2017.9.24 説教 「よろしい。清くなれ」


聖書箇所

マルコによる福音書1章40〜45節
40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。


説 教

1.らい病、重い皮膚病?
①変更された新共同訳の記述

 今日も皆さんと共にマルコによる福音書から学んで行きたいと思います。最初に、皆さんの聖書に目を下ろして調べてほしいことがあります。今日の聖書箇所のマルコによる福音書1章の40節や42節をご覧になって下さって、そこに「らい病」と文字が記されている聖書を持っておられる方はいるでしょうか。たぶん最近、この共同訳聖書を買い求められた方々の場合にはこの箇所は「らい病」と言う文字ではなくて、「重い皮膚病」と言う文字が書かれていると思います。これは新共同訳が発行された当初は「らい病」と記されていた言葉が後になって「重い皮膚病」と書き変えられたからです。その結果、同じ新共同訳の聖書を持っていてもそこに書かれている言葉が違うという不思議な現象が起こってしまったのです。
 新共同訳を出版した日本聖書協会のホームページでこの理由を調べて見ました。するとそこには「1996年4月の「らい予防法」廃止に伴い、聖書の該当個所の訳語変更要請が、いくつかの教会および教区の総会などで決議されております。日本聖書協会理事会はそれらを受けて協議、検討の結果、『口語訳聖書』本文中の「らい病」表記を、すべて訳語変更することに決定いたしました」と言う説明が記されていました。ご存知のように日本において「らい病患者」と呼ばれた人々は長い間、社会の中で不当な取り扱いを受けて来ました。「らい予防法」は患者の権利を守る法律ではなく、彼らに対する不当な差別を助長させる役目を果たすものでした。この聖書協会の説明からすると聖書の訳語の変更は「らい病」に対する差別や偏見をなくすための処置であったかのように読み取ることができます。
 ただ、この訳語の変更が本当によかったのか、悪かったのかに関しては様々な意見が今でも存在しています。私の知っているある宣教師はこの言葉の変更を取り上げて、「重い皮膚病」と言うようなとてもあいまいな言葉に変わってしまったので、かえってアトピー性皮膚炎やほかの深刻な皮膚病の症状で苦しんでいる人の心を傷つけることにつながっていると言っていました。

②神からの罰を示す病

 日本聖書協会が説明する変更の理由はともかくとして、聖書に記される「らい病」という病名については、私たちももう少し丁寧に理解する必要があると言えます。なぜなら、現代の聖書学者たちの見解では聖書に登場する「らい病患者」と私たちが知っている現代の「らい病患者」の症状は同じものではないという意見が有力になっているからです。旧約聖書のレビ記13章には祭司がどのようにこの病気の症状を判断すべきかと言う詳しい説明が記されています。ここに語られている皮膚病の症状が、私たちの知っている現代の「らい病」の症状とは必ずしも一致しないのです。むしろレビ記で取り上げられている症状はもっと広範囲な皮膚の病について語っているように考えられるのです。だからこそ、この言葉は「らい病」と訳すのでなく、「重い皮膚病」と訳す方が別の観点から見ても正しいという見解も生まれて来るのです。
 そもそも聖書を読んでわかることは、この「らい病」が当時の人々に恐れられた原因は、現代人が恐ろしい伝染病と考える理由とは違っていると言うことです。らい病はギリシャ語では「レプラ」と言う言葉が使われ、ヘブル語では「ツァーラアス」と言う言葉が使われています。そしてこのヘブル語の本来の意味は「神からの罰」と言うものなのです。ですから、聖書の時代にこの「らい病」が恐れられた原因は、むしろこの病が神の裁きの結果を表すものだと考えられていたところにあるのです。
 聖書の時代、「らい病」患者と診断された人はすべての共同体から追放され、町外れの寂しいところで生活しなければなりませんでした。また、何らかの理由でその患者が町に近づく場合には「私は汚れた者です」と大きな声で叫びながら歩かなければならない決まりがありました(レビ13章45節)。人々がらい病患者に近づくことを恐れたのは、その汚れが自分にも影響を与え、自分も神の裁きの対象になる可能性があると考えたからです。このよう考え方から本来、人々の助けを必要とするらい病患者が人々から疎外されて、さらに苦しまなければならないという状況を生み出していました。

2.律法と福音の関係
①人の救いに対して無力な律法

 今日の箇所でこの重い皮膚病を患った人はイエスのもとに近づいて、自分の癒しをイエスに願い出ています。彼の行動は「らい病人は他の人々に近づいてはいけない」とする律法の定めに明らかに違反していました。またその重い皮膚病を患った人に「手を差し伸べて…触れ」られたイエスの行為も律法違反を犯すものと考えられたのです。そのようなことから実はこの物語は私たちに律法だけでは人を救うことはできないことを示し、人が救われるためには福音が必要であることを教える物語にもなっていると考えられるのです。
 この出来事が起こった当時に活躍していたファリサイ派の律法学者たちは「神の律法こそが、人を救うものだ」と主張し、人々が律法に厳格に従っていきることを求めました。しかし、律法に記された掟は今日の重い皮膚病患者に対して、家族や友人とのコミュニティーから引き離し、一人孤独で生きなければならない状況を生み出すことを強いるだけで、彼の人生に何の助けも与えることできていないのです。神の律法は確かにその人が今どのように悲惨な立場に置かれているかを知らせることができます。しかし律法はその悲惨な立場から人を救い出すことはできないのです。それはまるで立派な診断をすることができても、患者に何の処方も薬も与えない医者のようなものです。これでは結局、病に苦しむ人のために役に立つことはできません。

②神からの賜物と変えられた病

 この物語は救い主イエスがこの重い皮膚病を患って苦しんでいた人の人生を変え、彼の命を甦らせることができたことを教えています。なぜなら、この重い皮膚病を患っていた人はそれまでは町外れで孤独に生きなければならず、生きていても死んだ者のように人々から取り扱われていたからです。そして彼はイエスによって病が癒されて、もう一度、正常な市民生活に戻る権利を受けることができたのです。
 また、さらに興味深いことは律法が重い皮膚病を「神の罰」と考え、この人は神の愛から除外されている者だと判断していたその判断が、イエスとの出会いによって全くその意味が変わってしまったことです。なぜなら、この人をイエスの下へ、神の愛へと導いたものこそ、この人を長く苦しめ続けた重い皮膚病と言う病であったからです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)。この人は律法違反の罪を犯してまで、イエスに近づき、必死な願いを告げたのです。
 神は私たちに対して最上の賜物を与えようといつも準備していくださっています。イエス・キリストを通して示された愛と言う賜物を私たちに与えようとされるのです。ところが私たちはその愛を心から求めることができないでいます。イエス・キリストが私たちと共にいてくださろうとしているに、私たちはそのことの素晴らしさに気づかず、毎日感動のない退屈な毎日を送ってしまうのです。しかし、この聖書に登場する人物は違います。彼は必死にイエスに近づき、願い出ることで、イエスの豊かな愛を体験することができたのです。彼はどうしてそのようなことができたのでしょうか。彼は重い皮膚病を患い、その病に苦しんでいたからです。このイエス以外に誰も癒すことができない深刻な病が彼をイエスの愛へと導いたのです。そしてこのことによって彼の病気は「神の罰」ではなく、「神から賜物」であったことが明らかになるのです。

3.イエスは誰に憤ったのか

 この聖書箇所は写本上の問題点があると聖書学者たちから指摘されています。それは41節で「イエスは深く憐れんで…」と訳されている部分です。この共同訳聖書の底本となった世界聖書連盟版のギリシャ語聖書にはこのイエスの言葉の写本上の信頼度は「D判定」で最も低い評価が付けられています。この箇所を「イエスは怒って」と記した写本が存在しています。聖書学者たちの判断によれば本来のマルコの福音書の言葉はこれだったのではないかと考えられているのです。ただ、この部分「イエスは怒って」と言う言葉にしてしまうと、次のイエスが重い皮膚病の人に手を指し伸ばして癒しを与えると言う行為につながらなくなってしまいます。だからこの共同訳のように「深く憐れんで」と言う言葉を記した写本を採用する傾向が生まれたのです。その方が、聖書の前後のつながりがよくなるからです。しかしもし、この箇所を本来の言葉と考えられている「イエスは怒って」としたなら、いったいイエスはここで誰に対して、何を怒っていることになるのでしょうか。
 そこで塚本虎二と言う人が訳した新約聖書を読んでみると、この箇所には本文にない次のような説明の言葉が付け加えられて訳されています。

 「イエスはそのあわれな姿を見て悪魔に対する怒りに燃え、手を伸ばしてその人にさわり」。

 この翻訳ではイエスの「怒り」の正当な理由が説明されています。聖書の教えに従えば、人間が病を得て、死ぬべきものとなった一番の理由は、この人間の世界に罪が侵入してしまったからです。悪魔は人間を自分の支配下に置こうとして、人間に罪を犯させ、死の呪いのもとに彼らを誘い、人間を不安と恐怖で縛り付けてマインドコントロールしようとするのです。ですから救い主イエスの使命は私たち人間を悪魔のマインドコントロールから解き放ち、私たちを罪と死の呪いから自由にすることにあるのです。そして、主イエスはこのとき、私たちの救い主として私たちを苦しませ続けている悪魔に対する怒りの感情を燃やされていたのです。イエスは単に私たちに同情を示すためだけにやって来られた方ではありません。救い主としてこの地上に派遣されたイエスの最も大切な使命は私たちを苦しめる悪魔と戦うことにあったのです。そのような意味でイエスがここで抱かれた怒りは戦う者の強い感情であったと言えるのです。

4.どうして黙らせる必要があったのか
①いきり立ち、追い出すイエス

 実はこのイエスの感情と関連して、もう一つ翻訳上問題となる箇所がここには存在しています。この新共同訳では43節が「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して」と訳されています。病を癒された人に「すぐにここから立ち去るように」とイエスは厳しく注意されたと言うのです。この言葉を読んだだけでも、なぜイエスはこんな態度を示されたのかよく分かりません。実はこの箇所を先ほどの塚本虎二訳で読んでみるとさらに謎が深まることになります。塚本訳はここを「イエスはいきり立ち、すぐその人を追い出して」と記しています。そしてこの日本語訳の方がギリシャ語の原文の言葉を忠実に訳していると考えられるのです。
 イエスは癒された人に「本当に「よかったね」と言って、「安心して行きなさい」と励まされた」と言う言葉がここに記されているなら私たちも納得するかもしれません。ところがここはそう書かれていないのです。それではなぜイエスはこのとき癒された人に対して「いきり立ち、すぐその人を追い出」すようなことをされたのでしょうか。

②救い主イエスの使命

 このイエスの行為を理解するためのヒントは続いて語られたイエスの言葉に隠されています。

 「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44節)

 当時、重い皮膚病からの癒しは祭司の診断によって決まり、その診断を受けて初めて病から癒された人は社会に復帰することができます。そしてこの過程を経て、その人の癒しは町の人全体に証明されるのです。しかし、そうなってしまうとイエスの「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言う言葉と矛盾した奨めとなってしまいます。ところがここでイエスは明らかにご自分が行われた不思議な業が人々に知られることを望まれていないのです。どうしてそう思われたのでしょうか。ここで私たちが思い出す必要があるのは、前回学んだシモンの発言とそれを聞いたイエスの反応です。
 シモンはイエスに「みんなが捜しています」と語りましたが、イエスはあえてこの言葉を聞くと「近くの他の町や村に行こう」と言われたのです。このイエスの判断の背後にはイエスに対する、人々の勝手な期待や願望があったことを私たちは前回も学んだはずなのです。イエスの行われた不思議な業の意味を人々は誤解しています。「その力があれば自分たちは幸せになれる」と自分の都合のいいように考えるだけだったのです。だから、人々はイエスをいつでも自分の近くにおいて、その力を借りて自分の願望通りに物事が進むことを望んだのです。しかし、イエスはそのような人々の願望をいち早く理解し、彼らの願いに答えることを拒否されたのです。そしてイエスは自分が父なる神から与えられた使命を全うするために他の町に行かれようとしたのです。イエスが重い皮膚病を癒した人に語った言葉はこの誤解が少しでも生じることを防ごうとするための発言だったのです。
 先ほども私たちが学びましたようにイエスは救い主として悪魔と戦うためにこの地上に来られた方です。私たちを悪魔のマインドコントロールから解放し、私たちを苦しめている罪と死の呪いから完全に解放するための使命をイエスは全うしようとされているのです。イエスはどのようにして、その使命を全うされようとしたのでしょうか。私たちのために十字架で命をささげられることを通してです。それこそが、神が私たち人間を救うために立てられた最もふさわしい計画であったのからです。しかし、私たちはそれをなかなか理解することができません。なぜなら、私たちはそんなに自分が深刻な問題を抱えているとは気づいていなからです。自分は神の子が自分のために命を棄てなければならないほどの病に犯されていることを知らないのです。もし、私たちが今日の物語の主人公のように自分が抱える病の深刻さ、問題の深刻さを知れるとしたらそれは何と幸せなことなのでしょうか。人はその病の深刻さ、問題の深刻さを知れば知るほど、救い主に近づき、彼に助けを求めることができるからです。そしてイエスは、必ず助けを求める者の手を取り、癒しを与え、神の愛を彼らに豊かに示してくださるのです。
 このような意味で、ここに登場する重い皮膚病を患った人は、神の恵みを追い求め、イエスとの出会いを通してその神の恵みを味わうことができた信仰者の模範となる人物なのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 聖書から重い皮膚病を患い、神に呪われた者、神に見離された者と言うレッテルを貼られて、一人寂しく町外れにいた人物がイエスによって癒され、新しい人生を歩みだすことができた人のお話を学ぶことができました。イエスとの出会いが、彼の抱えていた病の意味さえ変えてしまったことを学びました。私たちも同じようなイエスとの出会いを通して、自分の人生に起こった出来事の真の意味を知り、あなたに喜びと感謝を献げる信仰生活を送ることができるようにしてください。私たちのために悪魔と戦い、私たちを罪と死の呪いから解き放ってくださった、主イエスの御業を、私たち自身が自分の救いのためにイエスが行われた御業であることを確信することができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときイエスのところに近づいて来た人はどのような人でしたか。その人はイエスにどんな願いを語りましたか(40節)。
2.イエスはこの人の願いにどのように対応されましたか(41節)。その結果この人はどのようになりましたか。
3.イエスは癒された人に対してどのような注意を語られましたか(43〜44節)。どうしてイエスはこのような注意を語る必要があったのでしょうか。
4.イエスに癒された人はイエスの注意にその通りに従うことができましたか(45節)。彼はどうしてそのような行動をとったのでしょうか。
5.律法に従えば当時、重い皮膚病を患っていた人は町の人々から離れて一人で町の外れで生活することを強いられていました。今日の物語の結果、町外れに行くことになったのは誰ですか。