2018.11.4 説教 「何をしてほしいのか」


聖書箇所

マルコによる福音書10章32〜45節
32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」


説 教

1.本当にそれを失くした場所で探しているか?

 ある時、道を散歩をしていると一生懸命に何かを探している人に巡り会いました。「何を探しているのですか?」と声をかけてみると「実は財布を失くしまして。さっきから探しているのですが、ちっとも見つからないのです」と言う返事が返ってきました。「それはお困りでしょう」と言って、その人と一緒に財布を探す手伝いをすることになりました。ところが、その人が言うところ丹念に探してみても、一向に財布は見つかりません。念のために「本当にここで財布を落としたのですか」とその人に確認して見ました。すると「いえいえ、ここではありません。」と言う意外な返事が返ってきました。「それでは、なぜ、失くしたところではない場所で財布を探しているのですか」と尋ねてみると、「失くした場所はちょっと薄暗くて、探すのが大変だと思ったので。あそこに比べてこちらなら、明るくて探しやすいだろうと思ったのです」と言うのです。これではいつまで経って失くした財布を見つけることは絶対にできません。失くした財布はそれを失くした場所に行って探さなければ、見つけることはできません。
 私たち人間は人生の本当の目的を見失ってしまって生きています。そしてどうすれば自分が幸せになれるかもわからなくなってしまいました。それでは私たちの人生の目的は、私たちの幸せになる方法はどこに行けば見つけ出せるのでしょうか。それを見つけ出せる場所は私たち人間を造ってくださった神のおられる場所です。そこに行って神にお聞きすればちゃんと神は正しい答えを私たちに教えてくださるのです。
 私たちの救い主イエスは人生の目的を見失い、どうしたら幸せになれるかさえ分からなくなってしまった、私たちたちのために神から遣わされた方です。だからイエスだけが正しい答えを私たちに教えてくださることができるのです。ですから、私たちはこの方の教えに耳を傾け、この方に従って生きていくなら人生の本当の目的を見出し、幸せに生きる方法を知ることができるのです。
 もし私たちがこの方の言葉に耳を傾けず、この方の後を従おうとせずに生きているならば、そして自分の持っている願いが叶うことだけを考えて生きているとしたらどうでしょうか。それは失くした場所ではないところで財布を懸命に探す愚かな人と同じだと言えます。それでは私たちは確かな人生を生きることも、幸せになることもできません。今日の物語に登場するヤコブやヨハネ、そして他のイエスの弟子たちはこれと同じような失敗を犯していたと考えることができます。

2.驚き、恐れる人々(32〜34節)

 「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)。

 ここまでイエスと弟子たちは共に旅をしながら、人々に神の国の福音を伝えて来ました。ところが、ここでエルサレムに向かって進もうとするイエスの姿を見て、今までイエスと旅を続けて来た弟子たちが「驚き」や「恐れ」を感じたと言うのです。それはエルサレムに向かおうとするイエスの顔つきが今までとは全く違ったものに見えたからではないでしょうか。なぜならこのときのイエスの旅の終着点がどこであるかを知れば、イエスの顔つきが変わった理由もわかるからです。イエスはそのことについて弟子たちに次のように語っています。

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33〜34節)。

 この旅は決して物見遊山の旅ではありませんでした。イエスはエルサレムで自分を待っている苦難、そして十字架の死という出来事に向かって旅を続けられていたのです。それを考えるとこの時のイエスの顔つきが、今までとは全く違ってしまったのも頷けるはずです。弟子たちも、イエスのエルサレム行きが相当に危険な旅であると言うことを理解していたはずです。なぜなら、ここまでイエスは当時の社会で既得権益を持っていた人々であった祭司や律法学者、そしてヘロデ王を支持する人たちとの論争に何度も巻き込まれていたからです。そのためイエスは彼らから相当の恨みを買っていたのです。エルサレムはこれらの人々の本拠地のような場所です。イエスがその場所に足を踏み入れれば彼らが黙ってはいないと言うことを弟子たちは知っていたはずです。だから、この時弟子たちもそれを思い出すことで不安を感じたのかもしれません。
 しかし、彼らが一番にこのときにしなければならなかったことは、イエスの顔を見て驚くことではありませんでした。彼らがしなければならなかったことは主イエスが何のために決心を固めてエルサレムに向かうのか、その理由を知ることだったからです。なぜならイエスの十字架の死で終わるエルサレムへの旅は弟子たちのためのものだったからです。そしてこの旅は私たちすべての人間のためでもありました。なぜならイエスは私たちを罪と死の支配から解放して、私たちを本当の命に生かすために、ご自身の命を十字架につけられるためのものだったからです。ところがこのときの弟子たちは驚いたり、恐れたりするだけで、このイエスの旅の本当の目的が自分たちのためであることを知ろうとはしませんでした。そればかりか彼らはこんな重大な時でさえも自分のことだけを考えてしまっていたことがこの物語を通して分かるのです。

3.ヤコブとヨハネの願い(35〜40節)
①ヤコブとヨハネ、そして二人の母親の願い

 その弟子たちの様子が福音書には続けてこう記されています。

「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」」(35節)。

 二人はイエスに「お願いがある」と言って近づきました。イエスはご自分がこんなに大変な時にもかかわらず、二人の言葉に耳を傾けて「何をしてほしいのか」とヤコブとヨハネに問い返しました。すると二人は自分たちの願いが何であるのかを次のように語ったのです。

 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(36節)。

 ここで「栄光をお受けになるとき」とヤコブとヨハネは語っています。おそらく彼らの言葉から考えれば、この「栄光をお受けになるとき」とはイエスがエルサレムに入場して、不思議な力を使い、そこにいる悪い奴らをすべてやっつけてくださり、その上で新しい王様になること…そんなことを彼らが想像していたことが分かります。そうなると、「イエスの右と左に座る」と言うことは、王様であるイエスの次に偉い大臣に自分たちをしてほしいと願ったと言うことになります。弟子たちはこれまでイエスに招きに応えて、自分の持っていた財産や家を捨てて従って来ていました。彼らがそれまでの犠牲を払ってイエスについて来たのは、このヤコブとヨハネの願いから考えると自分たちが高い地位に就くためであったと言うことが分かります。彼らはこの自分たちの願いを実現するためにイエスの弟子になったと言うことになるのです。実は他の福音書を読むとこの二人の願いは元々、彼らの母親の願いであったと言うことがわかります。なぜなら、マタイによる福音書はこのときイエスに願いを語ったのはヤコブとヨハネではなく、この二人の母親になっているからです(20章20〜28節)。

②自分の願いが本当にかなえられたら…

 私たちも様々な願いを持って生きています。「こうなれば自分の人生はうまくいくはずだ」。「きっとこれが手に入ったら自分は幸せになれる」とそう考えているのです。しかし意外と、その多くの願いは私たちを育ててくれた両親や他の人々から教えらたものが多いかもしれません。ヤコブとヨハネは自分たちへの母親の期待に応えるために偉くなりたいと思ったのです。同様に私たちも普段から様々な人の期待に応えられるように懸命に生きているのではないでしょうか。ところが、私たちは結局のところその人々の期待が、そして私たちの抱く願いが実際にかなったなら、自分の人生はどのようになるのかをよく知らないのです。
 イエスはヤコブとヨハネにこのとき「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と語っています。自分たちの持つ願いが自分たちの人生に本当に実現したらどうなるかを二人は知らなかったのです。だから二人はこのときのイエスの問いに簡単に「できます」と答えているのです。
 私たちが抱いている願いは本当に私たちを幸せにするものなのでしょうか。私たちが人々の期待に応えて生きたとしたら、私たちの人生は本当にうまくいくのでしょうか。実は私たちはそれが自分の人生に実現するとき自分がどのようになっているかを知らないのです。

4.僕として生きる(41〜45節)

 自分の周りにいる人々が自分の命令通りに動いたら、それはどんなに気持ちのよいことでしょうか。私たちは普段、そんなことを考えることはありませんか。少なくとも私たちは他人から命令されて、動くよりも、人に命令できる立場の方がよいと思っていないでしょうか。他人から支配されるより、他人を支配したい、この世の価値観は私たちに力を持ったリーダーになることを勧めるのです。ところがイエスはこの世の価値観とは対極にあるような価値観をここで語ります。

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」(42節)。
 それは「異邦人」つまり、神を信じない人々の持つ価値観であり、願いなのだとイエスはここで教えています。そして私たちに対して、本当の人生の生き方はそうではないと語っているのです。イエスは続けてこう教えてくださっています。

 「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43〜44節)。

 イエスは「皆に仕える者になる」こと、「すべての人の僕になる」ことを私たちに教えています。「それがあなたの人生にとって大切なことなのだ」と語るのです。私たちがこの言葉を誤解してはならないのは、人々のために誠心誠意仕えるなら人々の人気を得て、自分は偉くなれるとイエスが教えていると言うことではないことです。むしろ、この勧めは私たちとイエスとの関係をより深めるために語られていると考えてよいのです。なぜならこの関係が深まれば、私たち自身も確かな人生を歩むことができるようになるからです。
 このイエスの勧めの第一の意味は、私たちが僕となって仕えるなら、私たちが私たちの僕となって仕えてくださったイエスの愛をよく知ることができるようになるからです。私たちは言葉の上ではイエスの愛の深さを語ることができるかもしれません。しかし、その愛の深さを最も深く実感できるためには、私たち自身がイエスと同じように生きて見る必要があるのです。
 私たちは自分が親になって自分の子どものために苦労するとき、自分を懸命に育ててくれた両親の愛を深く感じることがないでしょうか。私は若い時、あまり模範的な教会員ではありませんでした。そんな私を何も言わずに黙って見守る牧師を見て、私は普段から何か物足りなさを感じていました。だから私はその牧師にときには怒りに似た感情をぶつけることがありました。それでもその牧師は私を見放すことなく、隠れたところで私のために祈り続けてくれました。私は今、同じ牧師としての働きをし、教会でいろいろな問題にぶつかるとき、私を懸命に育てようとしてくれたその牧師の忍耐と愛を改めて感じることができるのです。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。

 私たちのために命を献げるためにやってきてくださったイエスの愛を実感するためには、私たち自身もイエスと同じように生きることが必要になって来るのです。
 そして人々に仕え僕となって生きる生き方の第二の意味は、私たち自身が私とともに今も生きてくださっているイエスの力を体験することにあります。
 私たちの人生で人に仕えること、僕となって生きると言うことは決して安易な道ではありません。いえ、本来私たちは少しでも人の上に立ちたい、人を自分に従わせたいと願って生きています。だから私たちが人に仕えること、僕となることはほとんど自分の力では不可能なことなのです。そんな私たちがこのイエスの言葉に従って、生きることができたとしたら、それは本当に奇跡であると言ってよいかもしれません。イエスはそんな奇跡を私たちの人生の上にも実現してくださるとここで約束してくださっているのです。
 私たちが本当の人生の目的を見出し、喜びを持って生きるためにイエスは私たち一人一人を招いてくださっています。私たちはこのイエスの招きに耳を傾けようとしているでしょうか。それとも自分が長い間抱き続けている願いがかなわないと言って、不満や嘆きを感じているでしょうか。その私たちの願いが本当に実現するとき私たちは幸せになれるでしょうか。私たちがすべきことは私たちの人生を導くイエスのみ言葉に耳を傾けることです。そして、イエスの招きに応えて彼に従うことです。そうすれば私たちは神に祝福された確かな人生を歩むことができるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちは自分のためと考え様々な願いを持って生きています。そして私たちはその願いが実現したらどんなに自分の人生はよくなるだろうかと勝手に思い込んで生きています。しかし、私たちはその願いが本当に実現したら自分がどのようになるのかさえ知らないのです。あなたはそのような私たちをよくご存じの上で、私たちのためにイエス・キリストを遣わしてくださいました。どうか私たちがこのイエスの言葉に耳を傾け、そのイエスに従って生きることで、私たちの人生に隠されたあなたの本当の祝福を味わうことができるようにしてください
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときのイエスのエルサレム行きの旅の目的は何でしたか。どうして弟子たちは先頭に立って歩むイエスの姿を見て「驚き」、「恐れた」のですか(32、33〜34節)。
2.このとき弟子のヤコブとヨハネはどんな願いをイエスに語りましたか。彼らはこの願いが本当に実現したら自分たちがどうなるかを知っていましたか(35〜40節)
3.イエスはこのとき弟子たちにどのように生きる道を示されましたか。この生き方は世が教える価値観とどのように違っていますか(42〜45節)。
4.あなたはイエスの言葉に従って生きることで、イエスの愛を感じ、イエスがともに生きてくださっていることを実感したことがありますか。