2018.3.18 説教 「奇跡をおこなえないイエス」


聖書箇所

マルコによる福音書6章1〜6a節
1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6 そして、人々の不信仰に驚かれた。


説 教

1.聖書が取り扱う奇跡とは
①妖怪博士の挑戦

 東洋大学の創立者である井上円了は浄土真宗の僧侶であるとともに高名な哲学者としても知られている人物です。さらに彼は哲学者の本業の他にも「お化け博士」、「妖怪博士」という名前でも人々に知られています。なぜ、彼がそのような名前で人々から呼ばれるようになったかと言えば、彼が世で言われる超常現象を研究し続けた人物であったからです。彼の残した書物を読むと当時、世間を騒がせた怪奇現象に対する彼の研究成果が報告されています。彼はこれらの現象の真偽を明らかにしようとまじめに取り組みました。そして井上は数々の研究結果を披露して、多くの超常現象は人間の科学で証明できるもの、つまり、超常現象と呼ぶにはふさわしくないと結論付けています。
 もっとも井上はすべての現象が科学で証明できるとは考えはいませんでした。井上自身も人間の科学ではまったく説明のつかない「真怪」という現象を認めた上で、自分の研究対象がその真怪に当たるかどうかを科学的な思考と実験を行うことで確かめて行ったのです。
 井上が研究した対象のほとんどは当時の人々を騒がせ、不安や恐怖に陥れるような怪奇現象でした。その点では彼の働きはその怪奇現象のトリックを見破って、事件の当事者たちから不安や恐怖を取り払うことに大きな役目を果たしたと言うことができます。彼が活躍した明治時代の日本は西洋文明の影響を多大に受けながらもまだまだ、様々な迷信が世間を支配していた時代だったからです。彼の働きはそのような迷信から人々を解放し、人々が物事を理性的に判断するための助けを与えたのです。そのような意味で彼は「妖怪博士」と呼ばれながらも、確かに人間理性による判断を最も大切にする哲学者であったと言えるのです。

②聖書の奇跡は超常現象とは違う

 聖書には人間の理性や科学では決して証明できない出来事が数多く記されています。私たちが聖書を読み始めて最初にぶつかる問題の一つ、あるいは教会に来てキリスト教のお話を聞いて最初に感じる疑問はこの問題です。聖書が伝えている現代科学では証明もつかないような奇跡という出来事を私たちはどのように考え、受け取ったらよいのでしょうか。もちろん聖書は今から二千年以上も前の人々が書き残した書物ですから、その内容に科学的な説明を求めることは所詮無理なことであるとも言えるのですが。
 ただ、ここで私たちが決して間違ってはならないことがあると思います。それは聖書が報告する数々の奇跡は決して世で言うような超常現象の一つではないと言うことです。多くの超常現象には人を驚かせるくらいの意味しかその存在の理由がありません。しかし、聖書が語る奇跡には一つの大切な意味が隠されています。なぜなら聖書の奇跡は神の御業をいつも表しており、その神の御心を私たちに示すためにあるからです。どんなにその現象が自然現象では考えのつかないものであっても、神の御業に由来されない限り、聖書はそれを奇跡とは呼ぶことはありません。そのようなものは魔術や悪霊の仕業として片付けられてしまうだけです。ですから、聖書が示す奇跡は世に言う超常現象とは違って人を恐怖や不安に陥れるためのものではありません。むしろ人を神から与えられる救いと平和に導くものであるとも言えるのです。だから私たちがこれらの出来事に目を背けることなく、真剣に向き合うならば、必ず私たちはその御業を行ってくださる神と出会うことができるのです。
 私たちがもし、奇跡を通して現わされた神の御業を、私の考えに合わないと言って拒否してしまうならば、神を正しく理解することも、その神と出会って、神の祝福を受け取ることもできなくなってしまうのです。今日の物語ではそのような失敗を犯してしまった人々のお話が紹介されています。

2.イエスを理解できない人々
①イエスの故郷ナザレでの出来事

 今日のお話の舞台はイエスの「故郷」と記されています(1節)。イエスはガリラヤ地方の小さな村ナザレで育ちました。だから、その出身地の名前を付けて「ナザレのイエス」と人々は彼のことを呼んでいます。彼の養父であったヨセフはこの物語が起こった当時、すでに世を去っていたと考えられています。ですから、今日の物語の中に登場するイエスの家族の名前の中には彼の存在が触れられていないのです。ただ故郷の人々がイエスを「この人は大工ではないか」と言った点で、イエスとこのヨセフとの関係が示されているとも言えます。なぜなら、イエスの養父ヨセフもこのナザレの村で大工をしていたからです。イエスはその父の職業を引き継いで自分も大工になり、この故郷ナザレで養父亡き後の一家を支えながら暮らしていたと考えることができるのです。
 この物語が記される前にマルコ福音書はイエスが行われた奇跡をいくつか紹介しています。まずイエスはガリラヤ湖に起こった突風に命じて、それを静まらせると言う奇跡を行っています(4章35〜41節)。また、悪霊に取りつかれて苦しんでいたゲラサの人から悪霊を追い出し、彼を癒されました(5章1〜20節)。さらに12年間も出血の止まらない女性の病もその力によって癒されています(5章25〜34節)。そしてこの直前では病のために死んでしまった12歳の少女を生き返らせるという奇跡も行われているのです(5章35〜43節)。
 今日の物語はそれに続いて起こった出来事として報告されています。ここでイエスの生まれ故郷のナザレの人々は、すでにイエスについて語られていた噂をよく知っていたようです。しかし、故郷の人々はその噂を聞いて決して喜んでいた訳ではないようです。確かに彼らはこれらのイエスの噂を聞いて驚きましたが、その噂を事実として受け入れるこができなかったのです。それはどうしてでしょうか。

②このようなことをどこから得たのか

 神を礼拝する日とされていた安息日にイエスは会堂に入りました。そしてそこで人々に教え始められたと言うのです(2節)。当時の会堂では聖書についての訓練を受けた者が順番に聖書の解き明かしをすることができる習わしがありました。だから故郷の人々も安息日に会堂で教えられるイエスの話に耳を傾けたのです。ところがこのときイエスの話を聞いた聴衆はその話を聞いても驚いてしまいました。イエスも幼少時代はこの故郷の会堂で聖書を熱心に学んでいたのかもしれません。だから、そこにはかつてイエスに聖書を教えた人も、またイエスと共に聖書を学んだ学友もいたはずです。その人々が皆、イエスの話を聞いて驚いてしまったというのです。なぜなら、イエスの教えは今まで彼らがこのナザレの会堂で学んで来たものとは大きく違っていたからです。だから故郷の人々はこう言ったと言うのです。

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(2節)。

 先ほどの申しましたように聖書の語る奇跡は世で言うような単なる超常現象の一つではありません。なぜならこれらの奇跡は明らかに神の御業を私たちに表すものだからです。つまり、その奇跡の根拠を探ろうとする者は、必ず神に行き付かなければ納得がいかないようになっているのです。それはイエスが人々に語った教えも同じであると言えます。福音書は他の箇所でイエスの教えを聞いた人々が「その教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マルコ1章22節)と語っています。ここではイエスの教えには「権威があった」と言われています。この権威は神の権威を表すものです。なぜなら、イエスは神の元から遣わされた救い主であり、神の権威を持つ神の独り子であられるからです。だからイエスの教えとその御業に真摯に向き合うならば誰も、イエスが神の元から遣わされた救い主であり、神の権威を持たれる神の独り子であることを認めることになるのです。ところがこのときの故郷の人々は違っていました。なぜなら、彼らはイエスの教えと御業の根拠を自分たちがよく知っている知識の中に見出そうとしたからです。

 「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)。

 故郷の人々はこのイエスのことならよく知っていると思っていました。彼がこの村で幼い時からどのように育てられたか。彼の家族は誰であり、どのような人々なのかも知っていました。だから、彼らは自分の持っている知識を通してイエスの御業とその教えの根拠を知ろうとしたのです。しかし、これはイエスを御業と教えを自分たちの知っている知識の中に閉じ込めてしまうような過ちを犯す行為でもあったのです。
 それでは私たちがイエスを正しく理解するためはどのような方法を取ったらよいのでしょうか。

③探しやすいところで探してみても

 こんな小話があります。道で何かを捜している人がいました。それに気づいた人が何かを捜している人に尋ねました。「ここで何をしているのですか」。すると何かを捜している人が答えます。「実は大切な財布を無くしてしまったので、それを捜しているのです」。声をかけた人は「それは大変ですね。わたしも一緒に探してあげましょう」と一緒にその人が無くしたと言う財布を捜し始めました。ところが一生懸命に探しても財布は見つかりません。そこで声をかけた人が財布を無くした人に「本当にあなたはここで財布を無くしたのですか」と尋ねました。するとそこで意外な答えが返ってきたのです。財布を無くした人はこう答えたからです。「いえいえ、財布を無くした場所はここではありません。もっとむこうの薄暗い場所です。でも、ここの方が街灯がついていて明るいので探しやすいと思って、ここで財布を捜しているのです」と。
 故郷の人々は「ここの方が捜しやすいから」と考えて、財布を無くした場所とは全く違ったところを探す人と同じ間違いを犯していました。自分たちの知っている知識だけでイエスのことを判断しようとしたからです。これでは到底、本当のイエスの正体を知ることはできないのです。

3.イエスの奇跡を体験するためには
①イエスの正体を理解できない人々

 聖書の教える奇跡物語を現代人の知識にも受け入れやすいように、合理的に解釈する方法があります。しかしこれもある意味でこのイエスの故郷の人たちの犯した過ちと同じことをしていると言っていいかもしれません。「聖書はこんな風に言っているけれど、実はこれは科学を知らない古代人の表現の一つで、科学的にはこのように説明ができる」と聖書の奇跡を合理的に解釈する方法です。確かにこの方法を取れば奇跡物語に躓く現代人に聖書の教えを伝えやすくなるかもしれません。しかし、その方法を通して伝えられるイエスはいったいどのような方になってしまうのでしょうか。結局は人類の生んだ偉大なヒューマニストの一人として片付けられ、十字架の上で悲劇的な最後を遂げた人物としてだけ人々に受け取られるのが関の山であると言えます。聖書の教える奇跡を否定すれば、結局聖書が教えるイエスの本当の正体を理解することができなくなってしますのです。なぜなら聖書の教える奇跡は私たちを不安や恐怖に陥れるものではなく、私たちを真の救いに導き、神の平安にあずからせるためにあるからです。
 それでは私たちはこれらの出来事をどのように読めばよいのでしょうか。どのようにすれば正しい理解を得ることができるのでしょうか。最も大切なことは、その答えを同じ聖書の言葉の中に求めることです。新約聖書の伝える出来事の意味を旧約聖書を通して理解し、また旧約聖書の出来事は新約聖書の教えを通して理解する方法です。実は今日の物語はここで終わってしまうものではありません。イエスに対して正しく理解できない故郷の人々は、これから起ころうとするイスラエルの人々のイエスに対する無理解を示す序章に過ぎないのです。

②どうしてイエスは人となり苦しまれたのか

 私たちは今、イエスの受難の出来事、つまりイエスがこの地上の生涯で苦しみ受け、最後に十字架に付けられて殺されてしまったことを思い起こすために受難節の期間を送っています。なぜ、イエスは数々の奇跡を起こし、また権威ある教えを人々に語ったのに人々から憎まれ、最後に十字架に掛けられてしまったのでしょうか。それは救い主の到来を待望していた当時の人々が、「イエスは自分たちが期待していた救い主とは違う」と判断したからでした。つまり、彼らもまたイエスを正しく理解することができなかったのです。
 神の独り子であり、神の権威を持たれる方がどうして、貧しい大工の息子に生まれ、通常の人間と同じように苦しみながらその生涯を送られたのでしょうか。どうしてイエスは十字架にかかって死ななければならなかったのでしょうか。人々はイエスのことを正しく理解することができませんでした。それは実はイエスの身近に暮らした弟子たちも同じだったのです。
 しかし、聖書はイエスの復活の後に起こった弟子たちの変化を私たちに教えています。イエスの復活の出来事の後、彼らはこのイエスの正体を正しく理解することができるようになったのです。それはどうしてでしょうか。それは彼らが自分の知識の中でだけイエスのことを考えることを止めて、聖書の言葉からイエスのことを理解しようとしたからです。彼らが調べると確かに旧約聖書にはイエスの十字架の死の出来事がはっきりと預言されていたのです(イザヤ書53章)。だからこれ以後、弟子たちはイエスのことを聖書の言葉に基づいて理解し、また聖書の言葉に基づいて人々に教えようとしたのです。そしてこの方法がキリスト教会の中で受け継がれ、今私たちが聞いている日曜日の礼拝説教の原型となったのです。

 「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(5〜6節)。

 ある聖書解説者はこの物語を次のような言葉で説明しています。「イエスは故郷の人々の期待に見事に答えてここでは何の奇跡も行うことをされなかった」と。故郷の人々はイエスを単なる同郷人の一人、幼馴染の一人として片付けようとしました。だからイエスは、彼らの期待通りに故郷では彼らが知っていたイエスとして振舞って見せたというのです。前回学んだ、出血のとまらない女性の癒しの物語でイエスはこの病が癒された女性に対して「あなたの信仰があなたを救った」(5章34節)と語られています。確かにこの女性はイエスの癒しを受ける前から「(イエスの)服にでも触れれば癒していただける」(同22節)と考えていたことが聖書に記されています。つまりイエスは彼女が信じた通りに、ここで御業を行われたのです。
私たちが聖書の言葉にもとづいて正しくイエスを理解し、またその聖書の約束に基づいて救い主イエスを信じるならば、私たちもまたイエスを通して実現する神の御業を体験することができることを今日の物語を通しても私たちはもう一度確認したいと思います。


祈 祷

天の父なる神さま
 私たちに救い主イエスを遣わしてくださったこと、そしてそのイエスが私たちのために人間となられ苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださったと出来事を私たちが正しく理解できるようにみ言葉と聖霊の御業によって私たちを助けてください。私たちが自分勝手な考えで救い主イエスを誤解してしまうのではなく、み言葉に基づく正しい理解を持って信じ、イエスの御業を体験した人々と同じような恵みを信仰生活でいただくことができるようにしてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの故郷の人々はイエスが会堂で語られた教えを聞いてどのような疑問を抱きましたか(2節)。
2.彼らはこの疑問に対する答えをどこから求めようとしましたか(3節)。それは正し方法といえるでしょうか。
3.イエスはこのような無理解を示す故郷の人々の態度を見て、何と語られましたか(4節)。
4.どうしてイエスは故郷では「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のでしょうか(5〜6節)。