2018.2.4 説教 「人に知られないまま育つ種」


聖書箇所

マルコによる福音書4章26〜29節
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」


説 教

1.マルコによる福音書だけに記されたたとえ話
①共観福音書について

 皆さんもご存知かも知れませんが、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカと言われる三つの福音書を総称して『共観福音書』と呼ぶことがあります。この三つの福音書は内容的に共通している部分が多いため、内容的に大きく異なっているヨハネによる福音書とは区別して教会では『共観福音書』と呼んでいるのです。聖書学者たちの見解によれば三つの福音書の内容が共通している理由はこの三つの福音書が互いに共通の資料、イエスやその弟子たちに関して伝えられた伝承資料を使っているからだと言われています。特にマタイとルカは、福音書の中で一番最初に記されたこのマルコによる福音書を参考にしていたと考えられているのです。誤解の内容に言えば私たちが今、持っている聖書の順番は書かれた順番で並べられているのではありません。福音書の中で最初に書かれたのはマタイではなくマルコによる福音書であると言うのがほとんどの聖書学者たちが共通に持っている見解です。他の二つの福音書はこのマルコによる福音書にさらに自分たちの持っている資料を付け加えながら書かれたものだと考えられているのです。もちろん、それぞれの福音書はその福音書を記した記者の編集意図によって作成されていますから、同じお話を紹介していても、その内容に様々な違いが表れます。それぞれの福音書はそれぞれ豊かな個性を持って、イエスの生涯や言動を描いているからです。だから、私たちは三つの福音書の内容が必ずしも完全に一致していないことで、悩む必要はないと言えるのです。むしろ、この三つの福音書を読むことによって私たちの主イエスに対する知識はさらに豊富になり、より理解が深まると考えてよいのです。

②勘違いした聖書の読み方

 今日、私たちが取り上げるイエスのたとえ話には種蒔きの話が記されています。イエスはこのすぐ前にやはり種蒔きに関するたとえ話を語っています(4章1〜20節)。内容的には異なりますが同じ種蒔きの話を使ってイエスは神の国の真理について弟子たちに教えられているのです。ところが、前に出て来た種蒔きのたとえ、つまりこの新共同訳では「種を蒔く人のたとえ」と言う題名が付けられていますが、このたとえ話はマタイとルカの二つの福音書もマルコと同じように取り上げています。しかし今日の部分のたとえ話「成長する種のたとえ」は他の二つの福音書では全く触れられていないのです。これはどうしてなのか、どんな理由があって後から記されたマタイとルカはこの話を福音書から除外してしまったのかと言う問題が聖書学者たちの関心の的になります。しかし、聖書をいくら調べてもこの問題に対する明確な答えを見つけることは誰にもできません。どうしてマルコが取り上げたこの物語をマタイとルカは不採用として取り扱ったかについては聖書のミステリーの一つと考えてもよいのです。
 この問題を取り上げたある説教者は一つの推理として、この物語を人々に伝えることで信仰についての誤解が起こらないようにと用心したために、マタイとルカはこの物語を不採用にしたのではないかと語っています。その理由として、この物語の中には「土はひとりでに実を結ばせる」と言う言葉が記されています。この言葉を読んで「人には何もできない」、「人は何もしなくてもよい」と言う風に読むこともできると言うのです。そう考えて「信仰生活はすべて神さま任せで、自分は何もしなくてもよい」と誤解してしまう人ができてくるのではないかと推理するのです。だから、マタイとルカはこの危険を避けるために今日のこの物語を取り上げなかったと言うのです。もちろん、これはあくまでも一人の説教者の個人的な見解であり、推測でしかありません。
 しかしこの推測の真偽がどうであれ、このたとえ話が「私たちは何もしなくてもよい」と言うことを教えているのでないと言うことは確かであると言えます。むしろこのたとえ話をそのように勘違いして読み込んでしまうのは、この物語に責任があるのではなく、人間の側の願望、つまり「何もしなくてもよい」と思いたい願望がこんな勘違いをさせているのです。ですから、私たちが聖書を正しく読むためには、まず私たちが勝手に描いた願望を棄てて聖書の言葉を読むべきであると言えるのです。

2.人の目には隠されている神の御業
①植物の成長に働く隠された力

 それでは今日のこのたとえ話は私たちに何を教えているのでしょうか。先の種を蒔くに人のたとえ話でも触れましたように農夫には種を蒔くと言う重要な使命がゆだねられています。農夫が種を蒔かなければその畑から作物が芽を出すことはできませんし、豊かな収穫を期待することもできません。確かに農夫の働きはこの点において重要です。しかし、農夫が働くだけでは種が成長し、実を結ぶことはできません。種の成長には農夫以外の力が必要だからです。
 私は毎週日曜日の晩に日本テレビで放送されている『鉄腕ダッシュ』と言う番組を見るのが好きです。TOKIOと言う少し年を取ったアイドルグループのメンバーたちが農作業などに従事する姿を紹介する番組です。彼らは農作業の専門家たちのアドバイスを聞いて畑を耕したり、田んぼに苗を植えたりします。しかし、必ずしもいつも彼らの期待した通りの結果が出るわけではありせん。自然の環境の変化によって、思いもかけない出来事が起こります。収穫ができなときもあるのです。
この番組を見ていると私にも、農作業の大変さがわかります。人間は種を蒔き、その成長を見守り、必要があれば様々な農作業をします。しかし、肝心なところでは人間は植物の成長を見守ることしかできません。イエスはこのたとえの中で「どうしてそうなるのか、その人は知らない」(27節)と語っています。この言葉は種が成長し、実を結ばせる過程の中で人間が直接関与できるところは少ないこと、そして植物の成長には人間の知識が入りこむことができないような神秘的な力が隠されていて、その力が植物の成長に決定的な影響力を持って働いていることを私たちに教えようとしているのです。

②自分が見ている部分だけで考えてしまう誤り

 この話がイエスから弟子たちに語られた背景として考えられることは、イエスの弟子たちが目の前に起こる出来事だけを見て、すべてが分かったような気持になっていたことです。たとえばイエスの活動を通して確かに多くの人々がイエスの周りに集まりました。それだけを見ると神の国が実現する時が近づいていると弟子たちも考えることができたはずです。ところが、イエスの周りに集まった人々の大部分は自分にとって都合のいいことだけを考えて集まって来た人々でした。だから彼らは、自分たちの期待に反する現実に出会うとすぐにイエスの元を離れてしまうのです。そして弟子たちがそれを見れば、「これは失敗だ。イエス様、もっとやり方を変えてください。そうしないと神の国は実現できません」と言いたくなるはずなのです。イエスはこのように目の前に起こった出来事だけを見て簡単に結論を下してしまう弟子たちに、むしろあなた方が見ていないところで、弟子たちの知識の及ばないところで神の国は着実に実現しようとしていることを教え、神の救いの計画は着実に進んでいると言うことを彼らにたとえ話を通して語ったのです。
 信仰生活は私たちの目に見えることだけですべてが進んでいるわけではありません。私たちの救いは私たちが経験する日常の出来事の背後で働く神の力によって実現するからです。なぜなら、私たちを救ってくださるのは神の御業だからです。私たちはこの神の御業が実現することを待ち望んでいます。そして、その神の御業に信頼を置く者は、たとえ今、自分の目の前に起こる出来事が自分にとって不都合な現実であっても、それだけを見て結論を下し、絶望してしまうと言うことはないのです。むしろそのような現実に出会っても、希望を持って自分に与えられた仕事を忠実に続けていくことができるのです。
ですからイエスは私たちに「あなたは何もしなくてもよい」とこのたとえ話で教えているのではありません。むしろ、私たちに目の前で起こる出来事だけを見て一喜一憂して、心乱されるのでなく、自分ができることを続けてやっていくことが大切であることを教えているのです。そうすれば、必ず私たちは最後のときに「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(29節)と言う言葉の通り、神の御業によって実現する救いの恵みを私たち自身が喜びをもって収穫するときがやって来るのです。

3.私たちの知らないところで実現する伝道の実

 以前、牧師や長老の集まる会議でこんな話を聞いたことがあります。一人の牧師が長く勤めていた教会を離れることになりました。その牧師はその会議で、「期待されたような働きを自分は成し遂げることができなかった」と自分がその教会を離れる理由を語ったのです。「自分は牧師として熱心に伝道したが、結局はその伝道の実を得られぬまま今日に至ってしまった」と言うのです。そしてその一つの例としてこんな話をしていました。一人の青年が信仰を求めて教会にやって来たので、自分は何年もその青年のために聖書を教えたり、様々な指導をして面倒を見て来た、ところがその青年は結局、自分の教会を離れて他の教会で洗礼を受けてしまったと言うのです。結局、自分がその青年のために傾けたことは失敗だったと言うのです。おそらく、牧師の多くは同じような経験をして苦しんだことがあるはずです。だから、私も他人事とは言えないような気持でその牧師の話を聞いたのです。
すると、その牧師の話を聞いていた他の教会の一人の長老がこんな発言をしたのです。「先生はその青年を自分の教会のメンバーにできなかったことで失敗だったと言っているが私はそうは思いません。そもそも、その青年が他の教会で洗礼を受けてクリスチャンになることができたのは、先生が一生懸命にその青年を指導して来た結果ではないですか。先生の働きはその青年をキリストに導くと言うことでは成功したと思うのです」。
 私がその話を今でも忘れることができません。なぜなら私もその牧師のようなことを考えて、気落ちしてしまうことが多いからです。なぜなら私も目の前に起こったできごとだけを見て、すべての判断を下してしまう傾向があるからです。そして簡単に、自分は失敗したと考えてしまうのです。
 確かに、私たちが伝道のために何かをしたとしても目に見える効果を実際に体験することは多くはないと思うのです。そしてそんなとき私たちは「あんなに時間を使って、また多くの犠牲を払ってなしたことは無意味になってしまった」と結論づけることが多いのです。しかし、私たちにできることは種を蒔くことだけです。そして、その種を実りあるものとするのは神の御業なのです。そして神は私たちの種蒔きの業を用いて、必ず神の国を実現し、私たちの世界に救いを実現してくださるのです。
 私たちの知らなにところで私たちが蒔いた種が成長していることを私たちは覚える必要があると思います。私たちが語った福音の言葉が、私たちが配布したチラシが、誰かの心に影響を与え、そしてその人の心の中で成長していくことを私たちは覚える必要があります。だから私たちは目の前の現象だけを見て気落ちすることなく、伝道の業に励むべきなのです。たとえ、その人が私たちの知らない教会に行って、そこで洗礼を受けたとしても、私たちの働きは神によって確かに用いられるからです
 実際、私たちの求道の生活を思い出しても、それは真実だと言えるのではないでしょうか。私たちが教会に行き、そこで洗礼を受け、クリスチャンになるまでに私たちもまた様々な人々の手助けを受けてきたのではないでしょうか。もしかしたらその手助けをした人は、私たちが今、このように信仰を得て、クリスチャンとしての生活を送っていることを知らないかもしれません。しかし、彼らの働きがなくては、私たちは今の信仰生活に入ることはできなかったのです。私たちの伝道に傾ける種蒔きの働きも同じです、私たちが知らないところで、私たちの蒔いた種は実を結ぶのです。なぜなら神がその種を成長させてくださるからです。そのことを信じて私たちは、自分にゆだねられた業を忠実に行い続けていくことが大切なのです。

4.私たちの人生に働く神の働きを信頼する

 「その人は知らない」。これは私たちが行う伝道の行為だけを教えているのではありません。私たちの人生に起こる出来事についても私たちは同様の理解を持つことが大切なのです。なぜなら私たちは自分の人生に対しても目の前に起こる出来事だけを見て早急に判断を下して「意味がなかった。失敗した」と考えてしまうことが多いからです。
 先日、「あさのことば」の放送である韓国人の宣教師が興味深いたとえ話を語っていました。白紙の上に書かれたたくさんの点はそれだけでは何の意味も持ちません。しかし、画家はその点と点を巧みにつないで一つの見事な絵を描くことができます。また私たちが知っている言葉の単語も同じです。単語が無秩序に置かれていてもそれだけでは文章にならず、意味を持ちません。しかし、詩人はその単語を巧みに並べることで美しい詩を作ります。また作家はその単語を使って見事な小説を完成させるのです。その宣教師は私たちに人生に起こる数々の出来事も同じだと語ります。私たちは白紙の上の一つの点だけを見て、無秩序に置かれた単語の一つだけを見て、「意味が分からない」と嘆いたり、苦しみます。しかし、私たちの神は私たちの人生に起こる様々な出来事を画家や作家のように見事につないで、素晴らしい作品としてくださる方なのです。
 私たちが知っていることは、私たちが見ていることは神の国にとってわずかな部分に過ぎません。しかし、神はそれらを使ってすばらしい神の国を必ず実現して下さるのです。私たちの救いを完全に実現してくださるのです。だから私たちは目の前に起こった出来事だけを見て、早急に自分の人生に判断を下してしまうことを避ける必要があります。むしろ、私たちの人生を導いてくださる神を信頼して、神と共に歩む生活を今日も続けていくべきなのです。そうすれば私たちも神が実現してくださる豊かな収穫のときに加わることができるからです。


祈 祷

天の父なる神さま
 種を蒔く農夫は、種が成長する理由を詳しくは知らなくても、その成長を信じて種を蒔き続けます。なぜなら、あなたの御業によって種は芽を出し、成長し実をつけることを知っているからです。私たちはそのあなたの御業を忘れてしまい、目の前に起こった出来事だけを見て、勝手な結論を付けてしまう過ちを犯します。どうか私たちの信仰の目を私たちの目では見えないあなたの御業に向けさせてください。私たちにとって厳しい現実があったとしても、それで諦めてしまうのではなく、私たちが忠実にあなたからゆだねられた業を続けることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは何を教えるためにこの「成長する種」のたとえを語られましたか(26節)。
2.このお話の中に登場する人は何をしていますか。順を追ってその行動を確かめてみましょう(26〜29節)。
3.このたとえ話の中に「どうしてそうなるのか、その人は知らない」(27節)と言う言葉が記されています。また、「土はひとりでに実を結ばせる…」(28節)と言う言葉も語られています。イエスはこのような言葉を使って私たちに何を教えようとしているのですか。
4.あなたは目の前に起こった出来事を見て、早急に結論をくだしてしまうことはありせんか。私たちはそうすることによって、どんな過ちを犯す恐れがありますか。
5.私たちが神から与えられた使命を忠実に続けていくために、このたとえ話は私たちに何を教えていますか。