2018.12.9 説教 「ファリサイ派のニコデモ」


聖書箇所

ヨハネによる福音書3章1〜16節
1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。


説 教

1.修業はいらない
①信仰生活に修業は必要か

 最近はあまり聞かなくなったのですが、ときどき、教会の礼拝にお誘いする人の中で「わたしはまだ修業が足りませんので」と返事をされる方がいます。おそらく、その方は「自分はまだ教会に行って信仰生活を送れるような真面目な人間ではありません」と言うような言い訳を言っているのでしょう。そのあめに「修業が足りない」と言われるのだと思うのです。私はそんな言葉を聞くと、「それではどのくらいの修業を積んだら、教会の礼拝に来てくださいますか…?」と聞き返したくなるような思いに襲われます。おそらく私にそう言った方は本気で修業をこれからしようと思っているのではなく、私の誘いを断るための言葉を語っておられるだけなのに。
 私たち日本人の多くは宗教と言うとまるでペアのように「修業」と言うものが必要だと思っているところがあるようです。確かに私たちが知っている仏教や神道、あるいはその他の新興宗教には修業と言って、信徒が励まなければならない行為が存在しています。そしてそれらの宗教では人は修業を積んでこそ、晴れて立派な信仰者になれると教えているのです。
 しかし、この「修業」と言う言葉は私たちのキリスト教信仰においてはあまり用いられません。私は牧師になって30年近い歳月を過ごして来ましたが、教会に来られた方に「あなたはまだ修業が足りませんね」と言ったことはありません。また、自分自身に対しても「山に登って修業する必要がある」と感じたこともないのです。それではなぜ、キリスト教会では「修業」と言う言葉が用いられないのでしょうか。
 「修業」と言う言葉は読んで字のごとく「修める業」と言う文字で構成されています。つまり自分の行う何らかの業によって目的を達すると言うことが「修業」の意味なのです。自分で何らかの業を修めることで、自分の救いを獲得するとか、新しい人間になること、それがキリスト教以外の多くの宗教が人に修業を求める理由と言えるのです。

②必要なのはイエス・キリストの御業

 しかし、私たちの信じるキリスト教ではここが全く違って来るのです。なぜなら、私たちが救いを得るために、あるいは新しい人間になるためには私たち自身の業は何も必要とされないからです。むしろ、聖書は私たちの業は私たちの救いのために何の役にも立たないと教えているのです。それでは私たち自身の行う業で私たちが救われないとしたら、私たちは何によって救われるのでしょうか。私たちが救われるためには、私たちが生まれ変わるために必要なのは私たち自身の業ではありません。必要なのは私たちのためにこの地上にやって来てくださった救い主イエスの業なのです。少し乱暴な表現となるかもしれませんが、もし私たちの救いに関して「修業」と言う言葉を使うならば、私たちの救いにとって大切なのはイエス・キリストが私たちのために行ってくださった修業なのです。だから私たちが救われるためには、まず私たちのためにイエス・キリストが何をしてくださったかを知ることがカギとなって来るのです。キリスト教会では修業ではなく、信徒が神の言葉である聖書を熱心に読むことが求められます。その理由はこの聖書にだけ、イエス・キリストがなしてくださった御業が事細かく記されているからです。

2.ニコデモの悩み
①神の国、永遠の命

 今日の聖書の物語には「ファリサイ派に属し」、「ユダヤ人たちの議員」であったとされるニコデモと言う人物が登場しています。このニコデモはある晩、こっそりとイエスの元を訪れました。なぜなら彼には長い間自分の人生で抱え続けて来た疑問があったからです。ニコデモはその答えを求めてイエスの元を訪れたのです。このニコデモが抱えていた問題は何だったのでしょうか。聖書を読んでみるとそれが「神の国」に入ること、あるいは「永遠の命」を受けることであったことが分かります。
 聖書の中で使われている「神の国」と「天の国」は同じ意味を持った言葉です。私は以前、教会学校の生徒に天国のことをお話していたとき、「天国って死なないと行けないのでしょう」と聞かれて答えに困ってしまったことがありました。聖書が語っている「神の国」や「天の国」は日本人が「来世」と言う言葉で呼ぶような世界を表現しているのではありません。聖書が言う「神の国」や「天の国」は神がおられるところを意味しています。この神の支配が及ぶところが「神の国」、「天の国」の正しい意味なのです。だから、私たちは死ななくても、信仰を持って神とともに生きることができるようになるなら、神の支配に従って生きるようになれば、どこにいてもすでに私たちは「神の国」、「天の国」にいることになります。私たちはこの地上にありながらも、「神の国」、「天の国」の住人となって生きることができるのです。
 「永遠の命」についても多くの人は様々な誤解を持っています。一番、多いのは「永遠の命」を「死なない命」と考えるものです。日本の昔話の中には人魚の肉を食べて不老不死の命を得た女性の物語が残されています。人間は死なない命を持つようになれば、「不老不死」になったら本当に幸せになれるのでしょうか。この物語の主人公は家族や知り合いが皆死んでいく中で自分だけが生き残る、そのようなむしろ不幸と言える境遇の中で生きなければなりませんでした。このような物語を語らなくても、私たちは自分の頭で少し考えて見ればこのことがよくわかるはずです。私たちの今のままの人生がいつまでもそのままで続き、終わらないとしたら、私たちは本当に幸せであると言えるでしょうか。おそらくそうではないと思います。聖書が語る「永遠の命」はただいつまでも私たちの命が続くと言うものではないのです。永遠の命は神の命と同じものです。もし私たち人間がこの神の命にあずかることができればどうなるでしょうか。私たちの命は全く変わるはずです。すべての祝福の源である神の命にあずかって生きることができるのが「永遠の命」であると言えるのです。そして神の存在が永遠であるように、その神の命にあずかる私たちの命も永遠の存在となることができと言うのです。

②エリートの抱えた悩み

 ニコデモは子どものときから聖書を読んでいて、「神の国」や「永遠の命」についてそれなりの知識を持っていました。しかし、それでも彼にはまだ納得のいかないところがあったのです。それはどうしたら自分は「神の国」に入れるのか、どうしたら自分は「永遠の命」にあずかることができるのかが分からなかったからです。
 ニコデモがこの答えを得られなかった原因は彼がファリサイ派の人間であったことに原因があるとも言えます。ファリサイ派は当時のユダヤ人の中で最も信仰に熱心な人々によって構成されていました。そして毎日の生活において徹底的に神の掟を尊重して生きる彼らの生き方は、普通の庶民には守ることができないものだったのです。だから当時、このファリサイ派に属する人々はユダヤ人の中でもほんの一握りのごく限られた人々だけでした。言葉を換えればファリサイ派に属する人は「エリート」たちであったと言えるのです。彼らは自分たちが神の掟に従うことによって「神の国」に入ることができる、「永遠の命」にあずかることができると考え、人々にも教えていました。しかし、人が神の掟を完全に守ることは不可能なのです。だからファリサイ派の人々は熱心な信仰を持っていても、自分が救われていると言う確信を持つことができなかったのです。ニコデモはファリサイ派の人間として救いの確信を持てない自分の正直な気持ちを携えて、イエスのところにやって来たのです。

3.キリストの御業
①自分で生まれることはできない


 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)

 ニコデモの疑問に答えてイエスはニコデモには「新しく生まれる」必要があることを教えます。しかし、このイエスの答えがさらにニコデモを混乱に陥れます。なぜなら「人が生まれる」と言う出来事、つまり人間の誕生についてはその時生まれる当事者は何も関わることができないからです。私たちがこの世に誕生したのは、私たちが「よし。生まれよう」と決意したからではありません。私たちの誕生に直接にかかわるのは私たちを生んだ両親です。「生まれる」と言う行為は自分でできる行為ではないのです。ニコデモは自分が何かをすることでこの悩みを解決しようと考えていました。だから「新しく生まれなければ」とイエスに言われることで、ますます悩んでしまったのです。
 イエスはこの後でニコデモに「新しく生まれるということは、霊から生まれること」だと言うことを丁寧に教えています。この霊は神の霊、聖霊のことを意味しています。つまり、私たちが「新しく生まれる」ために働くのは、私たち自身ではなく神の霊なのです。だから私たちが新しく生まれることは純粋に神の御業だと言えるのです。ここで語られるイエスとニコデモとの会話は一見、複雑で謎に満ちた言葉が続けられているように思われます。しかし、語られている本当の意味は単純であると言えます。私たちが神の国に入ること、永遠の命を受けること、つまり私たちが救われるのは、私たち自身の業ではなく、神の業によるものなのです。だからニコデモは自分が神の国に入れるために、そして永遠の命を受けるためには神が自分のためにしてくださったことをまず知る必要があったのです。

②上げられた蛇とイエスの十字架

 それでは神は私たちを救うために何をしてくださったのでしょうか。イエスはそれを旧約聖書の物語を通して説明しています。

「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(13〜15節)。

 イエスはここで自分が天から降って来た者、私たちを救うためにやってきてくださった方であることを明らかにされています。その上でイエスは私たちを救うためモーセが荒れ野で上げた蛇のように、自分も上げられる必要があると語ります。
 このモーセが上げた蛇とは旧約聖書民数記21章に記されている物語に登場しています。このとき神に不平を言いい、罪を犯したイスラエルの民を罰するために神から「炎の蛇」つまり毒蛇が送り込まれます。そしてこの蛇にかまれて、多くの人が死にました。そこでイスラエルの民が自分の罪を認めて神に助けを求めたところ、神はモーセに青銅で作った蛇を作るように命じました。そしてその青銅の蛇を旗竿の先にかかげて、誰もが見えるようにさせたのです。すると、蛇にかまれた者でもすぐにこの青銅の蛇を見上げれば命が助けられたと言う物語が記されているのです。どうして、旗竿の上に掲げられた青銅の蛇を見上げた者だけの命が助けられたのでしょうか。それは神がその人の命を救うと約束してくださったからです。
 イエスはこの荒れ野で上げられた蛇は自分を表すためのものだとここで語っておられるのです。なぜなら、イエスは私たちの命を助けるために十字架の木に上げられ、そこで自分の命をささげられたからです。神はこのイエスの十字架の出来事を通して私たちを救い、私たちを神の国に入れ、永遠の命を受けることができるようにされたのです。私たちが救われるためにはこのイエスの業が必要ですし、このイエスの業以外に私たちを救うことのできる方法はないのです。

4.信じること

 このヨハネの福音書の文章ではイエスとニコデモ会話はどこまで続いているのか、どこで終わっているのか、よく分からないところがあります。この後はイエスの言葉だけが続いて、ニコデモが再び登場する場面はありません。ですからこの後に書かれているイエスの言葉はニコデモに対する答えと言うよりは、この福音書を読む読者たちに、つまり私たちに語りかけている言葉だと言ってよいのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。

 信仰は私たちが救われるために自分が行う修業ではありません。何度も言うように私たちの修業は私たちが救われるためには何の役にも立たないからです。私たちが救われるためにはイエス・キリストの業、十字架の業が必要なのです。イエスは既に私たちのために十字架にかかって命を捨ててくださいました。私たちの救いはこの出来事を通して確実なものとなったのです。しかし、ここでもう一つ大切なことがあります。それは先ほどのモーセが上げた荒れ野の蛇の出来事からも学ぶことができます。この物語で自分の命を救われた者は、神の言葉を信じて旗竿に掲げられた蛇を見上げた者だけでした。神が「救う」と約束してくださった言葉を信じて、その通りに従った者だけが命を救われたのです。
 私たちにも同じような信仰が求められています。イエスは既に私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。だから私たちはこのイエスによって救われ、永遠の命をいただいていると信じることが必要なのです。
 昔からキリスト教信仰を表す有名なたとえとして、私たちの信仰は、物乞いが差し出す手と同じだと言われてきました。特に宗教改革者ルターはこのたとえを好んで用いたとされています。ある人が幾ばくの施し物を差し出すとき、物乞いをしている者はその施しを受けるために自分の両手を差し出します。そのとき差し出された空の手こそが私たちの信仰だと言うのです。私たちの救いのために神がすべてのことをしてくださいました。だから私たちはただ、その救いを恵みとして受け取るだけなのです。それを受け取れば、私たちは新しく生まれることができるのです。神の国に入り、永遠の命を受けることができるのです。私たちのためになされた神の御業を信仰を持って受け取ること、その救いの真理をニコデモとイエスとの対話は私たちに明らかにしているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちが罪と死の呪いから解き放たれ、永遠の命を受け、神の国の住民となるために救い主イエスがなされたすべての御業に心からの感謝をささげます。私たちの救いの根拠はすべて、主イエスの御業にかかっています。それなのに私たちはいつもそのことを忘れ、自分の不完全な行いに目を向けては信仰の確信を失ってしまうような愚かな者たちです。私たちに聖霊を遣わして、私たちの目をいつもイエスに向かわせてください。イエスを信じて、空の手で、救いの恵みを受け取ることで、信仰の確信を得て、あなたに感謝をささげながら生きる信仰生活を送ることができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.この物語に登場するニコデモはどのような人物でしたか。彼はイエスについてどのような思いを持っていましたか(1〜2節)。
2.3節で語られているイエスの言葉からニコデモがどのような問題を抱えてここに来たことが分かりますか。
3.ニコデモは新しく生まれるためにどうすべきだと思いましたか。イエスは新しく生まれるためには何が大切だと言っていますか(4〜9節)。
4.イエスの言葉に従えば、イエスの証は他の人の語る証と根本的にどこが違っていることが分かります(11〜12節)
5.イエスは天から降ってきた自分は何をするために来たとここで語られていますか(13〜14節)。
6.私たちが永遠の命を受けるためにはどうしらよいのでしょうか(14節)。
7.イエスの言葉によれば神がこの世を愛してくださっている証拠はどこにあると言えますか(16節)。