1.神の国の福音とは
最近では私たちの周りでも外国から来られた方がたくさん住むようになりました。今とは違い、私が子供時代を送った茨城県の田舎では一見して日本人ではないような人が歩いていると「外人、外人」とみんなで騒ぎ立てた記憶があります。それほど外国の人の姿を見るのが珍しかったのです。ところが、今の日本ではそうではありません。外国の人の姿を見ても誰も驚くようなことはまずなくなりました。むしろ、日本政府は人口減少による労働力の不足を補うために研修生などと名付けて、たくさんの外国の人々を受け入れるようになっています。しかし、それも一定期間だけ日本で働くことが許されると言うことで、彼らも日本に永住する許可を受けることはなかなかできないようです。むしろ現在でも日本政府は不法に滞在し続けるたくさんの外国の人々を取り締まり、彼らを本国に強制的に送還する手続きを行っています。このように日本に外国の人が長くとどまることは今でも難しいのですから、さらに彼らが日本国籍を得ると言うことはほとんど不可能に近いと言ってよいのです。
私たちの救い主イエスは父なる神から遣わされてこの地上にやって来てくださいました。そして彼は神の国の福音を人々に伝えました。それではイエスの伝えた神の国の福音とはいったい何なのでしょうか。神の国の福音を簡単に言ってしまえば、イエス・キリストを信じるすべての人々が神の国の国籍を得ることができると言う知らせだと言えるのです。だから使徒パウロもイエスを信じる者の国籍は「天にある」(フィリピ3章20節)と断言してます。
それでは私たちがこの神の国の国籍を受けるということはいったいどのような意味があるのでしょうか。まず第一にこの国籍が与えられている者は神の国、天の御国に胸を張って入国することができるようになると言うことです。イエスを信じた私たちはこの国籍を与えられているからこそ、天国に行くときに不法入国者とはみなされて追い返されることは決してないのです。この国籍を持つ者は神の国で喜びを持ってイエスと共に永遠に暮らすことができるのです。
さらに神の国の国籍を持つ者に与えられている第二の祝福は、私たちがこの地上にあっても神の国の国民としてその神の保護を受けて生きることができるようになると言うことです。日本政府の発行したパスポートを持つ者はどんな国に行って、日本国民としての権利を主張することができます。そして日本政府はその人たちを保護する責任を持っているのです。イエス・キリストによってこの神の国の国籍を得た私たちを神はいつもでも、どこにあっても手厚く保護し、守ってくださるのです。このように私たちが神の国の国籍を持つということは私たちの人生にとって最大の祝福であると言えるのです。
私たちがこの神の国の国籍を受けるためにすべきことは「悔い改めて福音を信じること」(マルコ1章15節)だとイエスは語っています。つまり、救い主イエスを信じることこそがこの国籍を私たちが受けるために必要な唯一の条件と言えるのです。だからこそ、イエスはこの神の国の福音を多くの人々に伝えようとしたのです
2.どうして福音を伝えなければならないのか
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。
神の愛は神が私たちのために救い主イエスを遣わしたところにはっきりと示されているとヨハネの福音書は私たちに教えています。そして、イエスはこの神の愛を伝えるために様々なところに出て行って、神の国の福音を伝えたのです。今日の箇所ではこのイエスが12人の弟子たちを選び、福音宣教に遣わされたという話が記されています。
使徒パウロは福音を人々に伝えると言う使命の重大さを次のように語っています。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(ローマ10章14〜15節)。
神の国の福音は修行をすれば自然とわかって来ると言う代物ではありません。誰かが教えなければ福音は知ることはできないのです。だからすでに福音を知らされ、それを信じた者たちには、さらにその福音を他の人々に知らせるという任務が神から与えられているのです。神の愛はこの福音宣教を通して実現していきます。今日の部分ではこの重要な使命をイエスが弟子たち与える際に語った、いくつかの指示が語られています。
3.伝道の主役はイエス
①人を信仰に導くのは神の御業
私たちは今、毎月一回の水曜日の晩に「伝道と神の主権」という神学書を集まった人たちと共に学んでいます。イギリスの有名な神学者が書いた書物でたいへん読み応えのある本で、伝道についての聖書の考え方を私たちに教えています。そこで、何度も言われているのは人を救いに導くのは神の業であって人間の業によるものではないと言う点です。ときどき、信仰者の証しの中で「私は今まで何人の人々を神に導きました」という言葉を耳にすることがあります。求道者がイエスを信じて洗礼を受け、クリスチャンになったことを「わたしがしたことだ」と言っているのでしょうか。もしそうだとしたら、それは誤りであるとこの勉強会のテキストは私たちに教えているのです。その上で私たちにできることは「福音を伝えることだけだ」とこの神学者は語っているのです。もちろん、この神学者も私たちが福音を人々に伝えるために細心の注意を傾けることが大切であることを教えています。相手に丁寧に福音を伝えることは決して疎かにしてはならないのです。しかしその伝えられた福音を聞いた人が信仰を持つようになるのは神の業、聖霊なる神の御業であって、人間の業ではないのです。
今日の箇所でイエスは12人の弟子たちを選んで、福音宣教のために彼らを派遣しています。イエスはその際に弟子たちが伝えるべき福音の内容を教えるのではなく、その福音を伝える者たちがどうあるべきかと言うことを教え、指示を送っています。ところで、このイエスの指示は同じ出来事を伝えるマタイやルカでは微妙にその指示の内容が異なっています(マタイ10章9〜15節、ルカ9章1〜6節)。この問題を取り上げたある聖書解釈者はそこに記されている内容の違いに注意を向ける必要はないと私たちに教えています。なぜなら、弟子たちにとって大切だったのはイエスが教えた指示通りに行動すると言うことだからだと言うのです。それではどうして弟子たちはイエスの教えた指示通りに行動することが求められたのでしょうか。それは弟子たちの働きを通してイエスご自身が福音を伝える働きをされるためなのです。だからこの物語の主役もイエスご自身だと言えるのです。イエスこそが福音を伝え、人々を回心に導くことのできる唯一のお方だからです。
②イエスが働かれるために必要なこと不必要なこと
12人の弟子たちはイエスによって二人一組に分けられて宣教旅行に派遣されました。ときどき、草加松原の川杉先生と話しているときに「そこはそうではなくて、こうだ」と私が語った発言を直されることがあります。私と川杉先生は神学校の時からの同級生で共通の体験を多く持っています。だから、私がした体験を思い出して語るときに、川杉先生が「そうじゃなくて、こうだった」と言ってくるのです。どちらかと言うと私の記憶は大雑把ですから、川杉先生の記憶の方が正しいことがよくあるのです。もちろん、私の方が川杉先生に「そこはそうじゃない」ということもごくたまにはあるのですが。
二人一組と言うのは弟子たちが伝えるべき福音の内容の正確性を保つためだと考えられています。ユダヤでは昔から一人だけの証言を証拠として裁判で採用することはありませんでした。その証言が確かなものと見なされるためには二人以上の証言者が現れる必要があったのです。ですからイエスの教えた言葉を、より正確に人々に伝えるために弟子たちは二人一組とされて派遣されたのです。
さらにイエスは弟子たちに「汚れた霊に対する権能を授け」られたと聖書は教えています。これもイエス・キリストが彼らを通して働かれることを意味する表現です。なぜなら、悪霊を追い出すことがお出来になるのはその悪霊の力にはるかに勝る力を持った方、救い主イエス以外にはおられないからです。
さらにイエスは弟子たちに細かな指示を続けて送っています。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた(8〜9節)。
もし人々を悔い改めに導いくこと、彼らを神の国の住民とさせることが弟子たち自身の働きによるものだとしたなら、それに従事する弟子たちは万全の準備をして伝道旅行に出て行く必要がありました。なぜなら、彼らの持って行くものこそが伝道を成功させるための秘訣となりうるからです。しかし、イエスは弟子たちに旅のために最小限必要なもの以外、一切の準備をする必要はない、旅に持って行く必要はないと教えているのです。これもまた、イエスご自身弟子たちを通して働かれることを意味しています。人を救いに導くことのできるイエスの力があれば他に何も弟子たちには必要はないからです。
4.宣教を勝手に止めてはならない
①自分勝手な判断で行動してはならない
「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)。
私は「クレージー・ジャーニー」と言う深夜に放送されているテレビ番組を見ることがあります。人があまり好んで行こうとは思わないところに旅行した人々の記録が放送される番組です。驚かされるのは旅行者が訪れた場所で現地の人たちが出してくれる食事です。羊や牛の頭がそのまま出てきたりして、びっくりさせられるのです。旅行者は現地の人の奨め通りにその食事を口に運びます。イエスはここでクレージー・ジャーニーの旅行者と同じようなことをするようにと私たちに求めているのではありません。ただ、自分が気に入らないからと言って、より心地よい環境を求めることをしてはならないと戒めておられるのです。なぜそうなのでしょか。この旅行は観光旅行ではないからです。だから弟子たちは福音を伝えることに集中しなければならないとイエスは教えておられるのです。
そのイエスの指示は次の項目でも共通しています。
「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(11節)。
あるときイエスと弟子たちがサマリアと言う場所に行かれたとき、弟子のヨハネたちはサマリアの人々が自分たちを歓迎しなかったということに腹を立て、怒りました。そしてイエスに「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9章54節)と語り掛けたのです。ヨハネたちは自分たちを冷たくあしらった人々を決して許すことができなかったのです。だから、イエスの力を使って彼らを徹底的にやっつけてしまおうと思ったのです。もちろん、イエスはこのようなことを許しはしませんでした。だからイエスはヨハネを厳しく戒められたのです(同55節)。
ここで語られているイエスの指示は、その働きの結果を神にお任せしなさいと言うことです。相手がどんなに福音を伝える自分たちを拒否したとしても、私たちが勝手に腹を立てて、他人を裁いてしまうことは誤りだと言っているのです。むしろ弟子たちにはその問題から早く手を引いて、次の宣教対象に力を注ぐ必要がありました。なぜなら、イエスは一人でも多くの人に福音を伝えることを望まれたからです。弟子たちはそのイエスの御心通りに行動しなければならないのです。
②伝え続けなければならない
先週の月曜日にアメリカにおられたアーノルド・クレス宣教師が天に召されたというメールがミッションのスパーリンク宣教師から届きました。私が神学校を卒業して青森県に伝道者として派遣されたのは、クレス先生が心筋梗塞で倒れたためでした。私は先生の働きを助けるために青森に行ったのです。私はその青森に行って、クレス先生がどんなに困難な働きをその地でされていたのかを知ることができました。苦労して伝道しても、信仰に受け入れる人はほんのわずかです。私が行った三沢伝道所には一人の会員も存在していませんでした。それでも先生は諦めることなく、様々な方法を用いてたくさんの人々に福音を語り伝えました。先生は正直な人でしたから何度もその口から弱音がもらすことがありました。「今度もダメだった」。そんな言葉を語りながらも、先生はすぐにまた伝道のためによいと自分で考えたことを行い、再挑戦を繰り返されたのです。宣教師を辞めアメリカに帰国された後も、先生は何度も日本にやって来て、私たちの教会でも英会話クラスの奉仕をしながら福音を語ることを続けられました。弱音を吐いても、決して宣教師としての働きを辞めなかったクレス先生の働きを今でも懐かしく思い出すのです。
弟子たちにイエスが求めたことは、イエスの指示通りに福音を宣教し続けることです。彼らを通してイエスご自身が働かれるために、弟子たちはイエスの指示に従う必要がありました。ここに「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(12節)と言う報告が記されています。これは確かに弟子たちの活動を通してイエスご自身が働かれたことを報告しているのです。このようにイエスは今でも福音を伝える者を通して豊かに働いてくださるのです。そして私たちに求められていることはイエスの言葉通りに、福音を伝えることを続けて行くと言うことです。イエスがいつでも働くことができるために、派遣される者はその業を勝手に諦めて止めてしまってはいけないのです。
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