2018.11.18 説教 「何をしてほしいのか②」


聖書箇所

マルコによる福音書10章46〜52節
46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。


説 教

1.困ってしまう答え

 牧師としての仕事柄、いろいろな方と聖書についてお話しすることがあります。長く信仰生活を続けていると当たり前のように思えることが、聖書を初めて読まれた方などとお話しすると当たり前ではなかったことに気づかされることがあります。牧師には聖書を誰にでもわかるように説明をすることが求められていますが、案外それが難しいことがよく分かります。特に自分が中途半端にしか理解できていないところは、説明をする立場に立たされると自分の無理解がよく分かるのです。自分では十分に理解していると思っていたのに、実際にはほとんど理解していなかったということがいろいろな人と聖書について語り合う中ではっきりしてくるのです。
 さらに私がいろいろな人と聖書について話しているとその相手の反応も人さまざまであることが分かります。その中には確かに真剣に聖書や神さまについて考えている方もおられます。逆にむしろあまり聞きたくないという反応を示される方もおられるのです。
 私の高校時代からの知り合いが長く教会に通っていたことがありました。ところがその友人は聖書の中の世の終わり、つまり終末についての出来事だけに関心があって、それだけを知りたいと思って教会に行っていたようです。しばらくして彼が通っていた教会の宣教師が「彼はだめですね」と私に愚痴のような言葉をもらされたことがありました。私の友人にとって聖書は『ノストラダムスの大予言』と同じような部類の本で、自分の好奇心を満たすだけのものでしかなかったのかもしれません。聖書はイエス・キリストの福音を私たちに教えているのに私の友人は一切にそのことには興味を示そうとしなかったのです。
 ときどき、私が聖書のお話をすると、「私が考えていた通りのことを聖書は言っています」という反応を示す人がいます。そんな言葉を聞いたら「それは素晴らしいですね」と返事を返すべきなのでしょうが、どうも私にはそう素直に喜べないところがあります。もし、聖書に私たちの考えた通りのことが書かれていたとしたら、私たちがわざわざ聖書の言葉をよむ必要があるでしょうか。むしろ聖書には私たち人間の考えとは全く違ったことが教えられているからこそ、聖書を一生懸命に学ぶ価値があると言えるのではないでしょうか。聖書には私たちの人生を全く変えてしまうような私たち人間が知りえない神の真理が示されています。私たち人間が自分の力では絶対に知りえない神の福音が、この聖書の中には豊かに示されているのです。
 ところが聖書を読んでみますとイエスの時代の多くの人々も聖書の言葉をよく理解していなかったところが分かります。なぜなら、彼らは聖書に記された約束の通りにやってきた救い主イエスを誤解して、自分の都合のいいように救い主の役目を考えていたからです。

2.ダビデの子
①盲人バルティマイ

 今日の物語の中には一人の目の見えない人が登場しています。名前はバルティマイという人で、この名前の頭に付けられた「バル」は「誰それの子ども」という意味ですから、バルティマイは「ティマイの子ども」という意味になります。このマルコによる福音書がイエスの弟子以外の名前を福音書に記すのはきわめて珍しいことと言えます。ですから、このバルティマイはもしかしたらマルコのよく知っている人物、あるいはこのマルコの福音書を最初に読んだ人たちの知り合いであったのではないかと昔から考えられています。この物語の最後でイエスによって目が見えるようになったバルティマイは「イエスに従った」(52節)と記されています。バルティマイはこの後、イエスの弟子になって、初代教会の中でもよく知られた信仰者になっていたのかもしれません。あるいは伝道者の一人となって教会で働いていたとも考えられるのです。
 ただ、それらの情報は一切、聖書には記されていません。だから「誰かの考えた想像に過ぎない」と言われてしまえばそれまでです。バルティマイについて聖書が伝えているのは、彼はエリコという町の近くの道端に座って物乞いをして暮らしていた人だという事実です(46節)。当時の社会では目の見えない障害を持った者が自分で自活することはまず不可能に近いものでした。ですから、どうしてもバルティマイのような人は人々の憐れみにすがって、何かを他人からめぐんでもらって生きなければならなかったのです。しかし、このバルティマイの生活が一変してしまう出来事がここで起こりました。なぜなら彼の近くを救い主イエスが通られることになったからです。

②ダビデの子

 今日の箇所でイエスは「ダビデの子」と呼ばれています。この「ダビデの子」という意味は旧約聖書に登場するダビデ王という有名な人物と関係しています。神さまはこのダビデ王に、彼の王国とその王座が永遠に続くことを約束されたからです(サムエル下7章16節)。イエスの活動された時代には、このダビデの子孫が引き継いだ実際の王国はすでに滅んでいました。そのためユダヤの国は長く外国の支配の中に置かれていたのです。だからユダヤの人々はこのダビデに代わって自分たちの国を再建することのできる人物を待ち望んでいました。「ダビデの子」とはその人々の期待を実現する人物につけられる名前でした。人々は自分たちの期待をイエスが実現してくださると考え、彼を「ダビデの子」、つまり自分たちの「救い主」と呼んだのです。
 ある日、バルティマイは自分のそばをその「ダビデの子」であるイエスが通りかかろうとされていることを知りました。それで彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びだしたというのです(47節)。この時のバルティマイの叫び声は尋常ではないものだったのでしょう。周りの人々が彼を叱りつけて、彼を黙らせようとしたと聖書は言っています。しかし、彼は周りの人から叱られても、ますます大きな声で「ダビデの子よ、あわれんでください」とイエスに向かって叫び続けたのです(48節)。ここにはバルティマイの必死さがよく示されています。きっとバルティマイは「今日のこの機会を逃したら、もう再び同じようなチャンスが訪れることはないだろう」と考えたのです。だからバルティマイは他の人々から何を言われても、叫ぶことをやめることはできなかったのです。そしてイエスはこのように必死に自分を求める者の声を決して無視される方ではありませんでした。イエスはすぐに「あの男を呼んできなさい」とこのバルティマイの呼びかけに答えてくださったのです。

3.何をしてほしいのか

 聖書はイエスに呼ばれた時のバルティマイの姿を詳しく次のように記しています。

 「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(50節)。

 バルティマイにとって彼が普段からまとっていた上着はおそらく、彼の全財産にも等しいものと考えられます。その「上着を脱ぎ捨てた」という表現は、彼がたとえ全財産を失ったとしても惜しくない出来事がここで起こっていることを表しています。自分の叫びにイエスが答えてくださったということは彼にとって躍り上がるような喜びだったのです。聖書は私たちとイエスとの出会いの本当の価値をここで教えています。私たちの持っているものをすべて失ってしまったとしても、決して惜しくない出会い、それが私たちとイエスとの出会いであると教えるのです。
 そしてイエスはこのバルティマイに「何をしてほしいのか」と言われました(51節)。今日のこの説教の題名は「何をしてほしいのか②」となっています。どうして②となっているかと言えば、私たちが前回学んだお話にも「何をしてほしいのか」という題名が付けられていたからです。そのお話の中でイエスの弟子であったヤコブとヨハネはイエスに「何をしてほしいのか」と同じように尋ねられているのです。福音書を書いたマルコがここで全く同じイエスの「何をしてほしいのか」という言葉を繰り返して記すことでこの二つの物語の関係に福音書の読者を導こうとしていると思われます。
 ヤコブとヨハネはイエスから「何をしてほしいのか」と尋ねられたとき、彼らは「あなたがご自分の王国を建てられたとき、私たちをその国の大臣にしてください」と願い出たのです。私たちはこの願いが、救い主としてのイエスの働きの意味を全く理解できないことからくる、彼らの都合のよい願いであったことを学びました。そして福音書はこんな二人の願いを実現するためにイエスが救い主としてこの地上に遣わされたのではないことを教えているのです(35〜45節)。
 ヤコブとヨハネはここまでずっとイエスに従って来て、その教えと御業を身近で学ぶことができていたはずです。ところが彼らはそれでもイエスのことを正しく理解していなかったのです。つまり、彼らは本当のイエスの姿を見ることができないでいたのです。だから彼らは自分たちの勝手な期待をイエスの姿に読み込もうとしたのです。その上で彼らは「自分たちはイエスをよく知っている」と思い込んでしまっていたのです。
 そして福音書を書いたマルコはこのバルティマイの物語を記すことで、私たちがイエスに願わなければならないのは、自分自身が偉くなることではないことを教えています。ヤコブやヨハネそして、イエスを「ダビデの子」と呼んで彼の後に従った群衆たちはそのような意味で本当のイエスの姿を見えなくなっていました。しかし、バルティマイは違いました。彼はイエスに「目が見えるようになりたいのです」と願い出たからです(51節)。確かに目の見えないバルティマイにとって自分の目が見えることは一番にかなえたい願望であったと思われます。彼の目が見えるようになれば彼の人生は全く変わってしまう可能性があるからです。
 しかし、マルコはこの願いをこの福音書を読んでいる私たちもイエスに向けるべきだと教えているのです。なぜなら、私たちは救い主イエスを今でも本当に正しく見ることができていないからです。イエスが私たちに与えてくださろうとする救いの恵みのすばらしさを私たちは見ることができないでいるのです。だから私たちの目がイエスによって開かれるならば、私たちはその恵みのすばらしさを知ることができます。そして、それを知れば私たちの人生も変わることをこの福音書は教えているのです。

4.バルティマイが見たもの

 「見えるようになりたいのです」と言うバルティマイの願いに答えてイエスは次のように語ります。

 「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)。

 「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは言われました。それではこの時のバルティマイの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。バルティマイはダビデの子であるイエスなら、自分のような小さな者の願いでさえも耳を傾けてくださると信じていました。そしてそのイエスなら自分の盲目の目を開くことができると信じていたのです。バルティマイの信仰は自分の願望の実現だけを願った都合のよい信仰だったのでしょうか。そうではありませんでした。なぜなら、バルティマイの信仰はイエスに見えるようにされた後の彼の行動を通してもはっきりと分かるからです。彼は見えるようになった後で「道を進まれるイエスに従った」と説明されています。バルティマイは見えるようになった目を、そして新しくされた人生をイエスのために使いたいと願ったのです。そして、ここにバルティマイの信仰がよく表現されているのです。
 「道を進まれるイエス」とここで語られています。イエスはエルサレムへの道をこの時進んでいました。そしてこの後、エルサレムに入場したイエスはそこで十字架にかけられて殺されてしまいます。だからバルティマイはこの最後のイエスのエルサレムでの生活を見えるようになった目で目撃することができたと言うことになります。彼はイエスによって見えるようにされた目を通して、救い主イエスが何のためにこの地上に来てくださったのかをはっきりと見ることができたのです。
 私たちの救いにとって大切なのは私たちの都合のいい願望を実現させることではありません。なぜなら、そんな願いが実現しても私たちは本当の幸せを手に入れることはできないからです。私たちが本当に知らなければならないことは、救い主イエスが私たちのために何をしてくださったのかと言うことです。そして私たちの人生はこの方によってどのように変えられたのかと言うことです。そのイエスが実現した救いのすばらしさを知ることが私たちの人生を喜びに満たす鍵となるのです。そして私たちはそれを知るためにはまずバルティマイと同じようにイエスによって心の目を見えるようにしていただく必要があるのです。
 聖書の約束によれば、主イエスは今も私たちと片時も離れることなくともにいてくださっています。主イエスは私たちに聖霊を遣わすことで、私たちの人生を導いてくださっているからです。その素晴らしい恵みを私たちが毎日の生活で実感することができたら、私たちは何と幸いなことでしょうか。だからその恵みのすべてを知るためには私たちも「見えるようにしてください」とイエスに願い続ける必要があります。そうすれば私たちも見えるようになった目で、主イエスに仕えて生きることができるようにされるのです。


祈 祷

天の神さま
 あなたの素晴らしい救いの計画を実現するために救い主として地上に来られたイエスをほめたたえます。どうか私たちの心の目を開いて、そのイエスが私たちの信仰生活にともにおられ、私たちに聖霊を遣わしてくださるあなたに感謝します。心の目の視力を失っている私たちは、そのあなたの本当の真理を理解することも、恵みを見て、あなたをほめたたえることも自分の力では簡単にできません。どうか私たちの願いを聞き入れて、私たちがあなたに従う者となるようしてください。そのために私たちの心の目、霊的な目の力を回復させてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.エリコの町はヨルダン川の西側に位置する町で、ここからさらに西へ約一日歩くとエルサレムの町に着きます。イエスたちがこのエリコの町を出ていこうとされたとき、そこでどんな人と出会いましたか。彼はいつもそこで何をしていましたか。(46節)
2.バルティマイはナザレのイエスが近くにいると知ったときどのような行動をとりましたか(47節)。
3.どうしてバルティマイは人に叱られても、黙ることなくイエスを呼び続けたのですか(48節)。あなたなら同じような状況に立たされたときどのような態度を示すと思いますか。
4.イエスがバルティマイを呼んでおられるということを知ったバルティマイの反応はどのようなものでしたか(50節)。あなたは今までの信仰生活でバルティマイと同じような気持になったことがありますか。
5.バルティマイはイエスの「何をしてほしいのか」と言う問いに何と答えましたか(51節)。
6.イエスに目を開けていただいたバルティマイはその後、どうなったと聖書は教えていますか。