2018.12.16 説教 「祈りの家」
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聖書箇所
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マルコによる福音書11章15〜19節
15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
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説 教 |
1.改革派教会の礼拝改革
①説教演習の思い出
以前にも何度か皆さんにお話ししたことがあると思いますが、私が卒業した神戸改革派神学校では『説教演習』と言って、学生にとってはとても気の重い授業がありました。この授業では実際に学生が予め指定された聖書箇所に基づいて説教を作成します。そしてその説教を神学校の教師や生徒の前で話すのです。私がこの授業が「とても気が重い」と言ったのは、この時間に説教を語る神学生は厳しい批評を何人もの教師から受けなければならないからです。説教の内容はもちろんのこと、説教をする人がどのよう所作をするかまでビデオテープに取り、それを再生しながら確かめられるのです。神学校の教師は私たちに「君たちが実際に牧師になって教会で説教をするようになると、誰も君たちの説教にはっきり文句を言う人はいない。ただ黙って教会を去るだけだ。だから今、説教演習を受ける必要がある」と言うのです。そう言われても、説教演習を喜んで受ける学生は誰もいません。むしろ、この演習を受けた後、私たちは軽いノイローゼになることが多かったように思えます。
私はこの説教演習の席で一人の先生からこう言われたことを覚えています。「背広のポケットにボールペンや万年筆などを何本も入れているのはよくない。聴衆の心が説教に集中できるように、説教者は目立つような服装やアクセサリーをつけるのを避けるべきだ」と。背広のポケットに入ったボールペンの数まで批評されるのですから、私もたまったものではありません。「説教者は聖書のメッセージを忠実に伝えることに全身全霊を注ぐべきであって、それ以外のところに関心を持ってはならない」と言うのが改革派神学校の教師が学生に求める姿勢でした。だから説教中に気の利いた冗談など語ろうとしたら「説教の中で人を笑わすなどけしからん」と厳しいお叱りを受けることが当たり前だったのです。
②聖書が教える通りに礼拝を献げる
ひと昔前の日本の改革派の教会では礼拝堂の中にお花を飾ることも好ましくないと考えられていました。もともと宗教改革以前のカトリック教会には絵画や聖像など様々な飾り物が満ちあふれていました。そこで宗教改革者たちはそれらのものを教会から取り除くことに心を傾けたと言われています。宗教改革を行った中心的な二つのグループは私たちの改革派ともう一つはルーテル派です。実はこの二つのグループの行った改革の原則は少し違っていました。改革派教会は聖書に教えられている方法で神を礼拝するべきだと主張し、聖書に教えられていないものはすべて排除しようとしました。しかし、もう一方のルター派の人々は聖書に禁じられていることはしてはならないと主張しました。つまり、ルター派の場合には聖書には禁じられていなが、聖書に教えらえてもいない方法、つまりグレーゾーンをそのまま教会の礼拝の中に残したのです。この結果、私たちの改革派教会より、ルター派教会の方が、よりカトリックの礼拝に近いものになっています。私は求道中にルター派の教会の礼拝に通いましたが、その教会には祭壇があり、説教者は祭壇の横に立って会衆に説教を語ります。しかし、この教会もそうですが、改革派教会には祭壇はありません。その代わり教会の中心には神のみ言葉が語られる説教壇が置かれているのです。改革派の礼拝では神のみ言葉である聖書が重要視され、それ以外のものは余計なものと考えられ排除される伝統があるのです。
2.商売人を追い出すイエス
①イエスの強い怒り
先週は伝道礼拝を献げました。ですから一週間の間を置いて今日は再びマルコによる福音書の学びに戻ります。前回は「いちじの木を呪う」というある意味で普段のイエスの姿には似つかわしくない物語を学びました。その際、このいちじくの木の物語はそれに続く神殿でイエスが商人を追い出した出来事に関係していると言うことを学んだと思います。イエスの活動されていた時代のエルサレム神殿はヘロデ大王によって長い時間をかけて改築されたものでした。言い伝えによれば当時の神殿の壁には金箔が塗られているようなたいへん豪華なものであったようです。ところが、その神殿で行われている儀式は真の信仰を伴わない形ばかりのものだったのです。それが葉は豊かに茂っているが、一つも実もつけていないいちじくの木のイメージによく似ていたことを前回のお話で指摘しました。今日はこの神殿でイエスが商人たちを追い出したと言う出来事からさらに学びたいと思っています。
ここで神殿にやって来られたイエスは、神殿の境内で商売をする人々を実力行動で追い出しました。イエスは彼らの誤りを冷静に諭すと言うのでなく、暴力的ともいえる行動でそれを行ったのです。この物語も前回のいちじくの物語同様に、普段のイエスの姿から想像できないような出来事が記されているのです。このときのイエスの怒りはそれほど、強いものであったことがこの行動から推測されます。それではどうして、イエスは神殿の商人たちにそれほどまでに強い怒りを感じられたのでしょうか。
②神殿で働く商売人たち
まず、ここに登場する商人たちは観光客に土産物や食事を提供するために働いていたのではありません。このエルサレムの神殿では律法に従って神を礼拝する儀式が繰り返し執り行われていました。ここに登場する人々はこの儀式を行うために必要なものを神殿に来た参拝客に提供する働きをしていました。このエルサレム神殿での礼拝では祭司たちによって動物犠牲、牛や羊が献げられていました。本来これらの生贄は参拝者たちが自分で育て、家から連れて来て神殿に献げるものでした。しかし動物をつれて遠いエルサレムまで旅をすることはたいへん困難でしたから、エルサレムで動物を購入する方が旅の手間を軽減することができるのです。さらに、この動物犠牲は神殿で働く祭司たちによって、生贄に献げるためにふさわしいものかどうかを調べられました。この検査でパスできないとせっかく動物を家からここまで連れて来ても無意味になってしまうのです。その点、神殿の中で売られている動物は最初から祭司たちのお墨付きがついていますから、祭司たちに拒否される可能性はありません。そんな訳で、イエスの時代には動物犠牲はすべてこの神殿の中で購入することになってしまっていたのです。
イエスは「両替人の台やハトを売る者の腰掛をひっくり返された」(15節)と言われています。ユダヤ人は皆毎年、神殿に一定の税金を納めることが義務付けられていました。ところがこの当時イスラエルで流通していたローマ帝国の貨幣には皇帝の顔が刻印されていて、神殿の祭司はこの貨幣を神殿に納めることを許しませんでした。ですから、その税金を納めるためには神殿で古いユダヤやフェニキアの発行した貨幣に取り換える必要がありました。神殿の両替人はその貨幣を交換することで一定の利益を得ていたのです。また、鳩は牛や羊と言った動物を献げることのできない貧しい人々が献げたものでした。商売人はその貧しい人に鳩を売ることでも収益をあげていたのです。
神殿では誰もが自由に商売をすることはできません。その神殿を管理する祭司たちが許可しなければここで商売をすることはできません。そこでここで働く、商売人たちは神殿の祭司自身であったり、祭司たちに雇われた使用人たちであったと考えられています。祭司たちは神殿での礼拝を取り執り行うだけではなく、その礼拝を利用して莫大な利益を得ていたと言えるのです。イエスはこの後で神殿を「強盗の巣にしてしまった」と非難しています。これは、神殿でこのような仕組みを作って自分たちの利益を得ていた人々について語っていると考えてよいのです。
3.異邦人の庭
①異邦人の庭を占領した商人たち
ただ、イエスの怒りの原因は祭司たちが商売をして莫大な利益を得ていたと言うことだけにあったわけではないようです。問題なのはこの商売人たちが神殿のどこで商売をしていたかと言うことです。実はこのエルサレム神殿は聖所と至聖所という場所を中心として幾重にも囲まれた壁によって区切られている構造を持っていまいた。
だいぶ前に、弘法大師の作った高野山を紹介するテレビ番組を見たことがあります。この高野山は江戸時代ごろまで女人禁制の場所であったとされています。ですから女性は高野山の周辺を回って遠くから参拝したと言うのです。実はエルサレム神殿も同じようなところがあって、女性はエルサレム神殿の中心にあった礼拝の場所に入ることができませんでした。彼女たちは壁で区切られた「女性の庭」と言うとこまでしか入れなかったのです。さらにこのエルサレム神殿では「女性の庭」の周りにやはりこれも壁で区切られて「異邦人の庭」と言う場所が存在していました。ユダヤ人ではない外国人の参拝客はこの庭までしか入ることができなかったのです。実は、今日の物語に登場する商売人たちはこの異邦人の庭でお店を出していたと言うのです。そしてそこにイエスの怒りの原因があったと考えることができるのです。
イエスはここでイザヤ書(56章7節)の言葉を引用してこう述べています。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」。他の聖書の翻訳では「わたしの家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれる」(フランシスコ会訳)となっています。この聖書の言葉によれば神殿はユダヤ人たちだけのものではなく、神を礼拝するためにやって来るすべての国民、民族のためのものだと言うのです。ところが、イエスが目撃したのは外国人が礼拝するために作られている場所が、全く違った目的のために利用されているという光景だったのです。
この「異邦人の庭」はユダヤ人たちの信仰生活には直接には関係を持っていませんでした。自分たちの信仰生活だけが維持できればと思っている人たちには必要のない場所だったのです。だから彼らは実際にこの場所を商売人に貸し出したのです。これは彼らの信仰の姿勢をよく表していると言えます。自分たちの信仰生活だけが安泰ならばそれでよい、外国人などがここにやってきたら余計な問題ができるだけだ。もしかしたら、自分たちの静かな信仰生活が奪われるかもしれない。しかし、神の御心は彼らの思いとは違いました。神はすべての国民が、すべての民族が神殿にやってきて祈りをささげ、ご自分との親密な交わりを持つことを求めておられたのです。自分がよければそれでよいというユダヤ人たちの態度がこの異邦人の庭の光景によく表されていたのです。そしてそれがイエスの怒りの原因であったと言えるのです。
②すべての人と一緒に礼拝を献げる喜び
私たちはどうでしょうか。私たちも自分の信仰生活が安泰であればそれでよいと考えて、どこかでその安泰を揺るがすような可能性を感じる人々が自分の周りにやって来ることを拒んではいないでしょうか。神がその人たちをも救おうとされて、私たちのところに遣わしてくださったのに、その人々を拒否したとしたら、私たちもエルサレムの神殿の祭司たちと同じような過ちを犯していることになるのです。
この数日間に渡ってリビングライフ誌を使って歴代誌を読んでいて、ユダの王ヒゼキヤに関する物語を学んでいます。ヒゼキヤは何よりも真の神を礼拝することを大切にした王であったと伝えられています。彼はユダの国民だけではなく、王国の分裂以来長く対立していた北イスラエル王国の人々にも関心を持っていました。その北イスラエル王国はアッシリア帝国の侵略にあってこの時すでに滅んでしまっていました。そのためたくさんの人々が外国に捕虜として連れていかれてしまったのです。彼は残された北イスラエルの人々にも自分たちと一緒にエルサレム神殿で神に礼拝を献げようと呼びかけました。残念ながらこの時、北イスラエルの大半の人々はこのヒゼキヤの呼びかけに応じることはありませんでした。しかし、その中でもわずかですがこの呼びかけに応じてやってきた人がいました。ヒゼキヤはその人々を含めて神に礼拝をささげようとします。ところが長い間、神を礼拝したことのなかった北イスラエルの人々は、正しい礼拝の方法を忘れてしまったのか、汚れたままで礼拝に参加してしまいます。これではせっかく献げた礼拝も台無しです。しかし、ヒゼキヤはこの北イスラエルの人々を非難することはありませんでした。返って彼は汚れたままで礼拝をささげた人々のために神にとりなしの祈りを献げ、彼らの罪が赦されるようにと願ったのです。聖書にはこのヒゼキヤ王の祈りによって、誤って礼拝をした人々が「癒された」と書かれています。このようにヒゼキヤは自分たちだけではなく、すべてのイスラエルの人々が神殿に来て神に礼拝を献げてほしいと心から願ったのです。
4.神殿の意味とイエスの救い
このエルサレム神殿は紀元70年にエルサレムに侵入したローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいました。現在までこの神殿は再建されてはいません。しかし、あるときイエスはかつて北イスラエル王国の領土であったサマリアと言う地に住む一人の女性に対して次のように語っています。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4章21節)。イエスはエルサレム神殿に行かなくても神を礼拝するときがやって来るとここで語られています。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(同23節)。イエスの御業によって私たちはどこにいても神を礼拝することができるようになると語っているのです。なぜなら、イエスの救いの御業によって私たちと神との間にあった罪と言う障害物が取り除かれ、私たちの上に聖霊が遣わされるからです。この聖霊の働きによって今や、私たちはどこにあっても神を正しく礼拝することができるのです。
もし、神がユダヤ民族だけを選び、彼らだけを救おうとしていたのなら、このようなイエスの御業は必要ありませんでした。しかし、神はすべての国民、すべての民族がご自分と親しく交わることを望んでおられるのです。そのためにはエルサレム神殿にかつてあった「異邦人の庭」だけでは狭すぎるのです。すべての国々の人々が神を礼拝するためにはどこにあっても神を正しく礼拝することができることが必要でした。そのためにイエスの十字架と復活の御業が実現されたのです。
神殿から商人を追い出すというイエスの行動は、すべての国民が救われて、ともに生きることを望まれる神の愛の御心が表されたものであると言えます。私たちもイエスと同じように、すべての国民、すべての民族が救われて、私たちとともに神に礼拝を献ことができるようにと祈り、またそのために福音伝道に励みたいと思います。
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祈 祷 |
天の父なる神さま。
エルサレム神殿の「異邦人の庭」を商売人の場所にしてしまった人々に対するイエスの怒りの意味を学ぶことができました。あなたはすべての国民、すべての民族が礼拝を通してあなたの交わりを持つことを望んでおられます。すべての人々が救われて、ともに生きることを望んでおられます。私たちもそのあなたの愛を覚えて、あなたを求めるたくさんの人々とともに礼拝を献げることができるようにしてください。そのために私たちが福音伝道に励み、多くの人々をこの礼拝に招くことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスは神殿に来られるとその境内で何をされましたか(15〜16節)。
2.イエスは自分が行った行動を説明するために旧約聖書の言葉を引用されています。それはどのような言葉でしたか。このイエスの説明からあなたはイエスの行動の意味をどのように理解することができますか(17節)。
3.祭司長や律法学者たちはこのイエスの行動の後、イエスをどうしようと考えましたか。彼らがイエスを恐れた理由はなんですか(18節)。
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