2018.2.18 説教 「地上のどんな種よりも小さい」
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聖書箇所
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マルコによる福音書4章30〜34節
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
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説 教 |
1.小さい種
①トマスの答え
中世のカトリック教会において最も影響を与えたとされる神学者トマス・アクィナスには伝説になった様々な逸話が残されています。ある日、トマスが法皇庁を訪れた際のことです。トマスが法皇の執務室に通されたとき、法皇はちょうど教会に集められた沢山の金銀をうず高く机に積んで金勘定をしていました。その時、法皇はトマスに「トマス君、われわれはもはや『金銀は私にはないが…』とは言えないね」と自慢げに語りました。するとその言葉を聞いたトマスはうなずきながらこう答えたのです。「しかし、法皇さま。私たちはその言葉に続く、ペトロの言葉も今は言うことができなくなっているかもしれません」。
ここで法皇とトマスの間に交わされた会話で取り上げられているのは使徒言行録に登場する物語でのペトロの言葉です。ある日、神殿の前で物乞いをする一人の男にペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3章7節)と語り、その男を奇跡によって歩けるようにしたのです。私たちにとって最も大切なものはこの世の富のような金や銀ではありません。最も大切なものは私たちといつも共にいてくださる主イエスなのです。このイエスが共にいてくれるなら、私たちはどんなときにも立ち上がって歩むことができるからです。しかし、私たちは本当に自分たちと共にいてくださる方のすばらしさを覚えながら日々の信仰生活を送っているでしょうか。もしかしたら私たちはこの世の富や様々な力に目を奪われ、私たちと共におられる主イエスのすばらしさと、その全能の力を忘れていまってはいないでしょうか。今日はイエスの語られたたとえ話から続けて学びます。この箇所でもこれまでと同じように種蒔きに関するたとえ話が語られています。そして今日の箇所の重要なポイントは蒔かれた種の小ささです。
②「からし種」とイエス
「からし種」(31節)と言う植物の名前がここには登場します。このからし種はイエスの活動されたイスラエルの地では植物の中でも最も小さな種と人々から考えられていました。ですからからし種と言う存在は「小さな」ものを表す代名詞のようにも用いられていました。日本で言えば「芥子粒」と同じような使い方をされるような植物であったと考えることができます。ただ、このからし種が、私たちがよく知っている芥子粒と違う点は、それが成長すると2~3メートルほどになると言う点です。地上の植物でも最も小さな種と考えられるからし種が、驚くべき成長を遂げることができる、これがからし種の持っている特徴であると言えるのです。
このたとえ話は「神の国を何にたとえようか」(30節)と言うイエスの言葉から始まっています。イエスはこのたとえ話を通して神の国の真理について私たちに教えようとしているのです。神の国とは神が私たちと共にいてくださり、私たちの王となってくださって、私たちを導いてくださるところのことです。主イエスはこの神の国が全世界に実現するために来られた救い主なのです。そのような意味で、ここで「からし種」にたとえられている救い主イエスご自身のことであると考えることができます。父なる神はこの神の国を実現するために、ご自身の御子であるイエスを地上にお遣わしになられました。そして全世界を神の国へと変える方は、当時、力を誇ったローマ帝国の皇帝の家に生まれたのではありません。貧しく、そして平凡なマリアとその夫ヨセフの家にイエスはお生まれになられたのです。しかも、地上にイエスが誕生したとき、ベツレヘムの町には彼を受け入れる場所さえなく、その方は家畜小屋の中でお生まれになられたと言うのです。このようにイエスは神の御子であったにも関わらずこの世の存在の中でも最も小さくなられることで救い主としての使命を果たされようとしたのです。
私たちは自分の存在の小ささを覚えて嘆くことがよくあります。こんな自分には何もできないと考えてしまうことがあるのです。しかし、私たちの救い主は小さな存在となられることで、ご自身に与えられた使命を果たすことができたのです。私たちも自分の小ささを嘆くのではなく、自分に神から与えられた使命を果たすことに集中すべきです。なぜなら私たちが神から使命に答えて、この地上でなした業も神の力によってからし種と同じように成長することができるのです。ですから私たちの小ささが問題なのではありません。神が私たちを用いてくださるなら、私たちはからし種のように成長することができることを信じることが大切なのです。
2.今見ているもの
①何を大切にしなければならないか
このたとえ話がイエスの口から弟子たちに語られた理由は、おそらくイエスがご自身の弟子たちを励ますためであったと考えることができます。なぜなら、この世の価値観に長い間支配されてきた弟子たちの考えはいつも目の前の大きさだけに目を向ける傾向があったからです。そのため、彼らは「大きくなければならない」と考えて、ありのままの自分を受け入れることもできず、この世の地位や権力を自分のものにすることに心費やしていたのです。そのような彼らにとってはイエスに従う自分たちの群れがとても小さいと言うことは致命的であり、これをなんとかしなければ神の国は実現できないと考えられたはずです。そのような彼らにイエスはこのたとえば話を語られたのです。今、自分たちの群れがたとえ小さく見えても、その小ささにだけ目を向けて肝心のからし種の素晴らしい力を見失ってはならないとイエスは彼らに教えられたのです。
先日のフレンドシップアワーの学びでも私たちには今の自分で経験できることだけがすべてだと考えてしまう傾向があることが取り上げられていました。神を信じない人々が繁栄しているのに対して、どうして神を信じる自分たちはこの世で苦しまなければならないのかと言う信仰者の嘆きが詩編の文章の中に記されています。そして、その詩編の記者が神を礼拝することで得た知恵は、世界を自分の目からだけ見るのではなく、むしろ神の目を通して見ることでした。私たちの目は、今、目の前に起こっている出来事しか見ることができません。しかし、神は私たちが目にしている現在の出来事だけではなく、その最後の姿もすべてご存知なのです。詩編記者はその神の目を借りて、この世界の最後の姿を見つめました。するとどうなるのでしょうか、私たちが本当に大切にしなければならないことが何かが分かってきたのです。この世がどんなに繁栄しているように見えても、そのほとんどのものはやがては消えてなくなってしまうものにすぎません。私たちが大切にしなければならないものは、いつまでも消えることがない確かのものです。ですから、このたとえ話で言えば小さな種であるイエスこそが私たちが最も大切にしなければならないものだと言えるのです。
②預言者エリシャが見ていたもの
旧約聖書にはイスラエルの預言者エリシャに関する次のような不思議な物語が紹介されています(列王記下6章15〜23節)。ある朝、エリシャの従者が家の外に出て見ると、アラムの軍隊が町中を包囲している姿を発見します。そして彼はそのために驚き恐れます。アラムの王は自分たちの軍隊がイスラエルを攻撃する作戦を立てても、ことごとく失敗する原因が預言者エリシャの力によるものだと言うことに気づきました。だからまずエリシャを片付けなければ自分たちの作戦は成功しないと考えたのです。アラム軍の奇襲作戦によって預言者エリシャの住む町は包囲されてしまいます。エリシャの従者にとってはこの状態は絶対絶命のピンチであると思われたのです。ところが自分の目で見た出来事にうろたえる従者に対して、預言者エリシャはこう語ります。「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」(15節)。この時、エリシャには従者の目には見えないものが見えていました。それはアラムの軍隊を遥かにしのぐ神の軍隊がエリシャの町を囲む山々に満ちている姿でした。そしてエリシャの従者はエリシャの献げる祈りによって心の目が開かれて、自分もその天の大群の姿を見ることができました。
興味深いのはこの物語、この天の軍勢がアラム軍と戦って勝利したという筋書きでは終わらない点です。この後、エリシャは自分たちのために天の大軍を送ってくださった神に信頼して祈ります。するとこの祈りによってアラム軍のすべての兵士の目が見えなくなってしまい、彼らはそのまま生け捕りにされてしまいます。そしてエリシャは「この捕虜を皆殺しにしよう」と叫ぶイスラエルの王の声を退け、かえって彼らを丁重にもてなし、無事にアラムに送り返します。するとこのことで神の力を知ったアラム軍は二度とイスラエルに攻め上って来なくなったと言うのです。エリシャは人間の目に見えない神の力を知ることで、目の前に起こる出来事に対しても冷静な判断をすることができたのです。
私たちが小さな種であるイエスが持つ人間の目には見えない素晴らしい力を、聖書の言葉を通して、信仰の目を通して見ることができるなら、私たちもそのイエスに信頼することができ、目の前に起こる出来事に対して冷静に判断し、対処することができるようになるのです。
3.誰がそのすばらしさと力を見極めることができるのか
昔、私はこのからし種を実際にそれを持っていた持田先生から見せてもらったことがあります。その後、持田先生がその種を庭に蒔いてみたと言う話は聞いていませんから、きっと先生の机の引き出しかどこか奥深くに今でもその種は大切にしまわれているのかもしれません。イエスが語られるように、とても小さなからし種もそれを畑に蒔くなら大きな植物へと成長します。しかし、その成長した姿が見るためには、実際にその種を畑に蒔かなければなりません。からし種を蒔かずに大切にしまっておいたら、その種はいつまでも小さなままなのです。それではどのようにしたらこの小さな種である救い主イエスの素晴らしい力を私たちは知ることができるのでしょうか。それは、私たちが信仰を持ってこのイエスに従うことによって知ることができるのです。ですから逆を言えば、このたとえ話はイエスに従わない人には全く分からないことを語っていると言うことができるのです。このお話は次のような言葉で結ばれています。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(33〜34節)。
聖書を開けば誰でもこのたとえ話を読むことができます。しかし、このたとえ話の本当の意味はイエスに従う弟子にしか意味が分からないと言っているのです。なぜなら、イエスは実際に私たちの信仰生活を通してこのたとえ話の本当の意味を私たちに教えてくださるからです。
昔、ヤング先生や他の宣教師たち、そして仲間の牧師たちと共に韓国のソウルにある教会を訪ねたことがありました。そのとき、朝まだ真っ暗な時間に「ミョンソン(明星)教会」と言う教会の早天祈祷会に参加したことがありました。早朝にも関わらず礼拝堂の中に何百人という人々が集まって礼拝をささげている姿を見て、私はびっくりしてしまいました。この教会はこのような集会を毎朝4時、5時、6時と何回かに分けて行っているのです。集まっている人たちは毎朝、教会で礼拝をささげてから会社や学校に行くようです。だから背広を着た会社員や制服を着た高校生などいろいろな人がそこには集まっていました。幸い、その礼拝を同時通訳者が私たちのために日本語に翻訳してくれたので、私たちはその日本語翻訳をイヤフォンを通して聞くことができました。だから私たちにもその牧師の語る説教の内容も良く理解することができました。その牧師の説教は忠実に聖書の言葉を解き明かす内容になっており、簡潔なものでしたが、特別に珍しい話とは感じられませんでした。だから私にはどうしてこんなにたくさんの人々が毎朝集まってくるのか分からなかったのです。私はその秘密を知るためにこの教会が出版している牧師の説教集を何冊も買い求めて日本に持ち帰りました。その本の中にこの教会の牧師が実際に体験したやりとりが紹介されているところがあることを私は発見しました。ミョンソン教会の牧師は私が抱いた疑問と同じようなことをたくさんの人に質問されるのだそうです。「どうして、ミョンソン教会の早天祈祷会にはあんなにたくさんの人が毎朝集まるのですか」。そんな質問に牧師は質問されるたびにこう答えるのだそうです。「それは礼拝に出席する者しかわかりません。毎朝この礼拝に出席する者だけがこの礼拝の祝福や喜びを知ることができるからです」。
礼拝を通して小さな種が毎朝、毎朝蒔かれています。そしてその種のすばらしさはその礼拝に集い、イエスに従って生きようとする人々にだけに教えられるのです。だからこの小さな種であるイエスのすばらしさを知りたいなら、たくさんの聖書に関する知識を身に着けるよりも、有名な牧師の名説教に耳を傾けるよりも、もっと確実な方法があります。それはこのイエスに従って生きると言う方法です。私たちが語られる聖書の言葉に忠実に従って生きるなら、この種が「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」ことを私たち自身も知ることができることを、私たちは今日、このたとえ話を通して学ぶことができるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちに主イエスを遣わし、この世界に神の国を実現してくださるあなたの御業を誉めたたえます。主イエスは私たちのために神の国を実現するために、もっとも小さな者となられ、十字架の贖いによって、私たちを罪から救い出し、神の国の民としてくださいました。確かのこのイエスはこの世の価値観で生きようとする人の目には隠された存在です。しかし、その主を信頼し、従って生きようとする者にはイエスはその真理をすべて教え、悟らしてくださいます。私たちがますます、あなたを知るために、あなたに従うことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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