2018.11.11 説教 「ひれ伏したペトロ」


聖書箇所

ルカによる福音書5章1〜11節
1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


説 教

1.イエスとペトロの出会い
①本当の出会いとは

 皆さんは古い人物ですが椎名麟三と言う作家の書いた本を読んだことがおありでしょうか。椎名はキリスト教信仰を持った作家で、自らの信仰をその作品を通して表現しました。彼は小説や戯曲など様々な作品を残しましたが、その中でも自分の信仰体験を記した「私の聖書物語」と言う小さな書物があります。私も今から40年も前に教会に通い、求道者の生活を続けていたときにこの本を読んだことがあります。題名から考えて「何か聖書の解説をしているのかな」と思い、簡単な気持で手に取ったのです。しかし、内容は聖書の解説書ではなく、椎名の独特な表現によって彼自身の信仰の証が紹介されているものです。この書物の中で椎名はこんなことを語っています。
 結婚相手を探すためにお見合いをすることがある。その時、お見合いの当事者は互いの身の上を記した書類を交換する。その身上書には見合いの相手がどこそこの大学を出て、どのような会社のどういう役職で今、働いているかが書かれています。さらにはその会社に勤めて収入が今どのくらいあるかも書かれている場合もあります。見合いのもう一方の相手はその身上書を見ながら、この相手は自分の結婚相手としてふさわしいかどうかを判断することになる訳です。しかし、椎名はこう言うのです、この身上書をいくら熱心に読んで、相手について詳しく知ったとしても、それだけでは相手に対する愛情は決して生まれては来ないと…。相手に対する特別な感情は実際に顔と顔を合わせて、親しく語り合い、一緒に時間を過ごさなければ生まれないと言うのです。本当の愛情はそのような出会いを通して初めて生まれてくるからです。
 椎名はこの見合いの話を語りながら、私たちとイエス・キリストとの出会いを説明しようとしています。椎名によれば聖書を読んでそこにある知識を身に着けるだけでは、見合いの相手の身上書を読んだだけと同じだと語るのです。それでは決してキリストに出会ったとは言えないのです。ですから私たちがイエスと特別な関係を結ぶためには、彼とともに語り合い、一緒の時間を過ごさなければなりません。そのようにして私たち自身がイエスと出会う必要があると言うのです。
 今日は聖書の物語からシモン・ペトロとイエスとの出会いの物語を学びます。ご存知のようにペトロはそれまではガリラヤ湖で魚を捕まえる漁師をしていました。シモンはこのイエスとの出会いによってイエスの弟子とされ、イエスの弟子としての人生を歩みだします。このシモンとイエスとの出会いはどのようなものだったのでしょうか。その出会いはシモンの人生にどのような意味をもたらしたのでしょうか。

②神の言葉を求める人々

 この物語はガリラヤ湖の湖畔から始まっています。聖書に「ゲネサレト湖畔」と記されているのはこのガリラヤ湖の別名です。このとき、このガリラヤ湖畔にたくさんの人々が押し寄せて来ていました。それは彼らがイエスを通して語られる神の言葉を聞くためです。人々はこの神の言葉を聞くためにイエスの元に集まって来ていたのです。
 私たち人間は自分の力では神を正しく知ることはできません。だから神はかつて預言者たちを通して、ご自身のことを人間に教えようとされたのです。私たちが手にしている旧約聖書はこの預言者たちによって伝えられた神の自己紹介の言葉が記されている書物と言うことができます。神は私たちにもっとご自分のことを詳しく知らせるために、ご自分の子どもであるイエスをこの地上に遣わしてくださいました。かつてイエスの弟子の一人は「自分たちに父(なる神)を示してください」とイエスに願ったことがありました。そのときイエスは「わたしを見たものは父(なる神)を見たのだ」と弟子たちの答えたのです(ヨハネ14章9節)。イエスは私たちに真の神を正しく知らせるためにやって来てくださった方です。私たちはこのイエスの言葉と御業を記した新約聖書を通して、このときの群衆と同じように神の言葉を今でも聞きことができるのです。
 イエスは神の言葉を求めて集まる人々を決して無視されることはありません。求める者には丁寧に神のことを教えてくださる方なのです。だから私たちも、神の言葉を求めて聖書の言葉を読んでいくなら、イエスはそのような私たちの願いに答えて、私たちにも詳しく語ってくださるのです。

2.イエスの言葉に従う
①シモンの舟に乗るイエス

 このとき、この湖畔に二艘の舟がつながれていました。この船はシモン・ペトロたちが漁に出るために使っていた舟です。聖書によればこのときシモンたちはすでに漁を終えて、沖に上がって網を洗っていたと語られています(2節)。この当時のガリラヤ湖の漁は通常は夜に行われていたようです。ガリラヤ湖の魚は、昼間は湖底で息をひそめていて隠れています。しかし、その魚たちが夜になると湖面近くに上がって来るのです。そこで漁師たちは夜、湖の上の方に上がって来た魚たちを網で捕獲する方法を採用していました。シモンたちはこのとき「網を洗っていた」と言うことはその漁を終えて、帰り支度をしていたと言うことになります。
 イエスはこのときシモンの持ち舟に乗り、シモンに「岸から少し漕ぎ出すように」と依頼されました。それは舟の上から湖畔に集まっている人々に神の言葉を語るためでした。シモンはこれから家に帰って休もうとしていたところでしたが、このイエスの願いにすぐに答えて舟を漕ぎ出しています。実はこの直前にシモンは自分のしゅうとめの病をイエスに癒していたただいたと言う経験をしていました(38〜41節)。だから、シモンはイエスの願いを簡単に断ることができなかったと考えることもできます。また、それ以上にシモンはその時からイエスに対して強い関心を持っていたとも考えることができるのです。

②イエスの非常識な命令に従う

 イエスが群衆に話すことを終えられた後、彼はシモンに向かって「沖に漕ぎ出して網を降ろして漁をしないさい」と言われました(4節)。ここでイエスは個人的にシモンに向かって語りかけてくださったのです。聖書を熱心に読んでいると私たちはイエスが私たちに語りかけてくださっていることに気づくことがあります。いえ、私たちが聖書を読むとき、そこに語られているイエスの言葉を今の自分に語りかけてくださっている言葉として読むなら、そこで私たちとイエスとの会話が生まれるのです。そして私たちとイエスとの出会いがそこから始まるのです。
 「沖に漕ぎ出し網を降ろして漁をする」と言うイエスの言葉はこの時のシモンにとって実は簡単に従えるものではありませんでした。なぜなら、先ほども語りましたようにガリラヤ湖の漁は普通は夜に行われるもので、昼に魚を捕ることはその常識に反していたからです。これはシモンの持っていた漁師としての知識に反する言葉でした。その上、この命令を語ったイエスは漁師ではありませんでした。だからシモンはここで「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と語っているのです。シモンはこのとき、すでに夜通し働いて何も取れないという経験をして来たばかりなのです。イエスのこの言葉は漁師としてのペトロの知識にも反していましたし、彼がしてきた経験にも反していたのです。しかし、シモンはこの非常識な命令に従っています。

 「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)。

 「あなたの言うことはとても無茶なことです。しかしせっかくのあなたの言葉ですから、私は従います。あなたの言葉通りに網を降ろして見ましょう」と語り、ペトロはイエスの言葉に従ったのです。このシモンの決断が彼とイエスとの出会いを決定的なものとすることになりました。なぜなら、シモンがこのイエスの言葉に従って網を降ろしたとき、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになる」(6節)という大漁の奇跡を体験することができたからです。
 私たちが私たちの持っている知識に従い、また自分の経験に従って行動したとして、そこで何が起こるでしょうか。おそらく、私たちは考えていた通りのことが起こったとしか私たちには思えないはずです。神は私たちの人生のすべてを導いてくださっています。だから私たちの人生に起こるすべての出来事には神の御業が隠されています。しかし、私たちは自分の経験や知識にとらわれているために、その神の御業を悟ることができないでいるのです。私たちには何時もと同じに見え。当たり前のことと片付けてしまうことが多いのです。

イエスはそのような私たちに神の御業を悟らせるために、ときに私たちの持っている知識に反する、また経験に反する命令を与えられることがあります。そのとき、私たちも「お言葉ですから」と語り、シモンと同じ決意をするならば私たちもまた神の御業が私たちの人生にも豊かに表されていることを悟ることができるのです。私たちはイエスのみ言葉に従うことで、今まで知ることができなかった神と私たちとの関係を知り、深く知ることができるのです。

3.イエスとの本当の出会いを経験するペトロ

 さてこの大漁の奇跡を体験した後、シモンはどのような反応を示したでしょうか。福音書はそのことについて次のように報告しています。

 「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った」(8節)。

 これは意外な反応です。なぜなら、かつてイエスが五千人の人々の空腹を五つのパンと二匹の魚で満たされたとき、それを体験した群衆は「イエスを自分たちの王にしよう」と考えたからです(ヨハネ6章15節)。彼らは「イエスの不思議な力があれば自分たちは一生困ることがない」と思ったのです。このとき群衆はイエスの力を自分たちに都合のいいように使いたいと願って、彼を王に祭り上げようとしたことになるのです。もし、シモンが彼らと同じ考えを持っていたら、おそらくここでイエスに対して「わたしから離れてください」と言うのではなく、「私たちと一緒に漁師になってこのガリラヤ湖で働いてください」と語ったはずです。しかし、シモンはそう語りませんでした。それはなぜでしょうか。シモンはこう言っています。「わたしは罪深い者なのです」と…。もし、イエスがシモンと同じような人間であるならば、シモンは自分が特別に罪深い者だと言うようなことを気づくことはなかったはずです。シモンがこう言わざるを得なかったのは、自分の前に立つイエスが自分とは全く違う存在であると言うことに気づかされたからです。それがはっきり分かるのは、この奇跡を経験する前と後で、シモンが使ったイエスに対する呼び方の変化です。奇跡の前にシモンはイエスを「先生」と呼んでいます。しかし、この奇跡の後にシモンはイエスを「主よ」と呼ぶようにされているのです。
 通常、先生と呼ばれる人々は私たちが生きていくに困らないような知恵を与え、私たちを教育する勤めを持っています。しかし「主」は違います。なぜなら私たちの人生の全責任を持ってくださる方こそ「主」と呼ばれる方だからです。シモンはこのときイエスの言葉に従うことで、イエスが自分のような人間とは全く違う、神の子であるということを知ったのです。この方にだったら自分の人生をすべてあずけることができると彼が考えたからです。

4.イエスに従い新しい人生を始めるペトロ

 イエスはこの奇跡を体験したシモンたちに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と語られました。そして彼らはこのときから漁師としての職業を辞めて、イエスの弟子になり、イエスに従う人生を始めることになったのです。
 この物語はイエスを信じて従う信仰生活は今までの人生とは全く違った人生を始めることだと言う真理を私たちに教えています。私たちは自分の人生の一部分を変えて、自分の人生を今よりもよくしようと考えます。そのために神の助けも借りたいと願うのです。しかし、それではイエスを王としようとした人たちと同じになってしまいます。神がイエスを私たちの救い主として遣わしてくださったのは、そんな私たちの小さな願望を実現させるためではないのです。
 神は私たちために新しい人生を準備してくださっているのです。その新しい人生を私たちに与えるためにイエスはこの世界に来てくださったのです。私たちはペトロたちと同じように自分の職業や家を捨てて信仰に入る訳ではありません。洗礼を受けても、生活環境がすべて変わってしまうと言うことはめったにありません。「私の聖書物語」を記した椎名麟三も洗礼を受けたとき、自分の頭の上に水が二、三滴落とされただけでそれ以外、何も特別なことなど起こらなかったと言っています。しかし、彼はそんな自分の人生が全く変わってしまったことを続けて語っています。なぜなら、すべては死で終わると思っていた自分の人生が永遠の命に至るものと変えられたからです。このような意味でイエスと私たちとの出会いは私たちの人生の意味を全く変えてしまうものなのです。この新しい人生に導きくためにイエスは今日もみ言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。そして私たちに自分の言葉に従うようにと命じてくださるのです。私たちがこのイエスの言葉に従って生きるならば、私たちの人生は全く新たに変わります。ですから、私たちもシモン・ペトロと同じようにイエスの言葉に喜んで従って行きたいと思うのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 今もみ言葉を通して私たちに語りかけてくださるあなたに心から感謝します。どうか私たちの信仰を励まし、私たちがイエスの言葉に従て生きることができるようにしてください。そして私たちが毎日の生活で主イエスと出会うことで、生き生きとした人生を送ることができるようにしてください。そして私たちがそのような信仰生活を通して、他の人々に復活されたイエスが今も生きて私たちとともにおられることを証することができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)に人々は何のために集まって来たのでしょうか(1節)。
2.イエスはこのとき誰の舟に乗りましたか。それは何をするためでしたか(3節)。
3.イエスは群衆に話し終えるとシモン(ペトロ)に何と言われましたか(4節)。イエスの指示はどのような意味で常識外れのものでしたか(5節)。
4.シモンはどうしてこのイエスの言葉に従うことができたのでしょうか。シモンがこの言葉に従うとどうなりましたか(6〜7節)
5.この出来事を経験したシモンはイエスに何と語りましたか(8節)。この言葉にはシモンのどのような気持が表れていると思いますか。
6.この後イエスはシモンに何と言われましたか。シモンたちはこのイエスの言葉を聞いて、何をしましたか(10〜11節)