2018.1.17 説教「芽生え、育ち、実を結び」
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聖書箇所
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マルコによる福音書4章1〜20節
13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
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説 教 |
1.イエスのたとえ
①説教を分かり易くするための例話
今年初めの礼拝を迎えました。この礼拝では今年も続けてマルコによる福音書から学びます。今日の聖書箇所には多分皆さんもよくご存知のイエスが語られたたとえ話の一つ、「種を蒔く人のたとえ」が記されています。このたとえ話を読んで今まで皆さんはどのような感想をお持ちになられていたでしょうか。今日は、このたとえ話の意味と私たちの信仰生活への適用を考えるために、少しいままでとは別の視点からこのお話を考えてみたいと思うのです。
そこで、まず皆さんと共に考えたいのはそもそもイエスの語られたたとえ話とはどのような性格を持つものであったのかと言うことです。なぜなら、イエスの語られたたとえ話は私たちが普通考えている「たとえ話」、あるいは「例話」とは少し違った性格を持っていると考えられるからです。
通常、私たちがたとえ話と呼ぶ場合には、自分が相手に伝えたい内容をより分かり易い別のお話で説明することを言うはずです。牧師の説教ではよく「例話」と言うものが用いられます。この例話はメッセージの内容をより分かり易く、またより身近に聴衆に感じてもらうために語られるものです。イギリスの有名な説教家だったC・H・スポルジョンは「例話のない説教は窓のない家のようなものだ」と語ったと言います。どんなに正確に聖書のメッセージを伝えようとしても、例話がなければ聴衆の耳は閉ざされたままで、伝えたいものが伝えられなくなってしまいます。その点で説教においてこの例話は大切な役目を持っていると言えます。しかし例話はその反面では大変、危険な面も持ち合わせているとも言えます。なぜなら、もし説教者があやまった例話を語れば、聖書のメッセージは正しく聴衆に伝えられなくなってしまうからです。ですから説教者は例話を語る際に細心の注意をする必要があるのです。
②わからないようにするたとえ話
このように例話、つまりたとえ話は伝えたい内容をより分かり易く相手に伝えるために用いられるものですが、イエスの語られたたとえ話はこれとは大変性格が異なっていると言えます。なぜなら、イエスはむしろ語るべきメッセージが相手にそのままでは伝わらないように、相手に分からないようにと、このたとえ話を語っていると言っているからです。イエスは今日の箇所で次のようにそのことを語っています。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」(11〜12節)
この言葉によれば、イエスの語るたとえ話は特定の人々、ここではイエスの弟子たちにだけ分かるようになっていて、その他の人々にはむしろ理解できなくするものだと言うのです。だから弟子たち以外には「すべてをたとえ」で話すとイエスは語られているのです。つまり、イエスの語るたとえ話は特定の人にだけその真意が伝えるためのもので、そうでない人にはわからないまま謎のようなものとして残るお話だと言えるのです。こうなるとイエスの語るたとえ話は戦争のときによく軍隊が用いる暗号文と同じ役目を果たしていると考えることがきます。軍隊は極秘事項を味方にのみ知らせるために特別な暗号を使います。もし、この暗号文が敵に解読されてしまったら大変なことになってしまいます。戦争中に最前線を飛行機に乗って秘密裏に視察していた連合艦隊司令長官の山本五十六は、その暗号文をアメリカ軍に解読され、飛行機もろとも撃墜されて亡くなってしまったことが有名です。
このようにイエスの語られるたとえ話は特定の人にだけ真意を伝えるために語られています。ここでは特にその弟子たちにだけに真意が伝えられるようにたとえ話を語ると言っているのです。ところが、本来だったらそのたとえ話の内容を聞けばすぐにわかるはずの弟子たちも、このイエスの語られたたとえ話の意味が当初、よく理解できなかったと言うことが今日の物語の中に記されています。弟子たちは、イエスの語られたたとえ話の意味が分からずにその解き明かしをわざわざ願ったのでした(10節)。イエスはその弟子たちに次のような言葉を返しています。
「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」(13節)。
イエスのこの言葉はたとえ話の意味が分からな弟子たちに呆れているようにも聞こえます。他の人々には分からないはずだが、弟子たちには改めて解き明かしなどしなくても必ず分かるはずだとイエスが考えていたようです。それなら、どうして弟子たちならイエスの語られるたとえ話が理解することができるとイエスは言っているのでしょうか。それは弟子たちに与えられた使命を考えるとよく分かります。なぜなら、イエスの弟子たちはイエスと共に福音を宣教するために召されていた人たちだったからです。イエスは「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)とここで語っています。弟子たちにゆだねられた福音宣教は「神の言葉を蒔く」ことと同じだと言えるのです。すべての人々に神の言葉を伝えるために弟子たちはイエスによって選び出されたのです。だからその使命に生きる弟子たちにはこのたとえ話の意味が本来はよく理解できるはずであったのです。このような意味で私たちは今日のたとえ話を福音宣教の立場から考えてみたいと思うのです。
2.種を蒔く
私たちはこのたとえ話を「神の言葉を普段どのように聞くべきか、そのみ言葉を聞く姿勢を教えている」と考えがちです。しかし、この聖書箇所の言葉を読んでわかるのは、確かにここでは聖書の言葉を受け取る人々がそれぞれ違った環境の地面として例えられているのが分かります。しかし、悪い地面を収穫を豊かにもたらす良い土地にする方法や、よい畑にする耕し方はどこにも教えられていないのです。そして不思議なのは、み言葉を受け入れることができず、実を結ぶことができない人、悪い地面の理由は詳しく語られているのに対して、実を豊かに結ぶ人、つまり「良い土地」はどうしてそうなったのかと言う理由は何も語られていないのです。ですからこのたとえ話は神の言葉を聞く人の姿勢を問い直すために教えているものではないと言うことが分かります。
しかし、このたとえ話を神の言葉を伝える人々の側から考えてみたらどうでしょうか。実際にこの話の内容を私たちは福音宣教の過程で身近に体験することができるのではないでしょうか。ある人にはいくら聖書の言葉を伝えても、何の反応も示さないことがあります。まるでサタンの働きによってその人の心が閉ざされているようなことを感じるときがあるのです。また、ある人は私たちの伝えた福音の言葉を最初は喜んで受け入れます。しかし、その人の人生が期待通りにうまく進まないとまるで神様の言葉にその原因があるかのような物言いをして文句を言ってきます。そしてその人はやがて教会の活動にも背を向け始めるのです。また、み言葉を聞いて神を信じる決心をし、信仰生活を始めた人なのに、最初の感動や熱心が冷めると信仰以外のこの世の事柄に心を奪われて行って、いつしか教会の礼拝にもほとんど顔を見せない人も現れます。神様の言葉を伝える者たちはこのような人々の反応に出会うたびに、落ち込んだり、不安になったり、恐れさえ感じることがあるのです。私たちはそんなとき「自分の伝え方がよくなかったのだろうか。自分の何がいけなかったのだろうかと」と深く責任を感じるからです。もちろん、「神の言葉を正しく伝えるためにどうしたらよいのか」と考えることは大切なことです。しかし、どんなに努力しても他人の心をこちらの思い通りに変えることは私たちには不可能なのです。その意味でこのたとえ話には畑の土地を実り豊かな良い土地にする方法は少しも語られていないのです。
わずかな耕地からできるだけ豊かな収穫を得る。その点で日本の農業技術は今でも世界の中では高い水準を保っていると言われています。そのような農業技術を知る者は、このイエスのたとえ話に登場する種を蒔く人の行動に疑問を感じるかもしれません。「なんて非能率的な方法なのだろう」と考えるのです。しかし、聖書の時代にここに書かれた農業の方法は当たり前だったと言われています。当時のお百姓さんは種をたくさん蒔いて、芽が出てくるのを待ちます。そして蒔かれたたくさんの種の中から、よい土地に蒔かれ、芽を出した種からのみ収穫を得ようとしたのです。とても原始的な農業方法ですが、この作業にたとえられている福音宣教の方法は昔も今も変わることがないと言えるのです。とにかく種を撒くこと、神の言葉を伝えること、それだけが福音宣教の唯一の方法です。種を蒔かなければ絶対にそこから実を収穫することできません。種を蒔かないところからは何も出てくるはずはないからです。このたとえ話には福音宣教に伴う様々な人々の反応が説明されています。たとえ私たちの福音宣教に対してこのような人々の反応が示されても、私たちは決して神の言葉を伝える種まきの作業は止めてはならないのです。なぜなら、この種がよい土地に蒔かれれば「三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」ことができると教えられているからです。
私たちには福音宣教において神の言葉の力に信頼して、その言葉を伝え続けること、種を撒き続けることが求められています。なぜならイエスはこの種の力の秘密について次のように語っているからです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。イエスが私たちのために十字架で死んでくださったからこそ、この神の言葉には人を救う力が豊かにあるのです。
3.自分の心にも種を蒔き続ける
①決心を全うできない敗北感
今までこのたとえ話は神の言葉を伝える使命を委ねられている弟子たちにイエスが語られたものだと言うことを学びました。もちろん、私たちもイエスの弟子とされた者の一人と言えますから、このたとえ話は私たちにも語られているものだと言うことが分かります。私たちにも決して諦めることなく神の言葉を伝え続ける使命がイエスから与えられているのです。そのうえで、私たちは最後に自らの心にもこの神のみ言葉の種を蒔き続けると言うことについても考えてみたいと思います。
なぜならば、今日のたとえ話を読む私たちは決して他人事のようにこの話を読むことはできないからです。新年を迎えて皆さんも「今年こそ」といろいろな決心を新たにされた方もおられるはずです。その中でも「今年こそ、聖書を毎日読むことにしよう」と思われた方もおられるはずです。「新年からは毎朝、まず最初に聖書を読むことから始めよう」と決心された方もおられるかもしれません。ところがそのような決心をせっかくしても、朝の慌ただしさの中でいつのまにか聖書を読むことなどどこにかに行ってしまって、その決心はアッと言う間に消え去ってしまと言う体験を私たちは味わいます。まるで、サタンが自分を妨害して、その決心を覆そうとしているようにさえ思えるのです。聖書の言葉を毎日喜んで読みます。順調なときはよいのですが、ひとたび試練が起こると、私たちの心は揺らぎます。不安や怒り様々な感情を抱く私たちの心に聖書の言葉は届かなくなってしまうのです。また、毎日のように私たちの生活にはたくさんの出来事が起こります。そんなとき私たちは「まずこれを最初に片付けなければ」と思って、聖書を読むことを後回しにしてしまうことがよくあります。結局はその夜は疲れ果てて、聖書を読む気力もなく眠りについてしまいます。こんな失敗体験を繰り返していると私たちの心にはいつしか強い敗北感だけが残ってしまうのです。「わたしはダメだ。どうにもならない。こんな決心をしたのが間違いだった」と思ってしまうのです。
②聖書の言葉を読み、伝えよう
しかし、私たちがそのように自分の決心さえ全うすることができない人間であることを神さまは初めからよく知っておられるはずです。だからこそこのたとえ話がイエスによって私たちに語られていることを知る必要があります。イエスは敗北感を抱く私たちにこのたとえ話を通して語っているのです。「そんなことはよく分かっている。だかこそ、種を蒔くことをやめてはならない。どんなに不安になっても、どんなに心が恐れに支配されても、どんなに思い煩いで押しつぶされそうになっても、神の言葉をあなたの心に蒔き続けることを止めてはならない」と教えてくださっているのです。なぜなら、私たちをサタンの働きから、またこの世の誘惑から、そして様々な思い煩いから解放してくれるのは私たちの心に蒔かれた神の言葉だからです。この神の言葉が私たちに働くことによって、私たちの信仰生活は豊かに祝福されるのです。種を撒かないところからは決して収穫を期待することはできないと言うことを覚えるべきです。なぜなら聖書を読まない信仰生活が祝福されることは決してないからです。
もちろん私たちの信仰生活は山に籠って一人で修行するような生活ではありません。だから私たちの信仰生活には様々な助けが神から与えられているのです。その中でも、神が与えてくださった最も力強い助けは教会です。私たちは教会の礼拝を通して、そこに集う兄弟姉妹との交わりを通して助けを受け、信仰生活を続けることができるのです。私たちが毎日聖書を読み続けることもこの教会の助けがなければ不可能に近いのです。
改革派教会はリジョイス誌と言う月刊誌を発行しています。この雑誌は私たちが聖書の言葉に毎日親しむように作られています。このリジョイス誌の内容はメディアミニストリーのホームページからきれいな朗読の音声で聞くこともできます。ほんのわずかな時間を使って、神の言葉に毎日耳を傾けることができるのです。
また、韓国のオンヌリ教会が発行しているリビングライフ誌も、私たちが毎日聖書の言葉に耳を傾ける助けを与えてくれるものです。このオンヌリ教会は私達と同じ改革派信仰を持ち、ウエストミンスター信仰基準を守る長老教会に属している教会です。東川口教会では毎週、金曜日のフレンドシップアワーでこのリビングライフ誌のグループバイブルスタディを使って学びと、語り合いのときを持っています。
神の言葉がよい地に蒔かれたら三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことができます。このイエスの語るたとえ話を読む場合、私たちがたとえ話に登場するどの畑にあたるとのかと言うことを考えることはこのたとえ話の目的からは外れています。むしろこのたとえ話は私たちに神の言葉の素晴らしい力を信じて、その種を撒き続けることを教えているからです。このことは福音宣教においても同様です。私たちが今、伝道しようとしている人がどのよう畑にあたるのかを私たちが考え、判断する必要はありません。大切なことは種を撒き続けること、聖書の言葉を伝え続けることなのです。なぜならば、種を蒔かないところからは決して福音宣教の収穫を期待することはできないからです。私たちはこの神の言葉の力を信じて、み言葉の種を、聖書の言葉を自分にもまた自分の周りの人々に蒔き続けていきたいと思うのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。あなたは私たちに豊かな実りの収穫を与えてくださるみ言葉の種を与えてくださっています。そしてそのみ言葉の種を蒔き続けることを私たちに求めておられます。私たちは失敗をし続けた自分自身を見つめるとき敗北感に襲われることがたびたびあります。どうか、私たちが自分自身の力ではなく、私たちにゆだねられたみ言葉の力を信じ、み言葉の種を自分の心にも、また私たちに身近な人々に蒔き続けることができるように助けてください。そしてここに集められた私たちがみ言葉の豊かにな実りを喜び祝うことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.種を蒔く人が蒔いた種はそれぞれ異なった地面で、どのような結果を示しましたか(3〜8節)
2.イエスはたとえ話を使って話す理由を弟子たちにどのように説明されましたか(10〜12節)。イエスの語るたとえ話は私たちが通常考えているたとえ話とどのように違っていると言えますか。
3.このたとえ話に登場する種を蒔く人、道端に落ちた種、石だらけのところに蒔かれた種、茨の中に蒔かれた種はそれぞれどんなことを言っているのですか(13〜19節)。
4.このたとえ話にはよい土地に蒔かれた種が三十倍、六十倍、百倍の実を結んだことが語られていても、どのようにしたら悪い土地がよい土地になるのかと言う方法は語られていません。それはどうしてですか。
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