2018.1.28 説教 「中風の人とその仲間たち」
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聖書箇所
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聖書箇所:ルカによる福音書5章17〜26節
17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
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説 教 |
1.「罪人」=「ザイニン」ではない
今日は皆さんと共に救い主イエスが私たちに与えてくださる「罪の赦し」について聖書から共に考えて見たいと思います。私たちが住むこの川口市には『「罪人の友」主イエス・キリスト教会』と言う名前が付けられた教会があります。牧師をしている方はもともと暴力団のメンバーであった人で、今でもシャツを脱ぐと見事な刺青が体に描かれています。おそらく、この牧師の経歴や活動が特別なのでマスコミにもよく取り上げられているのでしょう。この間、インターネットを見ていたらこの教会を取材した番組をたまたま見つけました。この教会、牧師のお母さんがやっていたスナックを改造した建物で礼拝をしているようで、見た目ではちょっと教会としては分かりづらいものになっています。レポートにやってきたタレントはこの教会の看板をやっと見つけて「あっ!ここかもしれない。ザイニンの友、主イエス・キリスト教会って書いてあるぞ」と言ったのです。私はそのとき「それは罪人と読むのだぞ」と心の中で叫んでしまいました。考えて見ると、普通の人は「罪人」と言う字を漢字で見れば「ザイニン」と読むことが自然であるのかもしれません。多くの人は「罪人」と書けば「ザイニン」と読んで、それは法律に背く犯罪行為をした人物のことを言っていると考えるのではないでしょうか。この取材を受けた教会の牧師は特に、犯罪を犯して、刑務所に入れられた人たちに伝道をし、彼らの更生の手助けをされているようです。ですからまんざら「ザイニン」と呼んでも間違いではないとも考えることができるのです。
しかし普通、キリスト教会では「罪人」と漢字で書けば「つみびと」と読むことが決まりのようになっています。そしてキリスト教会で「罪人」と呼ぶ場合は、犯罪を犯した人や、刑務所帰りの人を呼ぶのではなく、私たちすべての人間が神の前で「罪人」であると考えているのです。だから聖書の中で「罪人」と言う言葉が出てきたら、「これは私のことを言っている」と考えてくださっても、決して誤りではないのです。
アメリカの古い映画にアカデミー賞を受賞した「ゴッドファザー」と言う作品があります。この物語はイタリア出身の一人の男がアメリカに移住して、そこで暗黒街を支配する組織、ファミリーを築いていく姿を描いています。この映画の主人公を俳優のアルパチーノが演じていますが、その最後の方でこのアルパチーノが演じるドン・コルレオーネが愛する娘を銃撃で失い、自らも病を負って精神的にすっかり弱ってしまう場面が描かれています。そのときコルレオーネは自分が組織を守るために今まで無惨にもたくさんの人々の命を奪って来た過去を思い出して、驚愕に震えます。そのとき彼の知り合いの神父が「神さまに罪を告白しないさい」と主人公に懺悔を求めるシーンが今でも私の記憶に残っています。神父は「私に告白すれば、その罪はすべて赦される」と主人公に語るのです。カトリック教会では今でも告解制度と言って自分の犯した罪を神父に告白すれば、その神父はイエスに代わって「あなたの罪は赦された」と宣言する権限を持っていると主張しています。つまり、この神父は「あなたには神様の赦しが必要だ」と主人公に迫ったのです。
数えきれない人の命を奪ってその地位を得たゴッドファザーの主人公ならともかく、今日の聖書の箇所ではたぶん誰の命も奪っていない人物、むしろ深刻な病を自らが背負い苦しんでいるような人物がイエスによって「あなたの罪は赦された」と言う宣告を受けています。つまり、イエスはこの人物にも「罪の赦しが必要だ」と考えていたことが分かるのです。どうしてこの病人はイエスから罪を赦される必要があったのでしょうか。そもそも聖書の語る罪とはいったいどういうことを言っているのでしょうか。そしてイエスが与えてくださる「罪の赦し」は私たち人間の人生にとってなぜ重要なことなのでしょうか。
2.病に苦しむ人と男たち
①病苦に苦しむ人
今日の物語には中風の病で苦しみ、自分の身体さえ自分では動かせない一人の人物が登場します。この「中風」は脳血管障害などによって後天的に体が動かせなくなる症状を総称しているようです。今まで自分の意思で自由に動かせた体が突然の病によって全く動かせなくなってしまうのですから、本人にとってこれほどショックなことはありません。現在と違い、当時は脳の障害などの知識がなった時代でしたから、手当と言う手当を受けることもできずに彼は毎日暮らしていたと考えることができます。
体が自由に動かせないと言うだけでも本人には耐えがたい苦しみとなります。しかしそれ以上に、この病で失ってしまったものを考えると彼の苦しみはさらに深刻はものだったと考えることができます。以前、この同じ物語を伝えるマルコのよる福音書の箇所をこの礼拝で学んだ時、教会に伝えられた古い伝説によればこの人はかつて石細工の職人であったと言われていることを紹介しました。職人として子供のころから身に着けた技を使って、彼は今までたくさんのものを作ってきたのかもしれません。そんな人が突然何も作れなくなってしまうと言うことはどういうことを意味しているのでしょうか。「自分の人生はこれですべて終わってしまった」ともこの人は考えたのではないでしょうか。もちろん、体が不自由となって彼は今までのように自分で生活費を稼ぐことはできません。むしろ、彼は誰かの世話を受けなければ生きていけない立場になってしまったのです。このように病に犯された人が背負う苦しみは二重三重に複雑に絡み合い、他人には到底理解できないものであると言えるのです。
②イエスの元に病人を運んだ男たち
しかし、実は彼はすべてのものを失ってしまった訳ではありませんでした。彼にもまだ残されているものがありました。それは身体の不自由なこの人を床に載せて、イエスの元に連れて行こうとしていた人々です。この物語では「男たち」と言う言葉で彼らは紹介されています。この言葉だけでは彼らがこの病人の家族なのか、それとも友人なのかはよく分かりません。はっきり分かるのは、彼らは病に苦しむ人を決して見捨てることができなかったと言うことです。むしろ、病に苦しむ人のために何かをしてあげたいと彼らは真剣に考えたのです。しかし、病に苦しむ人のために彼らができることはほとんどありませんでした。そのとき、彼らはたくさんの人々の病を癒されているイエスの噂を耳にして、立ち上がります。病に苦しむ人を床に載せてイエスの元に運び、癒していただこうと考えたのです。
この男たちの熱意はイエスのおられる家の屋根瓦をはがして、イエスの前にこの病に苦しむ人を床ごと下ろすという暴挙をもやり遂げさせます。しかし、この暴挙は彼らが病気で苦しむ人をなんとかしたいと願う強い思いを表す行動でもあったのです。そしてイエスはこの病に苦しむ人を運んで来た男たちの「信仰を見た」と聖書には書かれています。つまり、この男たちはイエスと病で苦しむ人との出会いのために決定的な働きをしたと言えるのです。
私たちも一人で聖書のことを知り、また教会を知ることができたわけではありません。私たちがイエスに出会い、信仰を得るためには私たちをイエスの元に運んでくれた人々がいたのです。そして彼らの信仰が私たちをイエスの元に導いたと言えるのです。私たちは彼らの導きによって信仰を得、イエスと出会うという機会を得ることができました。そして、今、私たちには彼らと同じように、私たちの友や家族をイエスの元に運ぶと言う使命が与えられています。この使命に私たちが応えるためには巧みな話術のようなセールストークが大切なのではありません。その人をイエスの元に運べば、その人生がイエスによって変えられると信じる信仰だけが必要だと言えるのです。
3.担われら病人
①薬だけでは癒されない病
この物語は病気の人がイエスによってその病が癒されたという簡単な奇跡物語で終わっているのではありません。なぜなら、イエスは病気で苦しむ人に対して「人よ、あなたの罪は赦された」と語り掛けられているからです。人間は常日頃から自分のために様々な願いを持って生きています。おそらく病で苦しむ人は、その病が癒されることが一番の願いであったはずです。しかし、私たちは自分が抱いている願いが本当に自分にとって一番必要なものなのかどうかを案外知っていないところがあります。
精神的なバランスを崩して病になる人が多い現代社会では、この種の病を軽減させるための薬の研究が飛躍的に進んでいます。そして新しく作られた薬が治療のために高い効果を表すようになっています。これらの薬を飲めば、病に苦しむ者はある程度の回復を得ることができるのです。しかし、どんなに優れた薬でも、それだけでは人の病を完全に癒すことはできません。なぜなら、このような病が生じた原因は依然としてその人の周りに残されているからです。複雑な人間関係や、仕事の責任よって生まれるストレス、精神的な病は返ってこれらの原因からその人を守るために生じることも多いのです。その本当の原因を解決しない限り、薬でいくら症状が軽減されても、本当の癒しを得ることはできないのです。
②神との関係の中で生じる「罪」の問題
このような意味でイエスが病に苦しむ人に宣言した「罪の赦し」とは、人を苦しめる本当の原因を解決するものであったと考えることができます。確かにこの病に苦しむ人にとって中風の病が癒されることは大切なことでした。しかし、この人の人生にはもっと大切で必要なものがあったのです。それがここでイエスが語られた「罪の赦し」であると言えるのです。それではこの「罪の赦し」とはいったいどのようなことなのでしょう。どうして「罪の赦し」は私たちの人生にとって最も必要なものだと言えるのでしょうか。
聖書が語る「罪」はこの世の法律を犯す犯罪行為を語っているのではありません。神と人間との関係の中で、その関係を破壊する決定的な原因となるものこそが「罪」であると言っているのです。聖書によれば私たち人間の命は神によって創造されたものであり、人間は神によって生かされる存在であると言えるのです。ところが人間は「罪」によってこの神との関係を失ってしまったために、今はこの命をそのままでは受けられない者となってしまったのです。旧約聖書ではこのような人間の状態を「壊れた水溜」(エレミヤ書2章13節)と言う言葉で表現しています。そして神は「生ける水の源」であるとも表現しています。人間は生ける水の源である神から切り離された壊れた水溜なのです。だから私たちはそのままでは水を貯めることも、あらたにその水を供給されることもできません。そのためいつも渇きを訴えながら生きなければならないのです。
そしてイエスがこの病に苦しみ人に与えようとされた「罪の赦し」はふたたびこの人を命の水の源である神と結び付ける出来事を意味しているのです。なぜならイエスの与える「罪の赦し」によって神と人との関係が完全に回復されるからです。この病に苦しむ人はここまで何人かの男たちによって運ばれてきました。しかし、このイエスの与えてくださる「罪の赦し」の結果、今度はこの人の人生を神ご自身が担ってくださるものと変わったのです。これこそ私たちの人生にとって最も大切で必要なことと言えるのです。
4.罪を赦すキリスト
この物語では「ファリサイ派の人々や律法の教師たち」と言う人々が登場しています(17節)。彼らは当時の社会で最も旧約聖書の知識に長け、神についての知識を持っていると考えられた人たちでした。そして彼ら自身も自分たちの知恵を誇っていたのです。このとき彼らはこのイエスの言葉に強い反感を感じて次のように考えたと言います。
「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(21節)。
「神だけが罪を赦すことができる」と言う彼らの知識は間違ったものではありませんでした。なぜなら、神を蔑ろにし、その栄光を汚すような罪を行った人間を赦すことができるのは、唯一その被害者である神ご自身だけだからです。しかし、このような正しい知識を持った彼らが決定的に犯した過ちは、イエスを「この男」と言う言葉で呼んだように、イエスが本当は誰であるかを理解することができなかったことです。イエスはこうつぶやいた彼らに答えます。
「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(22〜24節)。
病を癒すことは人間にもある意味で可能です。しかし、人間には罪を赦すことはできないのです。人間には神と自分との関係を回復させる力はないからです。だから罪を赦すことがおできになるのはただ一人、神の元から遣わされた救い主イエスだけなのです。イエスは私たちに「罪の赦し」を与え、神との関係を回復させるためにやって来られた方だからです。
私たちとイエスとの出会いによって私たちの人生に与えられるものはこの「罪の赦し」であり、壊れた神との関係の回復です。これによって私たちの命は、命の源である神と結ばれます。そして私たちに人生は神によって担われる人生と変えられることを今日の物語は私たちに教えているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
御子イエス・キリスト、私たちの救い主によって私たちも「あなたの罪は赦された」と言う宣言を聞くことができる恵みを心から感謝いたします。この言葉を実現するために、十字架にかかり、私たちの罪を贖うことで私たちの罪をすべて解決してくださり、私たちが神と共に生きることができるようにしてくださいました。私たちの人生からは「罪の呪い」のすべてが取り去られ、いまやあなたが与えてくださる命によって生きることができることを心から感謝いたします。願わくは病に苦しむ人をイエスの元に運んだ男たちのように、罪の呪いによって苦しみ続ける同胞をあなたのもとに信仰をもって導いていくことができるように私たちを助けてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスが教えておられるとき、そこはどのような人たちが集まって来ていましたか(17節)
2.中風を患う人を床に載せて運んできた男たちは、ここに何をしにやって来たのですか。彼らは群衆に阻まれて家の中に入れないことを知ると、何をしましたか。そしてイエスはこの男たちの何をご覧になられましたか(18〜20節)
3.イエスが中風を患う人に語った言葉はどのようなものでしたか(20節)。この言葉を聞いたファリサイ派の人々はどんなことを考えましたか(21節)。彼らが知っていたことと、知らなかったことはどのようなことですか。
4.イエスはファリサイ派の人々に何と答えられましたか(23〜24節)。これらの会話を読んであなたはイエスがどのような方であることが分かりますか。
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