2018.10.21 説教 「戻って来たサマリア人」


聖書箇所

ルカによる福音書17章11〜19節
11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


説 教

1.重い皮膚病
①悲しむ癒し人

 昔、ドイツに人の病を癒すことのできる賜物を持った牧師がいました。彼の元を訪れると医者には治すこともできない病まで治ると言うのです。やがてその牧師の噂はドイツ中に広がりました。そしてたくさんの病人が彼の元に自分の病の癒しを求めて訪れるようになったのです。その牧師を通してたくさんの人が奇跡的な癒しを体験しました。そしてその人々は皆、喜んで元いた町に帰って行ったのです。ところがその牧師はその人々の光景を見て、悲しくなってしまったと言うのです。どうしてその牧師は喜んでいる人々の姿を見て悲しくなったのでしょうか。彼はこう考えました。「あの人たちは病気が治ることだけを求めてここにやって来ている。そして元の生活に戻って行ってしまう。彼らはここにキリストを求めてやって来ているのではないのだ」。その牧師は自分のところにやって来る人々にキリストを伝えたいと思っていました。彼らがすべてキリストの救いにあずかって新しい人生を出発してほしいと願っていたのです。しかし、現実は多くの人々は病が癒されると「もうそれでよし」と考えて帰って行ってしますのです。結局この牧師はこの後、積極的に人の病を癒すことを止めてしまったと言います。
 今日のお話の中にも当時は不治とも言える病をイエスによって癒された人々が登場しています。しかし、彼らの大半は病を癒されても、それを癒してくださったイエスのもとに戻って来ることはありませんでした。彼らはそのまま自分の住んでいた町に帰ってしまったと言うのです。おそらく、イエスもこのドイツ人の牧師のように彼らのことを考えて悲しさを感じたのかもしれません。しかし、今日のお話の中には自分の病が癒されたことを喜んで、神を賛美し、イエスの元に感謝を献げるために帰ってきた人がいました。そして彼はこの後、イエスを信じて新しい人生を歩みだすことができたのです。私たちは今日の聖書のお話を通して、このイエス・キリストに出会うことができた一人の人の信仰について少し考えてみたいと思うのです。

②重い皮膚病

 今日の箇所には十人の病人が登場しています。彼らの病名は新共同訳聖書には「重い皮膚病」と記されています。以前の日本語訳の聖書ではこの病名を「らい病」と翻訳していました。どうしてこのように翻訳が変更されたのかと言うと、第一に聖書が語る「らい病」と現代の医学が分類する「らい病」は厳密に言って違いがあると言うことがはっきりと分かって来たからです。旧約聖書の中にはこの病名で記された病気の症状が詳しく書かれています。これを読むと現代の医学で「らい病」と言っている特定の病に限られるものではなく、もっと広範囲の皮膚病がそこに含まれていることが推測できるのです。
 さらにもう一つの翻訳が変えられた理由は「らい病」と呼ばれる病に苦しんでいる人に対する差別を助長するような表現を避けるという狙いがあります。ご存知のように「らい病」と呼ばれる病に感染した患者たちは日本でも長い間、差別されて、ひどい取り扱いを受けて来ました。本人は何も悪いことをしていないのに、この病気に感染したために家族から引き離され、戸籍まで外されて、あたかもその人が生きていたという形跡まで消されてしまうこともあったと言います。その上で、「らい病」患者たちは法律によって強制的に隔離施設に収容されました。最近、ニュースに取り上げられているのは彼らがこの病を理由に強制的に不妊手術を施されたという問題です。このようにこの病気のために人間としての権利を奪われるという悲劇がつい最近まで日本でも存在していたのです。この差別を決して許してはいけないと言う考えが、この病名の翻訳変更に影響を与えたと考えられるのです。
 イエスが活動されていた時代、ユダヤ人の間でも「重い皮膚病」と判断された人々は同じように人々から悲惨な取り扱いを受けていました。彼らは旧約聖書の教える掟に従って、町から追放され、町はずれの場所でひっそりと暮らさなければなりませんでした。彼らが外出する際には、他の人々に近づいてはならないと命じられ、わざわざ他の人たちに自分たちがそばにいることを知らせるために「わたしはけがれています」と叫びながら道を歩く必要があったのです。だからこの当時のユダヤ人たちはこの病にかかった人を「神に呪われた人々」と考えていたようです。
 しかし、イエスを通して新たに示された「重い皮膚病」を患った人々に対する神の見方はこれとは全く違っていました。なぜなら、彼らは呪われた人たちではなく、神の癒しの対象者であって、神の深い愛が注がれるべき人々だからです。そのことは新約聖書の中でイエスと「重い皮膚病」を患った人々との関係を学ぶと分かります。

2.病を患った10人の仲間たち
①ユダヤ人とサマリア人

 十人の病人と言っても少しその人々の構成は複雑でした。彼らの中にはユダヤ人だけではなく、サマリア人と呼ばれる人も含まれていたからです。今日の舞台は「サマリアとガリラヤの間」と福音書には記されています。サマリアもガリラヤも、神殿の建てられたエルサレムがあったユダヤ地方から見れば北にある地方です。この地方は昔、ユダヤの国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した際、北イスラエル王国に属していました。そしてこの北イスラエル王国はアッシリアと言う大帝国の侵略のために、滅ぼされてしまいました。アッシリアは特にサマリア地方に住んでいた主だった人々を外国に連行して行きました。そしてそれとは反対に外国からたくさんの移民をこのサマリアに入植させたのです。ですからユダヤ人たちはこのサマリアの人々を「外国人」と呼ぶようになりました。イエスも今日の箇所でこのサマリア人を「外国人」と呼んでいます。
 サマリア地方とは違い、もっと北の辺境の地であったガリラヤはこのアッシリアの捕囚の影響をあまり受けず、古くからのユダヤ人たちが住み続けていました。ユダヤ人とサマリア人は歴史の中で何度も衝突して、争い憎み合っていました。だからガリラヤに住んでいたユダヤ人はこのサマリアを通過することを避けて、エルサレムに行く際にはヨルダン川の東側を迂回して旅をしたと言われています。「サマリアとガリラヤの間」と言うルートはサマリアの真ん中を通らずに、ヨルダン川の東側に抜けるルートであったと考えることができます。
 普段は水と油と言ってもよいユダヤ人とサマリア人の間柄でしたが、同じ病を持つ身であったためでしょうか、彼らはこのとき民族の壁を越えて行動を共にしていました。ここでも十人は一緒になってイエスから遠く離れた場所に立って、自分たちの病を癒して欲しいと叫んだのです。これが律法で行動を大幅に制限されていた彼らが取れる精一杯のアピールの方法であったからです。

②十人の信仰

 イエスは病の癒しを求める十人の人々に対して「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と命じています。これは当時、重い皮膚病に罹った人を診断して、町から追放したり、また復帰させる勤めを任されていたのが祭司たちだったからです。つまり、これは「祭司のところに行って、自分が病から癒されたことを認めてもらい、家に戻る許可を受けなさい」と言う意味で語られた言葉です。考えて見るとこのイエスの言葉は不思議です。なぜなら、十人が癒されるのはイエスの言葉を聞いて祭司の元に向かう道の途中だったからです。(14節)。ですからこのイエスの言葉を聞いた時点では彼らはまだ重い皮膚病患者のままであったと考えることができます。
 旧約聖書の列王記下5章にはこの十人と同じように重い皮膚病を患って苦しんでいたアラム人の将軍ナアマンと言う人物が登場しています。ナアマンは自分の病を癒してほしいと願い、イスラエルの預言者エリシャの元まで旅をしてやって来ました。ところがエリシャはこのナアマンに直接に会うこともしないで、従者を通して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの身体は元に戻り、清くなる」(10節)と告げさせたのです。この言葉を聞いたナアマンは、最初は腹を立てて、そのままで自分の国に帰国しようとしています。しかし、ナアマンは彼の手下の知恵ある助言を受け入れて、エリシャの言葉通りヨルダン川に行って自分の身を七度洗います。すると彼の身体は子どもの身体のようになり、清くなったと聖書に語られています。ナアマンは重い皮膚病にかかったままでエリシャの言葉に従って行動しました。するとナアマンはその預言者の言葉の通りに、病が癒されたのです。同じように十人の病人は「祭司のところに行きなさい」と言うイエスの言葉に従いました。だから彼らの病は癒されたのです。十人ともイエスの言葉に従うことで、その癒しを体験することができたと言えるのです。

3.帰って来たサマリア人

 ここで終われば、この物語はイエスによる病気の癒しの物語、不思議な奇跡物語の一つに分類されるでしょう。しかし、この物語はここで終わらないでさらに続いているのです。やがて十人の内の一人の人物が「大声で神を賛美しながら戻って来た」(15節)と言うのです。そして彼はイエスの足元にひれ伏して感謝しました。彼はどうしてこのような行動を取ったのでしょうか。他の九人の人と彼はどこが違っていたのでしょうか。聖書は「その中の一人は、自分がいやされたことを知って」と彼の行動が他の九人と違っていた理由を示しています。重い皮膚病が治ったとしたら、それは目で見てもすぐにわかることです。ですから、彼以外の他の九人が自分の病気が癒されたことに気づかなかったということは考えられません。つまり、この人が戻って来たのは他の九人が気づかなかった他の何かに気づいたからと言うことになります。
 それでは彼はこの時、何に気づいたのでしょうか。これは彼が気づいた後に取った行動から推測することができます。彼は自分が神に癒されたということに気づいたのです。そしてその癒しがイエスを通して自分に実現しことにも気づいたのです。だから彼は神を賛美し、イエスに感謝をささげるために戻って来たのです。戻って来なかった他の九人はそのことに気づくことができなかったのです。
 ある説教者は戻って来た人がサマリア人であることに注目して、こう説明しています。ユダヤ人は自分たちだけが神に選ばれた民であり、神の愛を受けるにふさわしい者たちだと自分のことを常日頃から考えていました。だから九人は確かに自分の病が神によって癒されたことに気づいていたとしても、それはユダヤ人の自分たちに起こっても当然のことだと考えたと言うのです。神への賛美も、イエスへの感謝も心の内から湧き上がって来ないのは彼らがそれを当然のことだと考えてしまったためだと言うのです。しかし、もう一方のサマリア人は違いました。自分はユダヤ人であるイエスに癒しをしていただく権利を持っていないと彼は考えていました。ところが神はその自分さえも決して見捨てることなく、癒してくださった、彼はその神の御業に気づいたのです。それが彼に大きな驚きを与え、喜びと感謝が心から湧き上がる原因となったと言うのです。
 神は私たちを愛してくださり、豊かな恵みを与えてくださいます。しかし、それを私たちが「あたりまえ」と考えてしまっていたら、私たちの内から喜びも感謝も生まれては来ないはずです。ですから私たちの信仰生活が喜びと感謝に満たされるためには、私が今、このように神から様々な恵みをいただいていることが当たり前ではないことを知る必要があります。神の前に罪を犯すばかりで、厳しい裁きを受けざるを得ない私たちが、イエス・キリストによって赦され、神の子どものとして生きることができること、私たちの信仰生活は当たり前のことではないのです。私たちもイエスの十字架による驚くべき奇跡を体験して、神の子とされたからです。

4.イエスの元に戻り、賛美し、感謝を献げる日のために

 イエスはこの癒されたサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(19節)と語られました。この言葉を語ることでこの人の人生が全く新しくされたことをイエスは宣言されているのです。自分の人生に神の奇跡が実現したことに気づき、神を賛美し、イエスに感謝を献げるために戻って来たこの人の人生に救いが実現したとイエスは語られています。この言葉でわかるのは病の癒しと救いは別の事柄であると言うことです。重い皮膚病を患った十人すべがイエスによって癒しを経験しました。しかし、その中で救いを受けることができたのはこのサマリア人一人だけだったからです。
 先ほどお話したドイツの牧師には他にもいくつかの逸話が残っています。彼はいつも自分の執務する家の裏に、真新しい馬車を準備していたと言われています。人から「この馬車は何のためにここに置かれているのですか」と尋ねられると、その彼は「イエス様が再臨されたときに、真っ先にこの馬車に乗って駆け付けるためです」と答えたと言うのです。彼は自分を救ってくださったイエスにお会いすること、彼を賛美し、感謝を献げることが人生の目的となっていたのです。
 この牧師は晩年になってよく周りの人にこのような証を語ったと言います。「自分の肉体は年を取って日々衰えていきますが、私の心に与えられたキリストにある希望は日々、大きくなっています」と。病を癒していただくことも大切なことです。神はこの十人を癒されたように、病む人の祈りに答えて、ふさわしい癒しを与えてくださるはずです。しかし、病の癒しよりももっと大切なことがあります。それは私たちが救い主イエスと出会うことです。そしてそのイエスによって新しい人生を始めることができることです。私たちの健康は失われることがありかもしれません。しかし、私たちとイエスとの出会いで始まった関係は決して、失われることがありません。イエスはこれからも私たちの人生を支え導いてくださるのです。そして、私たちにもやがて天におられるイエスの元に赴き、神を賛美し、感謝を献げることができる日がやって来るのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 日々、私たちを豊かな恵みで取り囲み、貴い救いを与えてくださったことを感謝いたします。どうか私たちの信仰の目を開いて、イエスの元に戻って来たサマリア人のようにあなたの御業に気づくことで、私たちの信仰生活をあなたに対する賛美と感謝で満たしてください。そして私たちもイエスに再びお会いするときに、神を賛美し、感謝を献げながら身元に戻ることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはエルサレムに登る途中、サマリアとガリラヤの間を通って誰と会いましたか。彼らはイエスに会うと、何をしましたか。(11〜13節)
2.どうしてイエスは彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と命じたのでしょうか。彼らがこのイエスの言葉に従うとどのようなことが起こりましたか(14節)。
3.イエスのところに戻って来た人はどのような人でしたか。彼は何をするために戻って来たのでしょうか(16節)。
4.彼はイエスからどのような言葉を聞くことができましたか。この言葉を通して彼の人生に起こったことを説明してみまししょう(19節)。