2018.1.14 説教「ふたりの老人」
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聖書箇所
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ルカによる福音書2章25〜38節
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27 シメオンが"霊"に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31 これは万民のために整えてくださった救いで、32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
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説 教 |
1.人生の最後に迎える危機
①ふたりの老人の身の上
今年の伝道礼拝ではイエス・キリストの活動とその教えを書き記した福音書の中から、イエスに出会った人々について学びます。福音書の中には様々な人々が登場し、イエスに出会っています。その多くの人はイエスを十分に理解することができずに、イエスの元を去ってしまっています。しかし、それらの人々とは違ってイエスに出会い、自分の人生が全く変わってしまうような体験をした人についての物語を福音書は私たちに残しています。このような福音書の物語を学びながら、できれば、私たち自身も同じようにイエスと出会い、その人生が変えられるという恵みを受けたいと思っています。
そこで今日はルカによる福音書の記録からイエスに出会った二人の人物について学びたいと思います。その二人はシメオンとアンナと言う男性と女性です。この二人がお互いに知り合いであったかどうかは聖書には記されていません。今日の記録から考えるとこの二人はたびたびエルサレムにあった神殿にやって来て神を礼拝していました。もしかしたら二人はこの神殿で顔を合わせる知り合いであったのかもしれません。ただ、当時のエルサレム神殿にはユダヤ全土から集まる参詣客が毎日やってきていましたから、必ずしもこの二人が顔見知りになれたとも言えないところがあります。私たちの教会に昨年、韓国のホサナ教会から20人くらいの訪問団がやって来ました。彼らは同じ教会のメンバーなのでお互いよく知っているのかなと思っていましたら、そうではないようで、この訪問をきっかけに知り合いになったと言う人もいたようです。会員一万人以上の教会ですから、それも当たり前のことなのかもしれません。
シメオンとアンナについての情報は聖書の他の箇所には記されていないので、このルカによる福音書の記録だけに頼るしかありません。シメオンの年齢は記されていないのですが、アンナに関して年齢と簡単な身の上が紹介されています。彼女はこのとき八四歳になっていました。今の日本なら平均寿命に近い年齢ですが、当時のユダヤではかなりの高齢であったと考えてよいでしょう。彼女は「若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ(た)」(36〜37節)と説明されています。当時のユダヤでは女性が十代半ばになると結婚をしていたと言います。彼女がもし一五歳で結婚していたとすると、七年間の健康生活の後、夫に先立たれて六〇年以上の歳月を一人で生活してきたと言うことになります。ここには彼女の他の家族構成は記されていませんから、アンナは他に頼るべき身寄りを持たない「やもめ」であったとも考えることができるのです。
一方のシメオンについてはその身の上を示す記録はほとんど記されていません。実際のところ彼の年齢もどのくらいであったのかよく分からないのです。ただこの記事中に「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)と言う言葉や、そのシメオンが語った「今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」と言う言葉から推測すると、彼もまたかなりの年齢に達していた人物ではなかったかと考えることができます。そこで今日の説教には「ふたりの老人」と言う題名をつけました。
②自分の人生に満足するシメオン
私が教会に通い出して、聖書を読み始めた頃にこのシメオンの物語を読んだときの感想はあまり良いものではありませんでした。私はこのシメオンの「今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」と言う言葉をなんだか寂しい言葉と感じてしまったのです。当時の私の年齢は二〇歳ぐらいだったので、年老いたシメオンの気持ちがよく分からなかったのだと思います。当時の私は聖書から「なんとか人生を生きて行くための勇気や力を得たい」と考えていました。だからシメオンの「もう死んでもよい」と言う言葉を十分に理解する余裕がなかったのです。
最近、読んだ心理学の本の中に私たちが人生で出会う三つの危機について教えているものがありました。その危機の一つは私たちが子供から大人へと変化する時期に経験するものです。この時期、私たちは今まで自分を保護してくれた人々の手から離れて、真剣になって自分の人生と向き合うことになります。おそらく私が最初にこのシメオンの物語を読んだ時期は、私自身がこの第一期の危機の中にいたのかもしれません。
私たちが人生で迎える二番目の危機は年齢であれば三〇歳台から六〇歳くらいの間とかなりの幅があるものです。この時期は自分の社会的な地位がある程度確立されるときであるといえます。そこで私たちは今まで自分がやり遂げてきたことが、自分にとってどのような意味があるのかを改めて考えざるを得ない時期を迎えるのです。おそらく、この時期に多くの人は心理的障害を訴え、うつ病などの病にかかって苦しむのだと思います。
そして人生の最後に訪れる第三の危機は自分の死を間近にした人々が経験するものです。この時期、人は自分の人生の総決算をしなければなりません。今日の物語に登場するシメオンもアンナもこの第三の危機を経験するような世代の人々であると言えます。その上で、先ほどのシメオンの言葉を考えて見ると、その意味が私たちにもよく分かってくるのではないでしょうか。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)。
このシメオンの言葉は「もうこんな人生はたくさんだ!」と自分の人生を呪うような言葉ではありません。むしろシメオンは自分の人生に満足しているのです。「自分は生きてきて本当によかった。自分の人生は幸せだった」と語っているのです。多くの人々は自分の人生を振り返って、やり残した事柄を思い出し、「心残り」があることを訴えます。しかし、シメオンにはその「心残り」がないのです。そう考えて見ると、自分も人生の最後にこんな言葉が言えたらどんなによいだろうかと思わされるのです。そして私たちも是非、シメオンのような言葉を最後に言えるような人生を歩みたいと願うのです。
2.神に支えられる人生
①正しい人シメオン
さて、このシメオンとアンナの二人はお互いに面識があったのかどうかはわからないと先ほど語りました。そうでありながらも、二人の人生には大変に共通している点があると考えることができます。それは彼らが年老いてもなお、自分の人生には神から大切な使命が与えられていることを意識して生きていたと言う点です。聖書はシメオンの人生に神から与えられた大切な使命について次のように語っています。
「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(25〜26節)。
シメオンは「正しい人」と言う表現がここで使われています。聖書において「正しい人」と呼ばれる場合は、一般的な善人と言う意味を語っているのではありません。この場合の「正しい人」とは「聖書の教えに忠実に生きる人」と言う意味を表しています。先日のリビングライフ誌に何かの商品を購入したさい添付された説明書を読むことが大切であることが語られていました。説明書をちゃんと読まないと、その商品の本来の機能を使うことができないと言うのです。リビングライフ誌はこの話を例に取り上げて、私たち人間の人生の説明書は聖書だと教えています。だから私たちの人生は私たちの人生の説明書である聖書を読めばよく生きることができると言うのです。このような意味でシメオンは自分の人生の説明書である聖書に忠実に生きた人だったと言うのです。だから、彼は当然、自分の人生に神から与えられた使命を意識しながら生きることができたのです。
シメオンに神から与えられた使命である「イスラエルの慰められるのを待ち望(むこと)」とは、聖書に記された神の約束が実現することを待つと言うことです。そして「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と言うことは、神の約束はメシアである救い主の到来を通して実現しますから、実際にその慰めを体験することができると言うことです。シメオンの人生にはこの神の約束を待ち望むという明確な目標を持っていたと言うのです。
②自分の人生を受け入れた二人
一方、アンナはどうでしょうか。彼女は「女預言者」と語られています。聖書に登場する預言者は「神からメッセージを預かり、それを人々に知らせる」と言う役目を担った人を言います。一般的に言われる「将来のことを予言する」その予言者とは違うのです。そしてその神のメッセージの中心は神がイスラエルを慰められるために、救い主であるメシアを送ってくださると言うものでした。ですからこの点ではアンナが担っていた使命はシメオンのものとほとんど変わらないと言っていいのです。だからアンナはその働きを担うために「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」と言うのです。
聖書はこの二人の老人の健康状況がどのようなものだったのかを語ることはありません。ただ、シメオンとアンナは神から与えられた使命に忠実に生きていたことだけを語っています。もしかしたら、年老いた彼らは若い時とは違って自分の力で歩けなくなっていたかも知れません。また、生活に様々な不便を感じていたのかもしれません。もしかしたら彼らは他の人の力を借りてこの神殿までやって来ていたのかもしれません。しかし、聖書はそのような説明を一切していません。大切なことは彼らが自分の人生に与えられた使命を果たすことができたことと、その使命を果たすために神が様々な助けを彼らに与えていたと言う事実であると思います。
先日、認知症の人々を助ける施設の取材番組を見ていて考えさせられました。私たちが将来、認知症を患う確率はかなり高いもので、統計によれば五人に一人は必ず認知症になると言うのです。そうなると私たちは年を取ればやがて認知症になることが当たり前と考えた方がいいと言うことになります。そこでその施設の職員は語っています。「自分たちは認知症になって大きな不安を抱えている方々を施設に受け入れて、その人たちがありのままの自分を受け入れる助けをしたいと考えている。そうすればその方の認知症がなくなる訳ではありませんが、深刻な不安から解放されることができるのです」と。
シメオンとアンナは自分の置かれた状況を受け入れていました。彼らにも今とは違う人生を歩む機会はいくらでもあったはずです。しかし、彼らは自分が選んだ人生を後悔することはありませんでした。彼らは自分の今の人生を受け入れることで神の約束を待ち望む生活を続けたのです。この自分の置かれた場所で、自分に与えられた使命を果たすために懸命に生きる二人の姿から、私達も人生の秘訣を学ぶことができるのではないでしょうか。
3.神によって完成される人生
私たちの人生は自分が立てた計画通りにいつも進むものではありません。私たちが予想もしなかったさまざまな現実に出会い、その計画は何度も修正されて行かなければなりません。しかし、たとえ何度もの挫折を繰り返したとしても、その人生で自分の立てた計画を実現することができるならどんなに幸いなことでしょうか。ところが残念なことに、私たちの地上での人生の時には限りがあります。その時間は私たちに猶予を与えることはありません。たとえ自分の人生の計画がまだ実現していなくても、お構いなしに終わりはやってくるのです。計画半ばで事業が中断されることほど、悲惨なものはありません。せっかく時間と労力をかけて作り上げたものが途中で計画中止となって、廃墟のようなものとなってしまったらどうでしょうか。その計画に傾けられた時間も労力も無意味だったのかと感じて、人生を終えることほど耐えられないものはありません。
しかし、シメオンにもアンナにもそのような後悔の念はみじんも感じられないのです。むしろ彼らは救い主に出会って喜び、満足を表しているのです。ここに私たちの救い主イエスが私たちの人生のために果たしてくださる大切な役割が隠されています。なぜならば、救い主イエスの使命は私たちに代わった私たちの人生を最後の完成にまで導いてくださるところにあるからです。だから私たちの人生がたとえ計画の半ばで終わったとしても、私たちはそれを残念に思ったりする必要はないのです。イエスは実際に私たちの人生の計画を代わって受け継ぎ、神の計画の勝利に結びつけてくださるからです。
皆さんはジグソーパズルと言うゲームをされたことがありますか。小さな様々なピースの部分がお互いに繋ぎ合わされて最後に一枚の大きな絵を完成させるものです。私たちの人生はこのジグソーパズルの一ピースのようなものだと言えるのです。そのピースだけではいったいこれがどのような意味を持つものなのか想像もつきません。しかし、たくさんのピースがそれぞれ定められたところに収まって一つとなるとき、そこで初めて美しい絵が出現するのです。
私たちの人生は神さまのジグソーパズルのそれぞれのピースであると言えるのです。私たちの救い主イエスは私たちの人生を神のジグソーパズルの大切な一ピースとして用いてくださるのです。だから、私たちの人生が無意味に終わることはありせん。
シメオンとアンナは神殿で約束の救い主イエスと出会うことができました。そしてその出会いはこの二人にとって、自分の歩んできた人生が無意味ではなかったことを確信させるものとなったのです。そして今日の聖書の物語は救い主イエスを信じ、そのイエスを自分の救い主と認める者は、このシメオンとアンナと同じ人生で送ることができると教えているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。人生の最後に約束された救い主イエスと出会うことにより、満ち足りた人生の最後を迎えることができたシメオンとアンナのように、あなたは私たちの人生をも祝福し、あなたの貴い計画の一部分として用いてくださることを感謝します。どうか、私達が自分の人生を勝手に判断して、不満を抱いたり、不安を覚えることがないように、私達にもあなたの救いを待ち望む信仰を与えてください。聖霊を私たちにも送ってくださり、私たちがあなたの約束に希望を置いて生きる者となるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.シメオンはどのような人でしたか。彼はどのような信仰を持って生きていましたか(25節)。
2.神はシメオンの人生のゴールをどのように決めていましたか(26節)。
3.このとき神殿にはたくさんの人がやって来ていました。それなのにシメオンはなぜ、ヨセフとマリアが連れて来た幼子がメシアだとわかったのですか(27〜28節)。
4.幼子に巡り合えたシメオンはどのような喜びの声を上げていますか(29〜32節)。
5.アシェル族のファヌエルの娘アンナはどのような人でしたか(36〜37節)。
6.神殿で幼子に出会ったアンナはどのようなことをしましたか(38節)。
7.このシメオンとアンナの物語から、あなたはどのようなことを感じましたか。
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