2018.12.30 説教 「祈りの力」
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聖書箇所
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マルコによる福音書11章20〜25節
20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」26 (†底本に節が欠落 異本訳)もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。
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説 教 |
1.枯れたいちじく
もうだいぶ年月が流れましたが、私が青森での働きをやめて、関東のとある教会で奉仕を始めたときのお話です。とにかくその教会で何をしていいのか分からなかった私は一人の教会役員にこう尋ねました。「私はここで何をすればよいのでしょうか。教会の皆さんは私にどのような奉仕を期待されているのでしょうか」と…。するとその役員はすぐに「何もしなくてよいですよ」と一言で言われたのでとてもびっくりしてしまったことを思い出します。「何もしなくても」と言われても、せっかくその教会の牧師として働くのですから、自分がそこで何ができるかを色々と考えて見ました。すると、その教会の前任者の牧時夫人はとても植物がお好きだったようで、教会の周りの花壇にはきれいなお花がたくさん植えられていました。また会堂の中にもいろいろな観葉植物の鉢が並べられていたのです。そこで私の任務はまず、これらの植物をお世話することなのだと考え、それから毎日、教会に出勤するとすぐに植物の水やりを始めました。ところが、私は植物に関して全くの素人でしたので、どうもうまくいきません。すべての植物が少しずつ元気を失っていくのです。私は水が足りないと思い、さらに水やりを丁寧にしました。すると、間もなく教会のほとんどの植物が枯れて全滅するという事件が起こったのです。どうも、水のやりすぎのために、植物が根腐れや病気になってしまったようなのです。結局、私の働きによって花々の美しかった教会があっという間に殺風景な建物に変わってしまったのです。
私たちが今日学ぶお話は少し前にこの礼拝で取り上げたいちじくの木が枯れた出来事の続きとなっています。いちじくの木がなぜ枯れてしまったのでしょうか。それは世話をする人が手を抜いたからではありません。イエスがこのいちじくの木を呪われたから、この木は一晩で枯れてしまったのです。つまり、このいちじの木はイエスの不思議な力によって枯らされたと言えるのです(12〜14節)。
この出来事の起こった翌朝、イエスと弟子たちは同じ場所を通りかかります。すると弟子たちはそこで気づいたのです。前日まで、青々とした葉を茂らせていたいちじくの木が根元からすっかり枯れてしまっている姿をです。ペトロは前日、イエスがこのいちじくの木に向かって呪いの言葉を語るのを聞いていましたから、彼はここでそのことを思い出しました。だからペトロはイエスにこう告げたのです。
「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」(21節)
いちじくの木が枯れたのはイエスの力であるということを弟子たちは知っていました。ですからこの言葉は弟子たちが一晩にしていちじくの木を枯らしてしまったイエスの力に驚いたことを表しているのです。この自然の力をも変えてしまうイエスの御業に驚く弟子たちに、イエスは「驚くことはない信仰と祈りの力があれはこんなことを起こすことは簡単です」と弟子たちに語るのです。私たちは今日の箇所のイエスの言葉を読むと、私たちの信仰と祈りこそが、私たちが神から罪を赦されるという福音の出来事と深く結びついていることが分かります。
2.信じる者には何でもできる
①疑わずに信じる
イエスはいちじくの木が枯れてしまったと言う出来事に驚く弟子たちにこのように語り掛けられます。
「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(22〜23節)
昔、予想を超える国政選挙の結果で勝利したある党の党首が「山が動いた」と言う言葉を語ったことがあります。もっとも今の若者はそんな昔の出来事は知らないかもしれません。「山が動く」というのは人間の頭で考えればほとんど不可能なことです。ですからその「山が動く」と言う言葉は、不可能を可能にする出来事が起こったと言う意味を持っています。
イエスは弟子たちに信仰さえあれば不可能なことは何もないとここで語っておられるのです。信仰があれば山だってその人の命令に従って海に飛び込むことができると言うのです。しかし、そこには厳しい条件が続けて語られています。「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」。
信仰さえあれば医者にかからなくても病気は治ると主張する人たちがキリスト教会の一部に存在します。以前、私の知り合いもその影響を受けて、病気のときに懸命に祈ったと言っていました。ところがやがて彼は、その祈りを止めて病気になったらすぐに医者にかかったり、薬を飲む方法に転向したと言うのです。なぜ、そうなったのかを彼は私にこう説明してくれました。「病気のときに懸命に祈っても、なかなかなそれが治らないときに。ああ、やっぱり、自分の信仰は完璧じゃないからだ。どこかで疑いがあるから自分の祈りは神さまに聞かれないのだ。そう思ってがっかりしてしまうためだ」と言うのです。
これはキリスト教の話ではありませんが、別の人からこんな話を聞いたこともあります。親戚の人ががんになって苦しんでいると、新興宗教の人たちがやってきて「信仰を持てば治る」と勧誘してきました。その親戚の人はその人たちに説得されて信者となったと言うのです。ところが、しばらくしてその親戚の人は信仰の甲斐なく、がんが治らないまま死んでしまったと言うのです。だからその人はその新興宗教団体のメンバーに「どうして私の親戚は信者になったのに、あなたたちの言うように治らなかったのですか」と尋ねたと言うのです。するとその団体のメンバーは一言、「あの人の信仰が足りなかったのです」と答えたと言うのです。それでこの話をしてくれた人は、それ以来と言うもの宗教アレルギーになってしまったと言っていました。
私たちはこれらのお話を全くの他人に起こった出来事として聞くことができるでしょうか。おそらく、私たちは信仰について、あるいは祈りについて同様な疑問を持ったことがあるのではないでしょうか。なぜなら、イエスがここで言うように「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じる」ことは私たちには不可能だからです。そう考えると、この箇所のイエスの言葉は完璧な信仰を持っておられたイエス以外には通用しないものと言うことになってしまいます。
②実現するのは神の御心
しかし、ここで私たちは一つのことについてもう一度考え直してみる必要があります。そもそも私たちの信仰は、また私たちが神に献げる祈りは、私たちの思い通りのことを実際に実現させるために与えられているのでしょうか。信仰や祈りがそのようなことをするために神から私たちに与えられているのではないことは、この言葉を語ったイエスの生き方を見ても明らかではないでしょうか。イエスがその熱心な祈りにおいてまず求めてものは、父なる神の御心が実現することでした。イエスはこの地上に神の御心が実現することをいつも求めて生きられたのです。だから、荒れ野の誘惑のときには空腹な自分のために祈って石をパンに替えなさいと言う悪魔の誘惑も答えることはなかったのです。
どんなに私たちに力があって不可能なことを可能にする力があったとしても、それだけでは意味がないことをこのイエスの姿勢は私たちに明らかにしています。だから大切なのはこの地上に、そして私たちの人生に神の御心が実現することなのです。だからある聖書解釈者はこの部分の解説をしながら「もし、それが神の御心であるならば、不可能なことでも可能となる。だから私たちの信仰と祈りによって実現するのは神の御心である」と述べています。
確かに信仰の力、そして祈りの力は私たちの持つ常識では考えられない力を持っていると言えるかも知れません。それが神の御心であるならば、人間的に不可能と見えるものでも、可能となり得るからです。
しかし、ここでまたもう一つの問題が私たちには残されているのかも知れません。なぜなら、私たちが自分の信仰生活や祈りの生活で「神の御心」と言う言葉を語るとき、どうもその言葉が自分の願いを諦めるキーワードのように使われてしまうことがあると言うことです。例えば私たちは懸命に祈ってもその祈りに自分の思った通りの答えが与えられないとき、「これは神さまの御心ではなかった」と思うことはないでしょうか。確かにここまでは正しい信仰的な理解であると言えるかもしれません。しかし、その後、私たちはどこかでガッカリとした気持ちを抱き、あきらめの状態に陥ってしまうことはないでしょうか。イエスは父なる神の御心を求めて生きるとき、諦めたり、がっかりしてしまうことはありませんでした。むしろ、彼は父なる神の御心を、祈りの中で知らされたとき喜びを持ってそれを受け入れ、その御心に従って生きようとされたのです。
私たちは信仰の力、祈りの力を私たちに教えてくださったイエスの言葉の意味をもう一度考え直す必要があると思うのです。信仰によって山も海に移ると言う言葉の背後には、山のように動かない私たちに自身の古い性格、古い生き方があります。神の御心よりも、自分の思いを優先し、神の御心が実現することを喜ぶことができない私たちがいます。「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば」と言われても、そんなことは不可能だと思ってしまう私たちがいるのではないでしょうか。その私たちを変えてくださるのが神の御業なのです。私たちが信じるならば、私たちが祈り続けるならば私たちが変えられる、これこそが神が私たちに与えてくださる信仰の力、祈りの力だと言えるのです。
ある男が「奇跡が起こる村がある」と言ううわさを耳にしました。好奇心を抱いた彼は苦労してその噂の村を見つけ出すことができたのです。その村についた男は、最初に会った村人に早速尋ねてみました。「すみません。ここは奇跡が起こると有名なあの村ですか」。すると村人は答えました。「本当ですよ。でもあなたはもしかしたら、奇跡とは自分の思った通りのことが実現することだと思っていませんか。ところが、この村で起こっている奇跡は違います。この村で起こっている奇跡は、誰もが自分の人生に神の御心が実現することを何よりの喜びと感じて生きるようになると言う奇跡です。この村ではそんな奇跡がいろいろなところで起こり続けています」と。
3.兄弟を赦せない
①福沢諭吉の反省
信仰や祈りの力を語るイエスの言葉は最後にその力が「赦し」と言う出来事に関係していることを示しています。
「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(25節)
私たちの信仰や祈りの生活にとって最も大切なことは人を赦すことだとイエスはここで教えておられるのです。なぜなら、私たち自身の罪が神によって赦されることが、私たちが他人の罪を赦すことと深くつながっているからです。
今ではすっかり一万円札の肖像の人物として有名な福沢諭吉は若い頃、大阪にあった適塾と言う蘭学者緒方洪庵が作った学校に通っていました。福沢はこの塾で懸命に勉学を続けて頭角を現しますが、一人だけ橋本左内と言う人物にはどうしても彼はかないませんでした。あるとき福沢はこの橋本が夜になるとこっそりと宿舎を出て行って、酒の匂いを漂わせて帰ってくることに気づきました。福沢は完璧のように思えた橋本もきっと夜遊びをして気を紛らわしているに違いないと考えます。これで橋本の弱みを握ることができたと考えた福沢は次に橋本が出かけるときに、こっそりと彼の後を追いました。確かに橋本は福沢の思った通り町の歓楽街に足を向けて行きます。ところが橋本はその歓楽街で足を止めることはありませんでした。橋本はなおも歩き続け、町はずれにあった橋のたもとに降りていったと言うのです。福沢はそこで橋本が貧しい人々を無料で診察しているところを目撃します。橋本の漂わせていた酒の匂いは、彼が診察の際に用いていたアルコールの匂いだったのです。この後、福沢は自分が橋本を疑ったことを悔いて、こう反省の言葉を述べています。「私はあのとき橋本は必ず夜遊びをしているはずだと考えた。しかし、それは自分の願望を橋本に映して見ていただけだった。だから、あのとき本当に遊びたいと思っていたのは自分自身だったのだ」と…。
②私たちを変えてくださる神
私たちはなぜ他人を疑うのでしょうか。なぜその他人を赦すことができないのでしょう。その問題の背後には自分自身が抱える問題があるからです。人を赦すことができないのは、自分が本当に神から無償で罪が赦されているということを確信できないからなのです。私たちがもし「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じる」と言うイエスの言葉を聞いて、懸命になって自分の信仰生活に励んでいるならば、どうでしょうか。私たちは同じような努力をしていない人を見て赦せるでしょうか。そうはできないはずです。
しかし、もし私たちが自分の罪を神から無償で赦されたという確信があるならば、それは私たちの信仰の力、祈りの力となって行くはずなのです。この赦しの問題一つを考えてみても、まず私たちにわかって来ることは、私たち自身が信仰によって、祈りによって神から変えていただかなければならないと言う現実です。神の御心が実現することを喜び、神に罪を赦されたことを確信して生きる信仰者に変えていただくことをイエスは、まず私たちに求めています。確かにそれは私たちの力では不可能です。しかし、神は私たちの信仰を用いて、また祈りを用いて、この不可能を可能にしてくださるとここで教えてくださっているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちに信仰を与え、あなたに親しく祈りをささげることのできる特権をお与えくださりありがとうございます。自分の古い考え方や性質になじんでいる私たちはあなたから与えられた信仰と祈りの力を忘れてしまう愚かな者たちです。どうか、聖霊をもって私たちの信仰を強め、あなたに対して熱心に祈りを献げることができるようにしてください。私たちがあなたの御心が実現することを願いもとめ、何よりも兄弟姉妹とお互いを赦し合って生きる信仰生活を送ることができるように私たちを助けてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスが神殿から商人たちを追い出した出来事の翌朝、弟子たちは道で何を見ましたか(20節)。
2.ペトロはこのいちじくの木を見て何も思い出しましたか(12〜14節)。そしてイエスに何と言いましたか(21節)。
3.イエスはこの出来事を通してペトロたちに信仰について何を教えられましたか(22節)。
4.あなたは神に必死に祈り求めても、その通りの答えを得られなかったときにどんな気持ちになりますか。ここでのイエスの言葉を考えながら、もう一度私たちの祈りの生活について考えて見ましょう。
5.イエスは私たちが神に祈りを献げるためには、まず私たちが何をすることが大切だと教えていますか(25節)。
6.あなたは自分が恨んでいる他人を赦すことができますか。それがもしできないとしたら、その原因はどこにあると思いますか。
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