2018.2.25 説教 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
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聖書箇所
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マルコによる福音書4章35〜41節
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
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説 教 |
1.経験を通してイエスを知る
先週はイエスの語られたたとえ話から小さな種の力について学びました。からし種は地上の植物の中でも最も小さい種の部類に属するものと言えます。しかし、その種は実際に農夫によって畑にまかれると、成長して他の植物よりも大きく成長することができるのです。私たちはこのからし種こそ私たちの主イエスのことであり、そのイエスが実現してくださる神の国のことであることを学びました。しかし、そのイエスは信じない人々とっては最後まで小さな種のままなのです。信じる者だけがイエスと神の国の本当の大きさ、その力を知ることができると言うことを私たちは学んだのです。
イエスは弟子たちにこのように神の国の秘密について丁寧に語り、教えられました。そして今日はイエスの口からこれらのたとえ話が語られた後にイエスと弟子たちの上に起こった出来事について学びます。聖書によればイエスはこのときガリラヤ湖畔に集まる群衆に対して、舟に乗って岸辺に彼らに語り掛けられていたと説明されています(4章1節)。今日の物語では岸辺に浮かぶだけだったこの舟が湖の中に進み出ています。そしてこの舟が湖の上に進み出たとき驚くべき出来事が起こったことをこの物語は知らせているのです。
どうして今まで岸辺につながれていた舟が動き出したのでしょうか。聖書はその理由をこの時にイエスの語られた言葉で説明しています。「向こう岸に渡ろう」。イエスのこの言葉が今日の出来事が起こるすべてのきっかけを作ったのです。つまり、この出来事の主導権はイエスにあったと言うことをこの言葉は私たちに知らせているのです。
イエスがこのとき弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と語れたのは、向こう岸の地、つまりゲラサ人の地(5章1節)に行ってそこでも福音を伝えるためであったと言うことが聖書の前後関係からも分かります。イエスはそのために向こう岸に渡る必要があったのです。しかし、イエスがこのとき「向こう岸に渡ろう」と言われた理由はそれだけではなかったようです。むしろイエスはこのときご自分の弟子たちを訓練するために舟を湖に漕ぎ出すことを命じたと言うことが今日の聖書の物語を通して分かるのです。このときイエスから神の国の秘密を特別に教えられていた弟子たちは、イエスからさらにその神の国に対する理解を深めるために訓練を受ける必要があったのです。それは神の国の秘密を彼らが口先の言葉だけではなく、実際に自分たちの体験を通して知る必要があったのです。そのような意味で今日の物語は「小さな種」であるイエスの本当の力が弟子たちに現実の出来事を通して示されたとも言えるのです。
2.試練の意味
①未経験の風と波
このとき弟子たちとイエスを乗せた舟は「夕方」岸辺を離れて、向こう岸の町を目指して動き始めました。夕方になり、イエスの周りに集まった人々も少しずつ解散し始めていたのでしょうか。そんなタイミングを見て、彼らは舟を沖に漕ぎ出したのかもしれません。「夜に舟を出すなんて非常識」と私たちは思うかもしれません。しかし、この湖で長い間、漁師として働いていたペトロたちはその漁をいつもは夜にしていたと言われていますから、彼らにとって夜の出発の出来事は意外なことではなかったとも考えることができます。しかし、そこで弟子たちは自分たちも予想することができなかった出来事に遭遇してしまうのです。
「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)。
ガリラヤ湖の北に位置するヘルモン山から吹き降ろす風が、湖の東側にある渓谷ぞいに集められて、湖に強風を起こす現象が現在でもたびたび起こると言われています。ところがこのときの風は弟子たちが今まで体験して事のないようなものであったことがわかります。それはこの風を受けて騒ぎ出した弟子たちの様子に表されているからです。
「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った」(38節)。
先ほども言いましたように弟子たちはもともと、この湖で漁をしていた漁師たちでした。その彼らが「おぼれてしまう」と考えたわけですから、この風が通常のものでなかったことが想像できるのです。彼らは漁師としての自分の持っている知識によって、この嵐のような風では舟が耐えることはできないと判断したのです。だから彼らは慌てて眠っているイエスを起こそうとしたのだと言えるのです。
②嵐の出来事から学べること
この出来事から私たちはいくつかの教訓を学ぶことができると思います。第一に私たちの信仰生活とはイエスと共に歩む生活だと言うことができると思います。それはこの時の弟子たちと同じようにイエスと同じ舟に乗っていることと意味していると言ってよいでしょう。私たちの乗る舟にもイエスは共にいてくださるのです。そのイエスが共におられる舟が突然の強風で沈みそうになるという今日の物語を考えるとき、このお話は私たちの信仰生活にも私たちも予想できないような嵐がやって来る可能性があると言うことを伝えていると言ってよいでしょう。だからイエスを信じればすべて自分の都合のいいように進むとか、自分を苦しめる嵐のような出来事などやって来ないと誤解してはならないと言えるのです。
しかし、この嵐は私たちを苦しめるために、私たちを海の底に沈めるために起こるものではないと言うことも今日の物語から私たちは学ぶことができます。なぜなら、弟子たちはこの嵐の出来事を通して、自分たちと共におられる方が本当はどのような方であるかがよくわかるようになったからです。そのような意味で信仰者の生活に起こる嵐のような出来事は、私たちがイエスと言う方をさらによく知るために起こると言うことができるのです。
ヤコブの手紙は「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1章1節)と言う勧めを語っています。ヤコブは信仰者の生活の上に起こる嵐のような出来事を試練と言う言葉で表現し、その試練こそが私たちの信仰を育て、最後には完全なものにするためのものだと言っているのです。ですからイエスの弟子たちも、このとき彼らの信仰が成長するためにこの嵐に遭遇する必要があったのです。
3.この世の知識は役に立たない
それではこのとき弟子たちはこの試練とも呼べる嵐の出来事を通して何を学ぶことができたのでしょうか。それは第一に自分たちの持っている知識が人生の危機に際して何の役にも立たないと言うことを知ることでした。先ほども申しましたように、彼らはもともとこの湖で働いていた漁師たちでした。「ガリラヤ湖のことは誰よりもよく知っている」と考えてもよいほど、彼らはこの湖のことについての知識を持っていたはずなのです。しかし、この知識が肝心のときに何の役にも立たないと言うことを彼らはこの嵐の中で体験しています。いえ、彼らはこの湖のことをよく知っていたからこそ、「このままでは沈んでしまう」と考え、恐怖に捕らわれてしまったとも考えることができるのです。これは現代社会の中でたくさんの知識の洪水の中に生きている私たちにも共通することではないでしょうか。
テレビやコンピューターのインターネットを使って私たちは地球の裏側の出来事までもよく知ることができるようになりました。しかし、だからと言って私たちの生活がその知識によってよくなっているとは必ずしも言えないのです。かえってその知識は私たちの心に数々の心配を生み出したり、恐怖まで抱かせるものとなっているのです。この世が提供する知識は私たちの人生に真の平和を与えることはできないからです。なぜなら本当に私たちの人生に平和を実現してくださるのは、私たちと共にいつもいてくださるイエスだけだからです。
以前にもお話しましたが、中世に活躍した修道士の説教家がこんなたとえ話を残しています。狐と猫が森の中を歩いていました。狐は肩に重そうな荷物を担いでいます。そこで猫は狐に尋ねました。「狐さん。その荷物の中身は何なの」。それを聞かれた狐は得意そうに答えました。「猫君、よく聞いてくれたね。この袋の中にはありとあらゆることに役に立つための道具がたくさん入っているのさ。これさえあれば僕は何でもできるんだよ」。そして狐は猫に尋ねました。「ところで、猫君きみは何も持っていないようだけど。何ができるの」。そう聞かれて猫は少し考えてこう答えました。「そうだな。僕は木に登ることだけは上手にできるよ」。その答えを聞いた狐は猫を見下したかのように見つめます。ところがそこに突然、オオカミが表れ二匹に襲い掛かってきました。猫はとっさに木に登ってその難を逃れますが、大きな荷物を背負っていた狐は身動きができずに簡単に狼につかまってしまいます。木に登った猫はそのとき狐に語り掛けました。「狐君、君の持っている袋の中身を使うとき今だよ」。するとその猫の言葉を聞いた狐は悲しそうにこう答えました。「猫君、君のできることの方が僕の持っているものより大切なことが今やっとわかったよ」。
修道士はこの話の結論でこう語りかけます。私たちの救いのために自分に何ができるのか、どんな知識を持っているのかは全く問題ではない。なぜならそんなものは私たちの救いのために何の役にも立たないからだ。役に立つのはキリストの十字架の木に逃れる私たちの信仰だけだと…。
弟子たちがこの嵐を通して知らなければならなかったのは自分たちと共におられるイエスこそが、嵐のような試練の中で私たちが助けを求めなければならない唯一のお方であると言うことだったのです。
4.私たちと共におられるイエスを知る
嵐に会った弟子たちが恐怖に捕らわれて騒ぎ出した原因は今まで体験したこともない嵐だけにあったのではありませんでした。彼らがこのとき騒がずにはおれなかったもう一つの原因は、こんなに自分たちが苦しんでいるのにもかかわらず、イエスが舟の艫の方でぐっすり眠っていたことでした。弟子たちはそれが不満でならなかったのです。なぜなら彼らはこの時、イエスが自分たちの本当のリーダーなら、こんなとき真っ先に起き上がって、自分たちを助けるはずだと考えていたからです。だから彼らにとって寝ているイエスの姿は危機的状況に苦しむ自分たちに何の関心を示さない態度にも思えたのです。
金曜日のフレンドシップアワーで続けて私たちは旧約聖書の詩編を学んでいます。今週の詩編の箇所で詩編記者はこのときの弟子たちと同じような境遇に置かれて苦しんでいます。彼は厳しい人生の試練の中に置かれていました。ところが自分がこんなにも苦しんでいるのに神は何もしてくれないと詩編記者には思えたのです。夜も寝ることができないほどに苦しむ自分に対して神は全く無関心な姿勢を示されている。自分は神から見捨てられてしまったのではないだろうかとまで彼は考えました。
しかし、そのように考える詩編記者でしたが、結局、彼は神から離れて行く道ではなく、神を信頼する道を選び取ろうとしています。なぜなら、どんな境遇に立たされても私たちが助かる道は神を信頼する道しか残されていないからです。神以外に自分を救うことのできる存在はこの世にはないからです。
そこで詩人は今まで自分の周りに起こっている出来事を見つめ続けてきたことをここで中断します。彼は今まで自分がこの問題を何とかしないといけないと考えてきました。だからその問題を見つめ続けてきたのです。ここで彼はそれをやめる決断をくだします。その上で詩人がしたことは、神の御業を見つめなおすことでした。今で神が自分や自分の祖先たちに対して、どんなに恵み深くまた、素晴らしい御業を示し続けてきてくださったかを見つめなおしたのです。そして、彼はそれを見つめなおすことで神への信頼を回復して行き、そこから力を受けることができたのです。
この時、弟子たちにとって大切なのは自分を苦しめている嵐に対する情報ではありませんでした。そうではなく、自分たちと共に舟に乗っておられる方がどのような方であるかを知ることだったのです。
「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)。
イエスの「黙れ、沈まれ」と言う御声によって風がやみ、湖は凪になったと語られています。これはイエスこそが天地万物をその御声によって創造された神であることを示す出来事であると言えるのです。私たちと共に舟に乗っておられる方、私たちと共に信仰生活を歩んで下さっている方であるイエスは天地万物を創造し、それを支配されている方であることがこのことから分かるのです。
イエスはこの時、弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(40節)。これは弟子たちに対して「あなたたちはどうして自分を信頼しないのか」と言う意味を持った言葉となっています。
私たちが自分の人生に起こる出来事を見つめていてもイエスに対する信頼は少しもそこからは生まれてくることはありません。むしろ、その行為は私たちを不必要な恐怖に追い込ませるだけなのです。私たちはだから詩編記者と同じような決心をすべきなのです。嵐のような人生の危機の中で私たちは私たちと共におられる主イエスを知ることに全力を注ぐことを。だから私たちは聖書の中でご自身のことをつぶさに教えてくださるイエスに目を向けて、その方と生きる決心をしたいのです。そうすればこの嵐のような試練は、私たちの信仰をさらに成長させ、イエスとの絆を深めるものになるのです。なぜならこの嵐は私たちの人生に本当に平安を与えてくださる方こそ主イエスであることを私たちに教えているからです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
湖の上で激しい突風に悩まされ、舟が沈み、自分たちは溺れてしまうと恐れた弟子たちにイエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語られました。私たちもこの弟子たちと同じように試練の中でいつも恐れるばかりで何もできない者たちであることを告白します。そして本当は肝心な時に何の役にも立たないこの世の知恵や力に心を奪われてしまう者たちです。しかし、主イエスはそんな私たちを見捨てることなく信仰生活をともに歩んでくださる方であることを覚えます。私たちが私たちと共に生きてくださるイエスに心の目を向けることができるようにしてください。私たちにイエスのすばらしさとその力を教えてくださり。私たちがそのイエスを信頼して生きていけることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.夕方になってイエスは弟子たちに何と言われましたか。どうしてイエスはそのようなことをここで彼らに言われたのだと思いますか(35節)。
2.彼らの乗った舟が湖の沖に出ると、そこで何が起こりましたか(37節)。
3.この出来事を経験した弟子たちはどうなりましたか。そのときイエスは同じ舟の上で何をされていました(38節)。
4.起き上がったイエスはそこで何をされましたか(39節)。この出来事はイエスについて私たちにどのようなことを教えていると言えますか。
5.どうして弟子たちはイエスから「なぜ恐れるのか。まだ信じないのか」(40節)と言われたのでしょうか。このときの弟子たちの信仰はどのようなものだったのでしょうか。この物語を通してあなたも今、自分の信仰について考えて見ましょう。
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