2018.1.28 説教 「イエスの恵みの招きに応える信仰生活」
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聖書箇所
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ヨハネの黙示録21章6節
「また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」
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説 教 |
1.ヨハネはどこで幻を見たのか?
①ローズンゲンの年間聖句
今日はこの礼拝の後に会員総会が開催されます。この会員総会では昨年一年間の教会の活動報告を聞き、新たに始まった今年一年の教会の計画について話し合います。さらに、この総会では教会の年間聖句と年間標語も決められます。そこでこの礼拝ではすでに年報でお知らせしているように今年の年間聖句として選ばれたヨハネの黙示録21章6節の言葉と年間標語である「イエスの招きに応える信仰生活」についてお話をしたいと思います。
今年の年間聖句は久しぶりに聖書日課のローズンゲンの年間聖句を採用しました。実は今年の教会の月間聖句もこのローズンゲンの言葉から選ばれています。このローズンゲンはヨーロッパを中心にして250年以上にわたって発行されてきた聖書日課です。この本は私たちが毎日聖書の言葉を読むための助けとして今でも世界のたくさんの原語で翻訳されています。このローズンゲンと言う言葉には「合言葉」と言う意味があるようです。このローズンゲンによって世界で様々な国で生活している同じ信仰の仲間が毎日同じ聖句を読むことができるのです。ですから今年の教会の年間聖句も月間聖句も世界の信仰の仲間たちと同じ言葉を読むことになる訳です。
このローズンゲンの前書きに今年の年間聖句の解説が少し説明されています。そこで分かるのはこの聖句で語られている「命の水の泉」とは神のみ言葉、聖書の言葉であると言うことです。神は私たちに無償で命の水の泉から豊かな恵みを与えてくださると約束してくださいます。そしてその命の泉から私たちが恵みをくみ取る作業こそが、毎日の聖書を読み続けることだと言うのです。これはもちろん、ローズンゲンを買って、それを毎日使わなければならないと言うことではありません。ローズンゲンのような聖書日課を使わなくても私たちが聖書の言葉を毎日読むことが大切だと言っているのです。私たちが聖書の言葉を毎日読み続ければ、必ず神から命の水をいただくことができるからです。そうすることで私たちの霊的な命が養われ、潤わされていくことができるのです。もし、この命の水の供給が途絶えてしまえば私たちの信仰生活は枯渇してしまうしかありません。だから、私たちは毎日、命の水の泉から恵みをくみ取る作業、聖書を読み続けることを止めてはならないのです。
②ヨハネに語られた神の約束
そこで私たちはさらに神の「命の水の泉」から恵みを無償でいただく信仰生活について、もう少しこのヨハネの黙示録の言葉から詳しく考えて見たいのです。この黙示録を記したヨハネについて教会の伝承では使徒ヨハネ、イエスの弟子として召されて生きたヨハネであったと考えられています。しかし、この手紙の著者が使徒ヨハネであったと言うことを私たちに教えるのはこの教会の伝承だけであって、その他にその真偽を確かめる資料は一切残されていません。ですから、聖書学者の多くはこのヨハネは使徒のヨハネとは別の人物であると解釈しているのです。確かに黙示録の著者については多くの謎が残されているのですが、この手紙の内容からはっきりわかることもあります。それはこのヨハネがアジア州の諸教会にアドバイスを送ることのできるような教会の指導的立場にあった人物であると言うことです。その上でヨハネは自らも信仰を守り抜いた結果、迫害を受け、苦しんでいた人であったと言えるのです。ヨハネはこの黙示録の冒頭で自分についてこう語っています。
「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(1章9節)。
ここで登場するパトモス島は地中海に浮かぶ小島で、ローマ帝国が犯罪者のために使った流刑地であったようです。日本でもかつては「島流し」と呼ばれ刑罰があり、犯罪者たちが佐渡島や八丈島と言った島々に送られていました。ヨハネも同じように流刑者としてこの島で生活を送っていたと考えられています。そしてヨハネが流刑になった理由は「イエスの証しのゆえに」と説明されています。つまりヨハネはイエスを信じ、そのイエスの福音を多くの人に語り伝え、伝道したことで流刑の刑罰を受けていたのです。この年間聖句の6節の直前には次のような言葉が語られています。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21章3〜4節)。
ここにはイエス・キリストがその救いの御業を完全に完成されるときに、私たちに与えられる祝福の約束が語られています。そのとき神は「彼らの目から涙をことごとくぬぐいさってくださる」と約束されているのです。毎日、たのしく笑って生活している人にこのような約束は必要ありません。なぜ、神はこのような約束をヨハネに与えたのでしょうか。それは彼が毎日信仰のゆえに涙を流さざるを得ない生活を送っていたからです。彼はパトモス島から自分が責任を負っているアジア州の諸教会の現状に目を向けていました。彼に届けられるニュースは、信仰の仲間たちが今でも激しい迫害の中にあると言う現実でした。その仲間たちの中には信仰を守り抜くために命を奪われた人々も多くいました。今もなお命の危機にある者もいたのです。ヨハネはこのような厳しい状況の中でこの神の約束を聞いたのです。
2.黙示録は何のために書かれたのか
ヨハネの黙示録は様々な人に興味を持たれている書物であると言えます。終末と呼ばれるこの世の終わりのとき、人類はどのような危機に遭遇するのか…、そんな興味を抱く人々がこの黙示録を取り上げて論じたりしています。しかし、私たちが忘れてはならないことはこの黙示録はイエス・キリストを信じる信仰者に向けて書かれた書物であると言うことです。そして黙示録はイエスを信じて生きる人々に慰めと励まし、そして確かな希望を与えるために書かれた書物であると言うことです。
この著者ヨハネが遭遇した問題のように、私たちの人生には神を信じ、イエスを信じているからこそ出会う苦しみや悲しみが存在します。もちろん苦しみや悲しみは信仰者以外の人も味わうことができます。人生で苦しみや悲しみを体験したことがないと言う人は一人もいないはずです。しかし、信仰者とそうでない人の味わう苦しみや悲しみの間には大変な違いがあると言うことも確かなことです。イエス・キリストを世に遣わされたほどに私たちを愛してくださっている神が私たち一人一人の人生を支配してくださっていることを私たちは信じているのです。この世の人々が苦しみや悲しみに出会うとき、それはそのままの意味しかありません。ところが信仰者にとってはそこには違う意味が加わります。「どうして、神はこのようなことされたのか」とまず信仰者である私たちは考えるはずだからです。黙示録の記者ヨハネもまたこの黙示録の読者も同じ思いを抱いていたと考えることができます。どうして、「神はこのような迫害を許しておられるのか…」、そのような深刻な疑問を抱く者たちに対してヨハネの黙示録の幻や預言は示されているのです。
ヨハネに示された幻の中で信仰者を苦しめているこの世の力が神の力に打ち勝つことができずに、滅ぼされることがはっきりと示されています。そして、この世の力に圧倒され、命まで奪われようとしている信仰者たちが最後の時に神の確かな勝利にあずかることができることが明らかにされているのです。そしてヨハネの黙示録は私たちにこのような幻を示すことで、私たちの日々の信仰者の歩みが決して無意味に終わることがないことを教えようとするのです。私たちは必ず信仰の戦いを通して勝利へと導かれることをヨハネの見た幻は示しているのです。私たちが自分の人生でどこにも希望を見出すことができなくなったとしても、黙示録は私たちに確かな希望が残されていると教えるのです。そして迫害の中に生きる信仰者が希望を抱きながら、信仰生活を歩み続けることができるように励ましているのです。
3.アルファでありオメガである方
今年の年間聖句は「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」と言う言葉で始められています。これは「命の水の泉から価なしに飲ませよう」と私たちに約束されたかたがどのような方であるかを示すことで、この約束が私たちにとって信頼できる確かな約束であることを示そうとしているのです。
ここに登場する「アルファ」と「オメガ」と言う言葉はギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字を表しています。私たちが使っているアルファベットなら「A」と「Z」と言う意味になります。だからこの言葉を受けてすぐに「初めであり、終わりである」と語られているのです。それではこの「初めであり、終わりである」とは私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。まず、この「アルファ」つまり「初め」は旧約聖書の最初の創世記の、その冒頭の言葉に登場する「初め」(1章1節)と言う言葉と同じ意味を持っています。つまり、この言葉は天地万物をはじめに創造された神の言葉であり、その方が語る確かな約束の言葉だと言うことを表しているのです。
それでは「オメガ」、つまり「終わり」とはどのような意味をもつことばなのでしょうか。これは私たちの信じる神こそ最初に天地万物を創造された神であると同時に、この世界を最後に完成させる方だと言う意味を持つ言葉なのです。つまり、私たちがなぜここに記された約束を確かなものであると確信できるかと言う理由は、この約束が天地万物を創造し、そのすべてのものを完成まで導かれる方が語られたものだからです。
約束の言葉だけなら誰でも語ることができます。しかし、その約束が空手形に終わってしまったら何の意味がありません。しかし、ここで私たちに約束してくださっている方の約束は空手形で終わることはないのです。なぜなら、この方は世界を創造し、それを完成させることができる方だからです。だから私たちはこの神の言葉を信頼して生きることができると言っているのです。
4.祝福された信仰生活を送るために
①意味のない行為を繰り返すことはできない
黙示録の約束は私たちが終末においてどのような祝福を受け、また勝利にあずかることができるかを教えています。しかし、黙示録の言葉は私たちの将来だけのために語られているのではありません。この黙示録の言葉は今を生きる私たちの生活にも直接、影響を与えるものとなっているからです。なぜなら、ここに約束されている終末における祝福や勝利があるからこそ、私たちの日々の歩みは確かなものであると言えるからです。
昔にから囚人に与えられる最も過酷な拷問と呼ばれているものは囚人に毎日、無意味な行動を繰り返えさせることだと言います。その拷問では囚人に水をたっぷり水桶にくませ、それをそのまま何もない地面に撒かせます。この行為自体には何の意味もないのです。このような行為を囚人に何度も、そして何日間も繰り返させると、囚人は必ず精神に異常をきたしてしまうと言います。人間は無意味な行為を繰り返すことに耐えることができないからです。しかし、お百姓さんは同じように水桶に水を汲み、畑に水を撒いて毎日生活しても精神に異常をきたすことはありません。なぜなら、その行為には畑の作物を育てるという意味があるからです。畑に水を撒けば豊かな収穫を得ることができるからこそ、それがどんなにお百姓さんには苦労であっても、拷問ではないのです。私たち信仰者が今、味わっている労苦もこのお百姓さんと同じであると言えるのです。私たちの経験している労苦には意味があるのです。だから、私たちはその労苦を耐えることができるのです。忍耐して、終わりのとき、豊かな収穫の時を待ちながら、希望を持って信仰生活を送ることができるのです。
②神の恵みの招きに応える信仰生活
私たちが信仰生活で毎日の支払う労苦は無意味ではありません。終末の時、私たちの払った労苦には報いが与えられます。しかし、神はだから今は我慢しなさいとだけ言っているのではありません。神は私たちを次のような言葉で招いてくださっているからです。
「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」。
この言葉は今の私たちに神が与えてくださる恵みを語っているのです。神は私たちが試練を耐え忍び、終わりまで信仰を守り続けることができるようにしてくださるのです。そのための助けを「価なし」、つまり無料で私たちに与えてくださると言うのです。
それでは私たちはどのようにしたらこの助けを受けて信仰生活を送ることができるのでしょうか。教会では昔からこの神の助け、恵みを受け取る手段として三つのことが大切だと教えてきました。(ウエストミンスター小教理問答書問88)。それは「み言葉」と「聖礼典」と「祈り」です。
最初にも申しましたように、神が与える命の水は聖書の言葉を通して私たちに与えられます。先日の種まきのたとえでも学んだように、種を蒔かない場所からは収穫を期待することはできません。しかし、神の言葉がよい土地に蒔かれれば、そこで根をおろしたくさんの収穫を結ぶことが可能です。この収穫を信じて私たちは毎日神の言葉を読み、その言葉を心に蒔き続ける必要があるのです。
第二に上げられる聖礼典とは教会で執行される洗礼や聖餐式のことを言っています。私たちの神は私たちの弱さをよく知っています。そして私たちはいつも「目に見えるもの、手で触れることができる神の恵みの証拠が欲しい」と願っているのです。目に見えないものだけを信じる力を私たちは持っていなからです。だから神は私たちに目で見えて手で触れる信仰の証拠を与えてくださったのです。それが教会で行われる聖礼典です。私たちはこの聖礼典にあずかることで目に見えない神の豊かに恵みにあずかっていることを確信することができるのです。聖霊なる神が聖礼典にあずかる私たちの信仰を実際に助けてを与えてくださるからです。
最後に私たちが神の恵みにあずかる手段として「祈り」があります。聖書の中で、神は私たちに何でも祈りなさいと教えてくださっています。「そんなことを言っても自分勝手な祈りや、都合のよい祈りまでささげてよいのか」と疑問に思われる方もおられるかもしれません。もちろん自分がそう思うなら、そう言う祈りをしないように努力することは大切です。しかし、案外祈っている本人にとっては何が自分勝手で、何が都合のいい祈りになっているか分からないことがあります。しかし、そんな心配をしなくても、神は私たちの祈りの内容を吟味し、最善の答えを与えてくださる方なのです。だから安心して何でも祈ったらよいのだと聖書は私たちに教えているのです。確かに私たちも最善を尽くして自分の祈りの言葉を吟味することは大切です。しかし、私たちが細心の注意を払うべきところは別にあります。それは私たちが祈らない信仰者になってはならないと言うことです。なぜなら、私たちの献げる祈りを通して神は私たちに豊かな恵みを与えてくださるからです。だから神は私たちが自分の口で祈るまで、私たちに恵みを与えることを待っておられるのです。
私たちはこの神さまの恵みの招きに応えるために、毎日、み言葉を読み、教会の礼拝で聖礼典にあずかりたいと思います。また神に祈り続ける信仰生活を続けて行きたいのです。なぜならこれこそ神の恵みの招きに応える信仰生活だと言えるからです。そして神はそのような信仰生活を続ける私たちに命の水の泉から豊かに恵みを与えてくださると黙示録の言葉は私たちに教えているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちの信仰の歩みが必ず勝利で終わることをヨハネに与えられた幻を通して示してくださりありがとうございます。私たちはこの幻から私たちの信仰生活を支える希望をいただくことができます。そしてあなたはそればかりでなく、私たちの毎日の信仰生活に豊かな恵みを与え、わたしたちが勝利の日まで信仰を持ち続けることができるように助けてくださいます。どうか、私たちがこの恵みにあずかるために聖書を読み、また教会の礼拝に集まって聖礼典にあずかり、祈りを献げ続けることができるようにしてください。どうか私たちの教会の今年一年の歩みも祝福してくださり、私たちもヨハネのように大胆にあなたの福音を宣べ伝え、キリストによる救いを証することができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.黙示録の著者であるヨハネは、信仰のために流刑者としてパトモス島に流される迫害を受けていました。また彼はアジア州の諸教会の仲間たちが彼と同じような試練を受けていることを聞いていました。そのようなヨハネに黙示録に示された幻はどのような希望を与えたと言えますか。
2.黙示録の言葉にあるように神は私たちの毎日の信仰生活に助けを与えてくださると約束してくださっています。私たちはその神の助けをどのようにしたら毎日の信仰生活で受けることができますか。
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