2018.12.2 説教 「いちじくの木を呪う」
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聖書箇所
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マルコによる福音書11章12〜13節
12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
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説 教 |
1.不思議なイエスの御業
①呪いを受けたいちじくの木
神の御子としてこの地上に来られたイエスには素晴らしい力があったことを福音書は私たちに報告しています。特にイエスはその力を用いて病に苦しむ人や、悪霊に苦しめられている人を助けられました。また、お腹を空かせていた五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚を使って満腹にされたこともありました。さらに、嵐に会って苦しんでいた弟子たちのためにガリラヤ湖の嵐を静められると言う奇跡も行われています。また、イエスがこの湖の上を歩いて弟子たちの乗っている舟に近づいて来られたことも有名です。このときは、イエスの力によって弟子のペトロも湖の上を歩くことができたと言うお話もおまけのように語られています。福音書が記すイエスの力を示す奇跡物語は他にもたくさんあって、ここでそれを一つ一つ説明していると礼拝の時間がなくなってしまうでしょう。
そんなイエスの驚くべき力を示す御業の中で今日の物語は異色を放っていると言っていいような内容を伝えています。今日のこの説教の題名を「いちじくの木を呪う」と記したところ、看板を書く奉仕者から「「呪う」と言う言葉はよくないのではないか」と言う意見を聞かされました。確かに「呪う」と言う言葉は私たちの日常ではあまり良い意味で用いられることはありません。また聖書ではこの「呪う」と言う言葉は主にイエスに充てて用いられることが多いと言えます。なぜなら、イエスは救い主として十字架につけられて死なれたからです。聖書には「木にかけられた者は呪われた者」と言う言葉があります(申命記21章23節)。この場合イエスは誰かを呪うのでなく、私たちのために代わりに呪いを受けて下さり、十字架で死なれたと言うことを表しています。イエスが私たちに代わって呪われることで、私たちは罪と死の呪いから解放されたと聖書は教えているのです。
ところが今日の物語では、イエスは呪いの被害者ではなく、呪いをかける加害者となっています。さらに、ここで呪われているのは人間ではありません。一本のいちじくの木です。どうしてイエスはいちじくの木を呪ったのでしょうか。いちじくの木に呪いを受けるべきどんな落度があったと言うのでしょうか。今日はこの不思議な物語から少し皆さんとともに考えて見たいと思います。
②イエスの力によって枯れたいちじくの木
物語はイエスのエルサレム入城の後に起こりました。そしてこの物語の数日後、イエスはエルサレムの町で十字架にかけられことになります。ですから今日の物語は、何気ない日常の一コマを描くと言うよりは、明らかにイエスの十字架への歩みと言う出来事の中で起こったものであることを示しています。イエスはこの最も大切な時期に、大切な時間を使ってこの出来事を行われたのです。
イエスはエルサレムに入城された後も、エルサレムの町に宿泊するのではなく、少し離れたベタニアと言う小さな村に滞在されていたと考えられています。このベタニア村にはマルタとマリアの姉妹とその弟であるラザロの住む家がありました。さらにはイエスを食事に招いた「らい病人シモン」の家もここにあったと報告されています。彼らは皆、イエスと親しい間柄にあった人々でした。だからイエスはこの村に滞在されながら神殿の建つエルサレムの町に毎日通われていたのです。そして今日の物語はこのベタニアからエルサレムの町に行く途中の道で起こっています。
「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった」(12〜13節)。
イエスが空腹を覚えられたとき、たまたま近くにいちじくの木が生えていることに気づきます。その木を見ると葉は青々と茂っています。そこでイエスは近づいて自分の空腹を満たすことのできるいちじくの実が実っていないかどうかを調べられたのです。すると、残念ながらイエスは一つもいちじくの実をその木から見つけることができなかったと言うのです。それもそのはずです、福音書はその理由をここではっきりと記しています。「いちじくの季節ではなかったからである」(13節)と。現在は温室栽培や様々な農業技術の発展で一年中、自分の食べたい果物がお店に並べられています。しかし、昔はそうではありませんでした。それぞれの果物には収穫の時期が定まっています。いちじくも同じです。おそらくこの物語が起こったのは春先の出来事であったと考えられています。そしていちじくの実の収穫時期は夏です。だから、いちじくの木が実っていないのは当たり前なのです。それなのにイエスはそのいちじくの木に向かってわざわざこう語りかけたと言うのです。
「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)。
イエスは実をつけていないいちじくの木に呪いの言葉をかけられたと言うのです。おそらく、この物語を単純に読めば季節ではない時期にいちじくの実が実っていないからと期待し、その期待を裏切られると呪いをかけると言うイエスの方が身勝手さが目立ちます。その一方でいちじくの木はかわいそうな被害者のように読むことができるのです。
調べてみるとイエスや弟子たちの活動の拠点であったガリラヤ地方では温暖な気候ために真冬以外の季節にいちじくの木が実をつけることがあったと説明されています。しかし、イエスがこのとき滞在していたエルサレムはガリラヤの気候とは違い、いちじくは6月ごろにだけ実を結ぶのだったようです。だからイエスは故郷のガリラヤの感覚でいちじくの木に近づいたのに、エルサレムに生えたいちじくの木で実を見つけることができなかった、だから期待を裏切られたと感じ、このような態度をいちじくの木に表したと考えることができます。
このいちじくの木がどうなったかは、福音書にはこの後で弟子たちが「あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た」(20節)と記されていることで分かります。いちじくの木はイエスの言葉通りに枯れてしまって、その木からいちじくの実を食べることはそれ以後、誰もできなくなってしまったのです。
最初に申しましたようにイエスの行われた奇跡は他にもたくさんあります。そしてイエスは単に自分の力を人々に示すために奇跡を行われることはありませんでした。むしろ、イエスが行われた奇跡のほとんどはその力を必要としている人たちを助けるためのものであったのです。そしてこれとは逆にイエスはご自分のためだけに奇跡を行われることもありませんでした。荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたときもイエスはご自分のためにその力を使うことはなかったのです。さらにイエスは十字架の上においても同じ姿勢を貫かれました。神の御子であるイエスであればその力を使って十字架刑からご自分を救うことがおできになったはずです。しかし、イエスはそれをなさらなかったのです。それなのにそのイエスが「いちじくの木を呪う」ために自分の大切な力を使われたと言うことはいったいどのような意味を持っているのでしょうか。
2.イエスは何をしたかったのか
聖書を読むと先ほども触れましたが、次の日に弟子たちはイエスが呪ったいちじくの木が根元から枯れてしまっていることを発見しています。そこで不思議に思ったペトロはイエスに次のように語ったと福音書は記録しています。
「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」(21節)
するとイエスはこのペトロに次のように答えたと言うのです。
「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(22〜23節)
このイエスの言葉は私たちが何も疑わずに神に祈ればその通りのことが実現すると言うことを語っています。イエスは驚くべき御業を数多く表されましたが、そのイエスの力の秘訣は少しも疑わずに祈ったことにあると言っているようにもこの言葉は聞こえます。だから、私たちも同じようにすればイエスと同じような奇跡を行うことができると考えることができます。そのようにイエスは私たちに疑わずに神に祈れと教えているのです。
少しも疑わずに信じれば何でもできる、その身近な実例としていちじくの木の出来事が起こった。確かにこのペトロとの会話からはいちじくの木をイエスが呪った意味がそこにあったと読むこともできます。しかし、祈りの力を示す実例として「いちじくの木を呪う」と言うのはどうもよい方法ではないように思えてなりません。何よりもこんな実例がイエスによって示されれば、この言葉を聞いた人の中には祈りによって人を呪うと言うことも許されると考える人も現れるかもしれません。これではやはり、イエスがいちじの木をわざわざ呪われた意味が分からないのです。
3.葉の茂ったいちじくの木の正体
この箇所を説教する多くの牧師たちの文章を読んでみるとこの「いちじくの木を呪う」という物語と次に続くイエスが「神殿から商人を追い出す」と言う物語をつなげて語っていることを分かります。実はこれがキリスト教会の中で採用されてきた伝統的ないちじくの木を呪う物語の解釈であると言えるのです。
この当時のエルサレム神殿はイエスのクリスマス物語の中にも登場するヘロデ大王が建設したものでした。ヘロデは自分の権威を人々に示すために特に費用と時間をかけてこの神殿を建設しました。その神殿の中では祭司たちがさまざま儀式を行っていました。そしてこの儀式を行うためにはいろいろな品物が必要となり、その品物を提供していたのが神殿で働く商人たちだったのです。
私は子どものときに毎年、父に連れられて訪れた成田山の光景を今でも思い出します。たくさんの参拝客が訪れる成田山の参道には様々な店が並んでいました。エルサレム神殿の光景は私が子どものころに見た成田山の光景とは違うのかもしれません。しかし、イエスはこのエルサレム神殿の光景をご覧になられて次のように語られたのです。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」(17節)。豪華な神殿の建物、そこで行われている荘厳な祭司たちの儀式、それらは人の目から見れば目を見張るような華やかなものであったのかも知れません。しかし、イエスはこの神殿が今はもはや本当の目的を果たせなくなってしまっていることを指摘されたのです。神殿は私たちと神との出会いの場所です。しかし、実際の神殿はその目的を見失ってしまっていたことをイエスは見抜かれたのです。
この神殿と今日の物語に登場する実を結ばないいちじくの木には共通点があります。なぜなら、イエスのご覧になられたいちじくの木には緑の葉が茂っていたと記されているからです。その木は見かけはとても立派だったのです。しかし、近づいてみると肝心の実は一つも実っていないのです。エルサレムの神殿もこのいちじくの木と同じです。見かけはとても立派なのです。そこには毎日たくさんの参拝客が訪れていました。しかし、この神殿はもはや本来の役目をすっかり忘れてしまっていました。だから神殿は実を結ばないいちじくの木と同じであると言えるのです。
このエルサレム神殿はこの後、紀元70年に起こったユダヤ人たちの武装蜂起を鎮圧するために派遣されたローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいました。エルサレムには今でもこの神殿の名残を残す壁の一部が存在していますが、これ以後神殿が再建されることを決してありませんでした。エルサレム神殿は根元から枯れてしまったいちじくと同じ運命をたどったと言えるのです。そう考えるとこのいちじくの木の物語はエルサレム神殿の将来を予言する物語としても読むことができるのです。
4.実を結ぶ信仰生活
エルサレム神殿はすでに存在していません。しかし私たちが神と出会い、私たちが神に祈りを献げることのできる場所は私たちにも与えられています。なぜなら私たちにとっての教会生活は、このエルサレム神殿と同じような役目を果たしているからです。教会は私たちと神との出会いの場として提供されているのです。今日の物語は、私たちがこの教会生活を反省するためにも語られています。私たちは教会生活を神との出会いの場所にしているのでしょうか。その教会生活を通して私たちは豊かな実を結ぶことができているのでしょうか。「私たちの信仰生活は一見、葉は茂っているように見えても、実を一つもつけていないいちじくの木と同じになっているのではないか」とこの物語は私たちにも警告していると言えるのです。
先日、たまった書類の整理をしていて昔、三郷教会で働いていたCRCのバズウェル宣教師がずいぶん前に書いた信徒訓練のためのテキストを見つけました。それに目を通して見ると、そのテキストの最初はこんな質問で始まっていました。「あなたはクリスチャンとして本当に自分が成長したいと願っていますか?」。私はこの質問を読んで少しドキッとしてしまいました。なぜなら、私はこの質問に「はい」と素直に答えることができないのではないかと思ったからです。私たちは信仰生活を長く続けているとどこかで「これがわたしだ…。これ以上どうにもならない。もう成長の余地はない」と諦めてしまうようなことはないでしょうか。私たちはどこかで自分が実を結ぶ信仰生活を送れることを諦めてしまう傾向があるのです。
聖書によればイエスは私たちに「自分に繋がっているならば誰でも、そしていつでも豊かに実を結ぶことができる」と約束してくださっているのです(ヨハネ15章5節)。だから、このイエスの言葉に従えば、私たちがどんなに年をとったとしても、私たちがどんなに過去に失敗を繰り返す経験をして来たとしても、「もう実を結べない」と言うことは絶対に無いのです。もし私たちが自分の信仰生活で豊かな実を結びたいと願い、私たちがイエスに繋がっていれば、私たちはいつでも豊かな実を結ぶことができるからです。私たちはこのイエスの言葉を信じれば、いつでも成長することができるのです。もう遅すぎると言うことは決してありません。
ですからイエスの言葉を信じて、イエスに繋がって生きようとする者は決して実を結ばないいちじくの木のようになることはありません。イエスはいつでも私たちを通して豊かな実りをもたらそうと望んでおられるからです。肝心なのは私たちがいつもイエスに繋がって生きることです。私たちが自分に決して諦めることなくイエスに繋がって生きていくなら、私たちは豊かな実を結ぶ信仰生活をこれからも送ることができるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
いつも礼拝で語られるみ言葉を通して私たちと出会い、私たちを導いてくださるあなたに心から感謝いたします。たとえ私たちの今までの信仰生活が心配の連続のように思えても、あなたに繋がる者の信仰生活をあなたは決して無意味なものとはされません。私たちの人生の様々な状況を通して私たちの生活に豊かな実を実らせてくださいます。どうか私たちがそのためにあなたのみ言葉にとどまり、あなたを信じて、教会生活を送ることができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスはベタニア村からエルサレムに向かう途中で、どのようになられましたか(12節)。そこでイエスは何を見つけられましたか(13節)。
2.イエスが見つけたいちじくの木に実がなっていなかったのはどうしてですか(13節)。
3.イエスはこのいちじくの木に向かって何と言われましたか(14節)。翌朝、弟子たちはこのいちじくの木がどのようになっていることを発見しましたか(20節)。
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