2018.11.25 説教 「エルサレム入城」


聖書箇所

マルコによる福音書11章1〜11節
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説 教

1.歴史を変える入城

 今週もマルコによる福音書が伝える主イエスの物語から皆さんとともに学んで行きたいと思います。先週の週報で私はこの説教題の予告を打つ時に変換ミスをしてしまい「エルサレム入場」と記してしまいました。正確には「入場」ではなく「エルサレム入城」となります。エルサレムの都は古くからイスラエルの王の住む町であり、そこには王様が住む王宮が建てられていました。また、この町は高い城壁で囲まれた要塞都市でもあったため、このエルサレムに入ると言うことは「城に入る」と言う意味となる「入城」と書く方が正しいと言うことになります。今日のお話の中でイエスはこのエルサレムの都に子ロバに乗って入城されています。
 最近、NHKでは明治維新の立役者の一人である西郷隆盛が主役のドラマが放送されています。西郷は江戸幕府を倒すために薩摩と長州の連合軍によって構成されていた官軍の総大将となり江戸に進撃しました。当時の江戸は将軍の住む町であり、幕府の中枢が置かれた町でした。この町で官軍と幕府軍がもし戦闘を交えれば、江戸の町は壊滅的な被害を受ける可能性がありました。そこで歴史的に有名となった出来事は西郷隆盛と勝海舟の間で行われた話し合いです。この二人の会談の結果、西郷の軍は戦わずして江戸に入城し、将軍は江戸城を明け渡して出ていくことになりました。西郷の江戸入城はこれ以後の日本の歴史を大きく変える事件となったのです。
 それではイエスがエルサレムの町に入城されたと言う出来事にはどのような意味があるのでしょうか。このエルサレム入城によって世界は、また私たち一人一人の人生はどのように変わったと言えるのでしょうか。今日はこのイエスのエルサレム入城の意味を聖書の言葉から考えて見たいと思います。

2.イエスを乗せた子ロバ

 皆さんの中にもご存知の方もおられるかもしれません。日本基督教団の牧師で榎本保郎と言う人がいました。すでに天に召されて40年以上たちますが数々の説教や著書を残し、今でもこの榎本氏の書いた本はたくさんの人に読み継がれています。ただ何よりもこの人の名前を有名にしたのはクリスチャン作家の三浦綾子さんが「ちいろば牧師物語」と言う題名でこの人の生涯を小説にして取り上げたからかも知れません。だから三浦さんの小説を通してこの人の名前をはじめて知った人も多いはずです。私はこの三浦さんの書いた小説を読んだことはありませんが、榎本保郎氏自身が記した「ちいろば」と言う本を求道中に読んだ覚えがあります。大変に興味深い榎本氏の求道の記録、自伝がこの本の中に記されています。ところで、この本の題名にもなっている「ちいろば」と言う言葉は、察しのよい方ならすぐにわかると思いますが、今日の聖書の物語の中に登場するイエスをその背中にお乗せすることになった子ロバのことを意味しています。榎本氏は自分を「ちいろば」、イエスを背中にお乗せしたロバだと考えて、自分の自伝の題名としたのです。
 私たちは普段の生活ではロバとも馬とも縁遠い、そのような世界で私たちは生きています。しかし、イエスの活動されていた時代は違いました。ロバも馬も人を乗せたり、荷物を載せたりするなど、生活に欠かすことのできない身近な動物だったのです。その中でもロバは比較的貧しい人々の家庭にも飼われていて、家の作業を手伝うごくありふれた動物であったと言えます。その一方で馬はむしろ兵士を乗せて戦場に行くような役目を担う動物でした。日本の時代劇を見ても、『暴れん坊将軍』がさっそうとまたがって乗ってくるのは馬です。将軍は馬に乗るもので、ロバに乗ることはありません。ロバに乗って来る主人公はセルバンテスの描いたドン・キホーテくらいのものでしょう。ロバは馬に比べて見栄えのしない、ありふれた、見ずぼらしい動物と考えられていたのです。
 榎本氏は自分をその見ずぼらしいロバのようなものだと考えていたのです。しかし、そのロバも救い主イエスを背中にお乗せすると言う使命をいただくことで大きく変わりました。榎本氏も救い主イエスに出会い、そのイエスから伝道者としての新しい使命を与えられて自分の人生が全く変えられたことを「ちいろば」と言う本の中で語っているのです。聖書の中でこの子ロバが大切な使命を果たすことができたように、私たち一人ひとりにもイエスは大切な使命をゆだねてくださいます。自分は他の人のように豊かな才能を持っていない、取るに足りない見劣りする存在だと思っていても、イエスのために働くことができれば、どのような人の人生も最高の人生になれるのです。そのような意味でこの「子ロバ」は主イエスを信じ、従って生きようとする私たち一人一人の信仰者を象徴する動物であると言えるのです。

②私たちの命を大切にされるイエス

 福音書はイエスの命令に従って二人の弟子が村に入るとすぐに子ロバを見つけ出したと記しています。どうしてイエスは村に子ロバがつながれているのを知っていたのかよくわかりませんが、事態はイエスの語った通りに進んでいきます。弟子たちがそのロバに繋がれた綱をほどこうとすると、そこにいた人が驚いて「何をするのだ」と尋ねて来ました。二人が主イエスの言われた通りに「主がお入り用なのです」と答えるとすぐにその人たちの許しが出て、ロバを借り受けることになります。イエスの言葉には誰も逆らうことのできない不思議な力があったのでしょうか。それとも元々この子ロバの持ち主とイエスとの間に話し合いがなされていて、その通りに事態が進んでいったのかどうかはよく分かりません。ただ興味深いことにこの箇所を説明する何人かの牧師たちはこのとき語られたイエスの言葉の内容に注目しています。

 「『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3節)

 戦争中の出来事を描いたテレビドラマを見ていると召集令状(赤紙)を届けに来た人は「おめでとうございます」と言ってその書状を当人や家族に渡します。「お国のために命を懸けて働ける」と言うことが名誉だからそう言うのでしょうか。戦前はこの召集令状を受け取った人間は決して逆らうことはできません。そしてこの召集令状を受けとったたくさんの人々が戦地で命を失っていったのです。
 主イエスの召しを受けて、主イエスのために働くと言うことは確かに私たちにとって名誉なことであると言えるかもしれません。しかし、主イエスの召しは決して戦前の人々が受け取った召集令状のようなものではないと言うことが、このときイエスが語った言葉でわかるというのです。なぜならイエスは「すぐここにお返しします」と語っているからです。イエスはご自分のために働く者の命を決して粗末にされることはないのです。イエスは私たちの命を私たち以上に大切にしてくださる方だからです。そしてむしろ、イエスの働きは何よりも私たち一人一人の命を守り育むためになされるものなのです。

3.真の王イエス
①王のエルサレム入城

 このマルコと同じ物語を告げているマタイによる福音書はイエスがロバに乗ってエルサレムの町に入城された出来事を報告しながら、そのことについて次のように説明しています。

 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(21章5節)。

 マタイがここで記した言葉は旧約聖書のゼカリヤ書9章9節の言葉を引用したものです。この言葉はダビデのロバに乗ったソロモンが王となりエルサレムに入城する姿を語ったものだとされています。ゼカリヤはこの出来事と同じように、やがてエルサエムの町に新しい王が入城されることを預言したのです。この言葉からも分かるようにイエスがこのときロバに乗られたと言うことは、イエスこそ旧約聖書に約束されていた新しい王であることを意味していると言えます。
 このときイエスにここまで従って来た人々は野原から葉の付いた枝を持ってきてイエスが進もうとされる道に敷き詰めました。子ロバにのったイエスはその上を通ってエルサレムに入城されたのです。そしてイエスを迎え入れた人々は口々にこう叫んだと記されています。

 「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(9〜10節)

 人々が叫ぶ「ホサナ」と言う言葉は「救ってください」と言う意味を持った言葉です。人々はこのときイエスがダビデの子孫として来られた方、つまり自分たちの王様となるために来られた方だと考えていました。彼らはこのときイエスが自分たちのためにダビデの時代のような王国を再び建ててくださる方だと信じていたのです。
 このときの人々の考えは必ずしも正しいものではなかったことを、私たちは今まで何度かこの聖書の学びの中で確認してきました。イエスは決してダビデのような地上の王国を再建するために来られた方ではないのです。なぜなら地上に建てられた王国は永遠に続くことはないからです。実際、このイエスの時代に地中海一帯を治める巨大な力を持っていたローマ帝国が存在していました。しかしそのローマ帝国もやがて歴史の中で滅ぶこととなりました。ローマ帝国だけではなく、この地上に建てられた王国はすべて歴史の中で滅びて行っているのです。しかし、主イエスが建てる国はそのような地上の王国ではありません。主イエスの王国は永遠に滅ぶことがなく、また主イエスの王としての役割は永遠に失われることがないのです。福音書はイエスが、永遠に滅びることのない王国の王となるためにこのときエルサレムに入城されたと言っているのです。

②柔和な方イエスの戦い

 マタイの引用したゼカリヤ書の預言ではイエスを「柔和な方」と言っています。これはイエスがこの世の王とは全く違う方法でその王国を建てられることを意味しています。この世でも巨大な権力を持っている支配者は一見、人々の前で柔和そうな笑みを浮かべることがあります。しかし実はそうではありません。彼らは自分の持っている権力を維持するためには、あらゆる方法を使います。それは多くの場合冷酷な方法であり、自分に対する反対者を容赦なく抹殺しようとします。だから柔和な王の支配は、そのような冷酷なこの世の支配者たちとは全く方法が違うと聖書は語っているのです。
 私たちはよく「自分が幸せになれないのはあの人が原因だ。あのことが原因だ。それがすべてなくなったらどんなによいだろう」と考えることがあります。そして実際に私たちは自分の幸せを邪魔するものがなくなるように様々な努力を払います。しかし、それはこの世の権力者がとる方法とほとんど同じものなのです。そのような意味で私たちもこの世に君臨する小さな独裁者の一人と数えることができるのかもしれません。
 真の王であるイエスの取る方法は違います。イエスは邪魔者を排除するのではなく、その者の本来の価値を回復させることで、平和をもたらす王様なのです。それは私たち罪人に対するイエスの御業にはっきりと表されています。なぜなら、私たち一人一人もかつては神の御心に反して、むしろ神に敵対しながら生きる者であったからです。神から見れば邪魔者でしかなかったのが私たちと言う存在だったのです。神には私たちを滅ぼし、私たちに代わる新しい人間を創造することもできました。しかし、神はそうされなかったのです。神はイエスの救いの御業によって、私たち人間の本来の価値を回復させてくださったのです。そして今や私たちも神の国のために働く者ことができるものとされたのです。
 イエスの救いは邪魔な物、不都合な物を取り除くのでなく、それらのものの本来の価値を回復させ、生かすものだと言えるのです。それが「柔和な方」の取る方法なのです。この柔和なイエスの御業は私たち一人一人の人生にも実現しています。私たちにとって自分の幸せを邪魔するような存在が、実は自分の人生に本当の価値を与えるものとなるようにしてくださるからです。
 私たちは大量消費社会の中で、使い捨てが当たり前のような文化の中で育っています。私たちは物を修理して使うと言うことを忘れています。私たちの王であるイエスは、この世の人々から使い物にならない価値のないものと判断されたとしても、決してそれを捨てる方ではありません。私たちの命を大切にされ、私たちの命の本当の価値を回復させて、私たちの人生に喜びを与えてくださる方なのです。イエスのエルサレム入城はその私たちを生かすために戦いが始まったことを意味しています。私たちを滅ぼすのではなく、私たちを生かすために、主イエスは王となってエルサレムに入城されたのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちを罪と死の支配から救い出し、新しい人生に生きることができるために来られた柔和な王を心より賛美申し上げます。私たちのような罪人を滅ぼすのではなく、生きるようにするためにあなたはこのエルサレムの町で十字架にかかって命をささげられました。そのあなたの御業によって私たちも神に仕えることができるようにしてくださったことを心から感謝いたします。どうか私たち一人一人の人生も主イエスのその背中にお乗せすることができた子ロバのように用いてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがエルサレムに近づいたとき、イエスは何をされようとしましたか(1節)。
2.イエスがこのとき二人の弟子に告げた用事の内容はどのようなものでしたか(2〜3節)。
3.二人の弟子たちが実際にその村に行ってみると彼らはそこで何を見つけましたか。彼らがそこでイエスの言った通りにするとどうなりましたか(4〜6節)。
4.多くの人々がイエスの通ろうとする道に自分の服を敷き、葉の付いた枝を同じように敷きつめたのはどうしてだと思いますか(8〜10節)。
5.この後、イエスはエルサレムの神殿に入り何をされましたか。またその後で十二人の弟子たちと一緒にどこに行かれましたか。