちは家の外から人声がすることに気付き目を覚ましました。前夜に引き続いて、イエス様に病気を癒してほしいと願う人々がすでに私の家の戸口のところに集まり始めていたのです。その時です。私たちは私たちと一緒に寝ていたはずのイエス様の姿が家のどこにも見当たらないことに気づいたのです。「イエス様はどこに行かれたのだろう。こんなまだ真夜中にイエス様はいったい何をされているのだろう」。そう思いながら私たちは必死になってイエス様を捜しました。すると私たちは人里離れた静かな場所で祈っておられるイエス様の姿を発見したのです」。福音記者マルコはこのようなペトロの話を実際に彼から聞いてその記録を福音書に残したと考えることできます。

③イエスにはどうしても祈る必要があった

 「朝早く、まだ暗いうちに」。マルコはこの出来事がまだ日が昇らない早朝に起こったことを私たちに伝えています。この言葉は直訳すると「朝早く、まだ真夜中」と言う大変風変わりな言葉で表現されています。この出来事は朝なのか夜なのかわからないような描写で始まっているのです。これはまだ通常の一日の活動を始める前と言うような事情を私たちにマルコは伝えようとしているのでしょう。夜が明ければ、また忙しい一日が始まります。私たちならそれまでゆっくりと睡眠をとって、新しい一日の活動に備えなければなりません。しかし、イエスが一日の活動を始めるためには睡眠よりももっと大切なものがあったことを福音記者は私たちに教えようとするのです。それがイエスの祈りです。
 イエスはこのときわざわざ「人里離れた」場所に出て行き、そこで祈られました。祈るだけならシモンの家でもできたはずです。しかし、イエスは父なる神に祈るためにシモンの家から出て行く必要がありました。それはなぜでしょうか。イエスは煩わしい人間関係から離れて一人になりたかったのでしょうか。それが目的ではありません。イエスは父なる神と二人きりになるために人里離れた場所を選ばれたのです。なぜなら、このとき、イエスはどうしても父なる神と二人きりになり、その交わりの中でこれから自分が進むべき道を決断する必要があったからです。
 私たちはイエスをいつも祈る人であると考えています。確かに、それは事実であったと思います。多忙な生活の中でイエスはいつも自分を見失うことなく、神の御心の実現のために働かれました。そのイエスにとって祈りは最も重要なことであったことが私たちにも推測できるからです。ところが不思議なことにこのマルコに福音書が具体的にイエスの祈りの姿を示すのはこの箇所を含めて、わずか三か所しかありません。この箇所ともう一つは「五千人のパン」の奇跡の後にイエスが弟子たちを船に乗せ、ご自分は山に行って祈られたと言う出来事(マルコ6章46節)です。さらにもう一つは有名なゲッセマネの園でのイエスの祈りです(14章36、39節)。この三つの祈りに共通するのはその時刻が真夜中であったと言うことです。私たちは何気なく今日の箇所を読み過ごしてしまいがちですが、マルコの記述はイエスがこの時、どうしても祈らなければならない重大な出来事に遭遇していたことを暗示しているのです。

2.弟子たちはなぜイエスを捜したのか

 それではいったいこのときイエスにどんな出来事に遭遇していたのでしょうか。そのことは次のシモン・ペトロの言葉から分かります。

 「みんなが捜しています」(37節)。

 シモンが言った「みんな」とはいったい誰のことでしょうか。これはカファルナウムの町の「みんな」と言う意味です。この部分の言葉を説明するある聖書解説者は、「イエスに対する荒れ野でのサタンの誘惑は終わることなくここまで続いていた」とまで語っています。なぜなら、この時にシモンの語った言葉はそれほどまでにイエスにとって誘惑の言葉となっていたからです。
 それでは荒れ野おいて悪魔はイエスをどのように誘惑しようとしたのでしょうか。簡単に言えば悪魔はイエスに「あなたには十字架にかかって死ぬような方法ではなく、救い主となれるもっと簡単でよい方法がある。私のアドバイスに従えばそれが可能だ」と囁いたのです。そしてシモンのこのときの言葉はイエスにとって荒れ野の誘惑の悪魔の言葉と同じような意味を持っていたと言うのです。
 「あなたの素晴らしい御業によってカファルナウムの町中の人々があなたのところに集まり始めています。私たちの伝道活動は大成功しました。どうか私たちと一緒にカファルナウムの町に戻って、町の人々の期待に応えてあげてください」。
 シモンのこのときの言葉にはこのような意味が隠されていました。イエスがこのシモンの言葉通りに従ってカファルナウムの町に戻れば、彼は町の人々から大歓迎され、それこそ新興宗教の教祖のように人々から敬われることができたかもしれないのです。しかし、イエスはこのシモンの言葉に対して次のように答えています。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節)。イエスはカファルナウムの人々の期待に答えることは自分に父なる神から与えられた使命とは違うことだとはっきり断言されたのです。そしてイエスはカファルナウムに再び戻ることを拒否されたのです。

3.イエスはなぜカファルナウムから出て行かれたのか

 少し古い本ですが教会で働く伝道者たちのために書かれた「牧会事例研究」と言う書物があります。教会で実際に働いている伝道者たちが集まって実際に自分たちが教会で経験したトラブルについて報告し、その問題への自分の対処はどうであったのかと言うことを語り、心理学の専門家からのアドバイスを書き加えられている本です。この本が特に興味深いのは伝道者たちの牧会の成功例を紹介するのではなく、失敗例を取り上げていると言う点です。実際に私たちは他人の輝かしい成功例より、失敗例から学ぶことが多いからです。
 その本の中にこんな事例が紹介されていました。あるとき教会に訪れた一人の求道者が深刻な問題を持ち、それを牧師に相談してきました。牧師はその求道者の身の上を聞き心からの同情を示し、援助をし始めます。すると、この求道者はその牧師の援助を喜び、「こんなに親身になってくださる方に会えて本当にうれしいです」とまで感謝の言葉を表しました。この言葉を聞いてその牧師も満更ではなかったと言います。ところが、この求道者の問題はそれですべて解決したわけではありませんでした。むしろ、その求道者の牧師に対する要求は日を追うことに大きなっていきました。すると最初は自分が善意で始めたその求道者への援助でしたが、牧師はだんだんとそれをすることが辛くなり、重荷に感じるようになりました。やがて、その牧師はその求道者の要求に恐怖を覚え、怒りさえ感じるようになります。そのうち彼は内心では「あの人が来なくなればよいな」とされ思うようになってしまったのです。結局、こうなってしまうとどんなに表面上は取り繕うとしても、その人間関係は悪くなるだけです。案の定、その求道者やがて、その牧師にも教会にも絶望して教会に来なくなってしまいました。
 皆さんはこの話のどこに問題があると感じられるでしょうか。人の善意に付け込んで無理な難題をどこまでも要求して来るこの求道者に問題があるのでしょうか。あるいはこの求道者の要求に答えることができない力量の無い牧師に問題があると言えるのでしょうか。牧会事例研究を指導する心理学者はここでその牧師の心にスポットをあてています。どうして彼は自分の能力を超える要求に対して「それは私にはできません」と正直に求道者に言えなかったのでしょうか。その理由はその牧師が「この求道者の要求に答えられなければ自分は無能な牧師として皆から非難されるのではないか。愛のないキリスト者だと言われるかもしれない」と言う不安を持ったからだと言うのです。つまり彼が心配したのは自分に対する人々の評判や評価であり、それによって彼は自分の牧会に対する正しい判断を下すことが困難になってしまっていたのです。これでは神のために働いたことにはなり得ません。
 イエスはそのような間違いを犯すことがありませんでした。なぜなら、彼は人々の期待に答えることが自分に神から与えられた使命ではないと言うことはっきりと知ることができたからです。だから、彼は人々から自分が何と言われようとそのような人々の評価を気にすることはありませんでした。むしろ、イエスは人々に対する人々の評価から自由に生きることで、自分に父なる神から与えられた使命を忠実に全うすることができたのです。

4.神から与えられた使命に忠実に生きる

 このときのイエスの行動は自分に対する他人の評価から自由となり、神から与えられる使命に忠実に生きることが大切であることを私たちに教えています。なぜなら、私たちが本当に人を愛し、自分にできる援助を人に与えることができるためには、まず私たちが神から与えられた使命に忠実で生きることが必要だからです。なぜなら、私たちが神から与えられた使命に忠実であるとき、神の御業が私たちの人生を通してこの地上に実現するからです。本来は人を愛することも、また人を助ける能力も持ちえない私たちを通して神の御業が実現するのです。そうなれば、私たちの人生そのものが神の奇跡が実現する場となるのです。
 ですから私たちがしなければならないことは、私たちに神から与えられた使命を忠実に果たすことです。そのために私たちが人々からどのような評価を受けたとして、それは関係ありません。なぜなら、私たちは人々からの評価を受けるためにキリスト者として生かされているわけではないからです。
 そしれ私たちが神から与えられた自分の使命を見失うことなく、その使命を忠実に果たしていくためには私たちが人々からの期待や評価から離れて、神と二人きりになるとき、つまり祈りのときが必要なのです。なぜなら、イエスが人々の期待から自由になり、神から与えられた使命に生きる決断を行うことができた秘密はこの祈りにあったからです。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.カファルナウムの町でイエスがこのとき、どのような活動をされていたのかマルコによる福音書1章21節から34節を読んで整理して考えて見ましょう。
2.イエスは朝早く、まだ暗いうちに(35節)どこに行かれ、そこで何をしておられましたか。
3.イエスを見つけ出したシモンはそこでイエスに何と言いましたか。シモンがどうしてそういったのです。シモンたちはこのときカファルナウムの町でどんなことが起こることを期待していたのでしょうか。
4.イエスはこのときシモンにどのようにお答えになりましたか。ここで語られたイエスの言葉にはどのような意味があったとあなたは思いますか。
5.私たちが私たちに神から与えられた使命に忠実に生きることは、どうして私たちにとって大切なのでしょうか。私たちが実際にそのように生きるためには何が必要だと思いますか。