2018.3.11 説教 「主の服にさわる女」


聖書箇所

マルコによる福音書5章25〜34節
25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」


説 教

1.旧約聖書が語る「汚れ」
①「汚れ」を気にする日本の習慣

 ときどき、キリスト教葬儀を司式していて、その葬儀の列席者に「お清めの塩はありませんか」と尋ねられることがあります。ご存知のように日本の葬儀に参加すると、出席者に配られる返礼品の中に必ずと言っていいほど清めのための塩が入っています。私は日本の習俗について詳しいことを知らないのですが、日本では昔から汚れを払って清めるために塩がよく用いられるようです。お相撲さんが勝負の前に土俵に塩をまくのも、単なるパフォーマンスではなく、日本の古い習慣に従っているからです。日本では昔から葬儀の際に必ずお清めの塩が配られる習慣があるのです。それでは、なぜ葬儀に出席した人にはお清めが必要なのでしょうか。それはおそらく私たち日本人の先祖が人間の死を清くないもの、不浄なものと考えていたからではないでしょうか。だから、葬儀に出席した者は自分が不浄な死の影響を受けることがないように、お清めの塩を使う必要があるのです。
 私は葬儀の際に「キリスト教では死は不浄なものと言う考えはありません。だから、お清めの塩を配ることをしないのです」という説明をすることがあります。そしてほとんどの人はこの答を聞いても困ったような顔をされます。現代のキリスト教会では「汚れ」というような問題を取り扱うことはまずありません。だから、神を礼拝するために滝に打たれて自分の身を清める必要があるとは決して教えることがないのです。

②汚れを問題にする旧約聖書

 しかし、これは新約聖書の時代に生きる私たちには当然のことですが、それ以前の旧約聖書の時代に生きた人にとっては違っていました。なぜなら、旧約聖書では人間の死は不浄なものとして取り扱われているからです。だから、人間は極力、その死の影響を受けないように日常生活することが求められているからです。

「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」(民数記19章11節)。

汚れた者は神を礼拝することができないと言うのが旧約聖書の中に記されている大切な掟です。有名なところではイエスが語られた「善きサマリア人」のたとえと言うお話があります。あの物語では強盗に襲われて半殺しにされて、道端に倒れている旅人が登場します。そしてこの旅人の前を当時、エルサレムにあった神殿で神を礼拝するために働いていた人たち、祭司やレビ人が見て見ぬふりをして通り過ぎて行ってしまいます。聖書には詳しい説明が記されていませんが、彼らがなぜ倒れている旅人を助けなかったのかと言えば、もしその旅人が死んでいたとしたら彼らは自分が汚れてしまうことを恐れたためだと考えられるのです。なぜなら死体に触って汚れたものは一定期間、清めのために神殿での奉仕を行うことができなくなってしまうからです。だから彼らは神殿での自分の務めを優先させたために、死んでいるかどうかわからない旅人に近づくことを避けたと考えることができるのです。祭司やレビ人たちは倒れている旅人を見ても「可哀想だが、仕方がない」と考えてその前を通り過ぎていったと説明することができるのです。
旧約聖書には人を「汚すもの」として遠ざけなければならない事柄が他にも記されています。ご存知のように「らい病」(新共同訳では「重い皮膚病」)などはその代表的な例です。それではどうして聖書はこのように死や病気を「汚れた」ものとして取り扱っているのでしょうか。おそらく、最初に神によって創造された人間は死や病とは縁のない存在として作られたと言うことがそこには関係しているのかも知れません。なぜなら聖書によれば、人間の病や死は最初の人間が犯した罪によってこの世界に入り込んだものだと考えられているからです。だから旧約聖書の掟は神を礼拝するときにこれらの汚れを持ち込んではならないと厳しく戒めているのです。
実は、今日の聖書のお話を考える際にも、この「汚れ」という問題を抜きにしては正しく理解することができないのです。なぜなら、今日の物語に登場する一人の女性がとった行動の中にもその影響が表されていると言えるからです。

2.イエスに触れた女性

 今日の物語に登場する一人の女性について聖書は次のような解説を加えています。

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(25〜26節)。

十二年間と言う長期にわたって病気で苦しんでいる女性がここに登場しています。何度も以前にお話したと思いますが、聖書の中で十二と言う数は特別な意味を持っています。ですから、この十二年間という数は単なる病気を患った年数を表すだけではなく、彼女の人生にこの病が決定的な影響を与えていたことを示す数字であるとも言えるのです。おそらく彼女はこの病のために人生が全く変わってしまうような経験をしていたのです。彼女はもちろんこの病を治すことを強く望みました。だから「多くの医者にかかって」治療を受けたのです。しかし、その治療は彼女を癒すことはできませんでした。むしろその医者たちは彼女を「ひどく苦しめた」と説明されています。どんなに藪医者であってもその治療を受けたからにはその医療費を支払わなければなりません。結果として彼女はこの病気のために全財産を失ってしまいます。その上で病気は「ますます悪くなるだけであった」と言うのです。財産も失い、病気もますます悪くなる、これほど不幸なことはありません。
さきほど「汚れ」の問題をお話しましたが、彼女を苦しめたのは単なる病気の苦しみだけではなかったようです。なぜなら旧約聖書には出血のある女性は汚れていると説明されているからです(レビ記15章25節)。ですから、この出血が止まらない女性は12年間の間、人々から汚れた存在と見なされて来たのです。汚れた者は神を礼拝することができませんし、また汚れた者と接触する者もそのままでは神を礼拝することができなくなります。神殿で神を礼拝することが最も大切なことだと教えられて来たイスラエルの人々にとって、「汚れた者」はその社会生活からも排除しなければならない者と考えられました。だから、彼女は病気の苦しみだけではなく、おそらく人間関係においてもこの病のために人々に疎まれていたと考えることができるのです。その結果、彼女は治らない病気のために一人ぼっちとなって孤独な苦しみを続けなければならなかったのです。
しかし、このような女性の人生に大きな転機が訪れたことを聖書は私たちに教えています。その転機とは彼女が「イエスのことを聞いた」という出来事によって始められています。誰かが彼女にイエスのことを告げたのです。彼女にイエスのことを告げた人は、それによって彼女の人生が大きく変わってしまうことなど想像もしていなかったかも知れません。しかし、誰かがイエスのことを伝えなければこの物語の出来事は起こることがありませんでした。そのような意味で「イエスのことを伝える」という働きが私たちにとっても重要であることが分かるのです。なぜなら、神は「イエスのことを伝える」人の働きを通して、今でも大いなる業をこの地上に起こそうと思われているからです。
3.信仰とはイエスと関係を結ぶこと
①善きものはすべてイエスを通して与えられる

 彼女はイエスのことを聞いて、「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と語られています。彼女はイエスの前に進み出て、「どうかわたしをお癒し下さい」と願ったのではありませんでした。群衆の中に隠れるような形でイエスに近づき、後ろからイエスの着ていた服に触れたというのです。その理由は先ほどから言われているように、彼女は旧約聖書の決まりのために人に触ってはいけない立場にあったからです。特にファリサイ派と呼ばれる聖書の専門家たちはこの「汚れ」という問題に対して細心の注意を払っていました。ですから彼女がイエスに近づくことは強い非難の対象になる可能性があったのです。
 彼女が後ろからイエスの服に触れた訳は他にもありました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」(28節)と彼女が思ったからだと聖書はそれを説明しています。つまり、彼女は後ろからただ漠然とイエスの服を触った訳ではないのです。彼女がイエスの「服にでもさわればいやしていただける」と信じた、その信仰の表現がイエスの服に触れると言う行為として表されたと言うのです。
 ここに信仰についての一つの明確な定義が語られています。私たちにとって信仰とは、自分の人生にとってのすべての祝福がイエスを通して与えられることを信じることにあると言うことです。世の多くの宗教は信仰を一つの修行のように考え、また教えています。その教えに従って生きれば自分の中から今までは隠されていた何か優れたものが表れると考えているからです。しかし、この点においてキリスト教信仰は全く違った性格を持っています。なぜなら、どんなに私たちが修行を積んでも、私たちの内側からはよいものは何一つ生まれてこないからです。私たちの人生を祝福に導く、すべてのよきものは私たちの内側からではなく、イエス・キリストから私たちに与えられるものなのです。信仰とは私たちがその事実を認めて、すべての善きものをキリストからいただくことだと言えるのです。
 聖書はそのことを次のように表現しています。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」。イエスの側から力が出て、この女性にその力が入っと言うのです。だから彼女はイエスの服に触れると「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」と記されているのです。

②イエスと関係を結ぶ

 この後、イエスは自分に触れた人物を捜し出そうとされています。女性は誰にも分からないようにイエスに触れました。おまけに、イエスの周りにはたくさんの群衆が取り囲んでいました。おそらく、この女性以外にもたくさんの人がイエスの衣や体に触っていたはずです。だからイエスの弟子たちは、「捜し出すなど到底無理だ」とイエスに語っているのです。しかし、彼女は他の人々のように漠然とイエスに触った訳ではありませんでした。イエスに信仰を持って触れたのです。そしてイエスはその女性の行為がどのようなことを意味しているかを教えるために、ここで自分に触れた人物を捜し出しそうとしたのです。

 「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」(33節)。

 イエスに信仰を持って触れた女性は、ここでイエスの本当の力を知ることになりました。なぜなら、イエスは私たちの思いをはるかに超える力を持った神の子であるからです。そしてイエスは彼女に語られました。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(34節)

 信仰を持ってイエスに触れる、それは信仰を持ってイエスとの関係を結ぶことです。イエスと共に生きる信仰生活を始めることです。そしてイエスは私たちにとってどんなにこの信仰が大切であるかを言葉に表して教えています。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。なぜなら、信仰こそが私たちがイエスから祝福をいただく唯一の方法だからです。

4.死と病の意味を変えてられたイエス

 私は以前、改革派教会とは違う立場の信仰を持った牧師が司式する葬儀に出席したことがあります。その牧師はそこで「神さまを信じればどんな病気も癒される。医者が治せない難病も癒されることができる」と語り、難病から癒された人の体験談を次々と紹介していました。私はこのとき、その説教を聞いていてとても疑問に思った思い出があります。なぜなら、私はこの話を聞いていたとき、そこで葬儀が行われている亡くなられた本人が病気になって死んでしまったのは結局、信仰が足りなかったからだと言っているように思われたからです。それはおそらく、私の説教の聞き方かが悪かったのかもしれないと今では思うのですが。
 実は私が最後にお話したいのは、この最初に触れた「汚れ」の問題ともつながって来る事柄です。つまり私たちの人生に起こる「病気」や「死」をどのように考えるかという問題です。実際、私たちは現在の信仰生活では旧約聖書の教えのように「汚れ」という問題を考えることはなくなっています。どうしてそうなのでしょうか。それはイエス・キリストがすべての「汚れ」をその身に一人で負ってくださり、それを解決してくださったからです。だから、病気も死も私たちにとってもはや「汚れた」ものではなくなっているのです。
実際にイエスは今でも、たくさんの人の病気を癒してくださっています。しかし、それよりも重要なことは病気の意味自身をイエスが変えてしまわれたと言うことです。イエスは生まれてからずっと目の見えない人にこう語りました。「この人の病は、この人の上に神の御業があらわれるためだ」と(ヨハネ8章)。イエスは病を通して私たちに人生に神の祝福が表されるとここで言っているのです。
 そしてこれは「死」の問題でも同じです。聖書は人間の死はキリストの勝利に飲み込まれた(コリント一 15章58節)と語っています。イエス・キリストの復活によって人間の死はもはや汚れの対象でも、また呪いの結果でもなくなってしまったからです。だから私たちにとってこの世での死と言う出来事されも、私たちが天国に凱旋するための祝福の入り口と変えられているのです。
 このようにイエスを信じる信仰によって私たちはイエスからすべての祝福をいただくことができるのです。今まで人間が「汚れた」もの、「呪われた」ものと考えていた病気や人間の死という出来事さえ、イエスは祝福に変えてくださるからです。私たちはこの祝福の源であるイエスを信じる信仰の大切さをこの物語からも学ぶことができるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 罪によって奪われてしまった祝福を取り戻すために、イエス・キリストが私たちの救い主となってくださったことを心から感謝いたします。すべての祝福はこの救い主を通して私たちに与えられることを信じます。信仰を持ってイエスの服に触ることで、その祝福を受けることができた女性のように、私たちも信仰を持ってあなたに近づくことができるように、私たちの信仰生活を導いてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.この物語に登場する女性はどのような問題で長い間、苦しんでいましたか(25〜26節)。
2.彼女が群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れようとしたのはなぜですか(27〜28節)。
3.彼女がイエスの服にふれるとどのようなことが起こりましたか(29節)。
4.イエスはこのときどのようなことに気づきましたか。そして何をされましたか(30節)。
5.このイエスの言葉と行動を見た女性は何を感じ、また何をしましたか(33節)。
6.イエスは自分の前に進み出て、ありのままを語った女性に何と言われましたか(34節)