2018.3.4 説教 「悪霊の支配からいやされた人」


聖書箇所

マルコによる福音書5章1〜20節
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。


説 教

1.悪霊のせいか、病気のせいか

 私がまだ神学生だった頃の思い出です。今でもそうですが、神学校で学ぶ学生は毎週日曜日や夏の特別な期間にそれぞれ実際の教会での働きを学ぶために、神学校から様々な教会に派遣されることになっています。そのときの奉仕教会での思い出です。あるとき教会の婦人会の集まりで聖書のお話をすることになりました。そこで私は一生懸命に準備したお話をしたのですが、その後のことです。出席者が雑談を交わしていたときに、一人の婦人が神学生の私に次のようなことを言われたのです。「自分の知り合いが病気のためにとても苦しんでいる。病院に行ってもよくならず、本当に大変なようだ。もしかしてこの人の病は普通の病ではなく、悪霊の仕業なのではないかとも思うのですが…」と言うのです。そして「普通の病気と悪霊の仕業による病気はどこで区別することができるのでしょう」と尋ねられたのです。私はその質問を聞いて大変に困ってしまいました。なぜなら、私も何が病気で、何が悪霊の仕業かなどと言う区別方法を知らなかったからです。その時、私は何と答えていいのかわかりませんでしたが、次のような答えをしたことを思い出すのです。
 「その病気が普通の病気なのか、それとも悪霊の仕業によるものなのか、私にもよく分かりません。でも、聖書によれば、神さまは私たちの病気を癒すことがおできる方であると言われていますし、それだけでなく、悪霊の仕業さえも解決する力を持っておられるとも教えられています。だからその病気の原因が探るより、その人の病が癒されるように神さま祈ることの方が大切なのではないでしょうか」と。
 出エジプト記には「わたしはあなたをいやす主である」という神の自己紹介のような文章が記されています(15章26節)。確かに私たちの病のほとんどは病院の医師の治療によって、またその医師が処方してくれる薬によって癒されることが多いはずです。しかし、聖書の考えに従えば、それらの医師や薬は神が私たちを癒すために用いられる手段に過ぎないのです。だからそこでも神が働いてくださらなければ実際の癒しは実現しないのです。これは、私たちが病の癒しのために献げる祈りも同じです。神は私たちの祈りを用いて癒しを実現してくださるのです。そのような意味でこの世の医学と私たちの祈りの間には対立は存在していません。神はそれらのものすべてを用いて私たちに癒しを実現してくださるからです。
 今日のお話では汚れた霊に取りつかれた人が登場します。人々は様々な手を使って彼の問題を解決しようとしましたが、結局何もできずにいました。それで彼は「墓場」を住まいとして生きていたと言うのです。つまり、人々からもう手の施しようのない、死んだも同然のような存在として彼は考えられていたことが分かるのです

2.汚れた霊とイエス
①汚れた霊の働き

 汚れた霊と言う表現は神の元から送られる霊、聖なる霊とは対極の存在であることがよく分かる表現となっていまし。聖霊は私たちを神に導き、神と共に生きることができるようにされるために私たちのうちで働かれます。しかし、この汚れた霊はそれとはまったく逆の働きをするのです。
「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(3〜5節)。
汚れた霊はその人の体と心を完全に支配して、この人から自由を奪っていました。この人は汚れた霊の仕業によって自分の意思を表すこともできなくなっていました。しかも、「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と記されています。汚れた霊はこの人を徹底的に傷つけその命まで奪い取ろうとしていたのです。人々はこの人の自傷行為をやめさせるために彼を鎖でつなぎ留めようとしたのでしょう。しかし、それも汚れた霊には何の役にも立たなかったと言うのです。
私たちはこの物語を読むと、何かホラー映画の一シーンを見ているような気持になります。そしてこのような汚れた霊の働きは私たちの生活からは縁がない現実離れしたものと考えてしまいがちです。しかし、汚れた霊の働きの本質は、私たちを神から引き離し、神に敵対して生きるようにさせるという点では私たちの生活に身近な存在であるとも考えることができるのです。なぜなら、私たちもまた私たちを神から引き離そうとする力を日常の生活で体験しているからです。
私が知っている一人の方は長い間、教会で求道生活を続けて、神を信じ洗礼を受け、教会生活を始めました。ところがその教会生活が始まった途端、その方のお母さんが突然に亡くなってしまうと言う出来事が起こりました。そこでその人は「なぜ神さまはこんな惨いことをされるのか。神さまが愛だなどと信じることができない」と言って教会を離れてしまったと言うのです。この方にとってお母さんの死はそれほどまでにショックな出来事であったのでしょう。だからと言って神から離れることがその人にとって本当の解決になったのかな…と私はその話を人づてに聞いて疑問を感じたことを思い出します。
この人に限らず、私たちの人生には様々な出来事が起こり、やはり「神さまを信じることなど無意味ではないのか。自分が教会に行って信仰生活を続けることは役に立たないことではないか」と思わされることが多くあるのです。もし、私たちがそのとき神を棄て、また信仰を棄てる道を選んだとしたら、それは紛れもなく汚れた霊の仕業であると言えるかもしれません。なぜなら、汚れた霊は私たちの体や心をコントロールして私たちを神から引き離し、私たちを罪と死の虜にしようとさせるからです。

②イエスの働き

しかし、聖書は私たちに対してそのように巧妙に、また賢く働く汚れた霊でさえも、私たちの救い主イエスの力には太刀打ちすらできないことを教えています。私たちは無力ですが、私たちを救うためにやって来てくださった方、救い主イエスはこの汚れた霊にも完全に勝利することができる方だからです。

「(その人は)イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」」(6〜7節)。

興味深いことにこの時、イエスの正体を知っていたのはイエスの弟子でも他の人々でもなく、この人に取りついていた汚れた霊たちだったと聖書は語っています。彼らはイエスが本当は誰であり、何のためにこの地上にやって来られたのかをよく知っていました。そして彼らはイエスの力に自分たちが太刀打ちできないこともよく知っていたのです。
ここで声を発しているのは、この人に取りついた汚れた霊であって、この人自身ではありませんでした。この人は汚れた霊の力によって心も体も支配されて、自分の意思さえ理解することも、表現することもできなくなっていたからです。だから、イエスをこの人を汚れた霊の支配から解放させようとされたのです。

「そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った」(9〜10節)。

「レギオン」は古代ローマの陸軍の軍団を示す言葉です。一つのレギオンには五千人以上の兵士が所属していたと言われています。汚れた霊が「大勢だから」と言ったのはそのような意味があるからです。しかし、イエスは人間を苦しめ、人間を神から引き離し、その人間から命を奪おうとする汚れた霊、悪霊の働きを許される方では決してありません。イエスが許されたのは彼らが二千頭の豚の群れに乗り移ることだけでした。しかも、その二千頭の豚はすべて湖の中になだれ落ちて死んでしまうのです(11〜13節)。

3.何を失い、何を得るのか
①神の御業を体験する私たち

 ところで、私は先ほど愛するお母さんを失って、ショックのあまり教会を離れてしまった方のお話をしました。おそらくその方にとってお母さんの存在は自分の人生にとってなくてはならないものであったのだと思うのです。しかし、不思議なことに私はこの方と同じような経験をして、神を信じるようになったと言うまったく逆のお話を聞いたことがあります。
 その方は以前、私が働いていた教会で熱心に信仰生活を送っておられる方でした。その方は当時、まだ若くて経験の乏しい牧師であった私をよく助けてくださったことを思い出します。実はその方は大学生であった娘さんを病気で失うと言う体験を持っておられた方でした。おそらくこの方にとって愛する娘さんを失ったことはどんなにショックであったかわかりません。しかし、この方はその娘さんが鎌倉雪の下教会の熱心な教会員であったことから、その教会で娘さんの葬儀を行ったことがきっかけで、信仰に導かれ、洗礼を受けて教会員になられたというのです。この方は愛する娘さんを奪われるような体験をして、自分を本当に慰めることのできる神を見出すことができたというのです。
 病気や事業の失敗、自分の人生に起こったそのような出来事を体験して、多くの人は「神も仏もあったものではない」と嘆くかも知れません。しかし、不思議なことに同じような体験を通して神に導かれ、神を信じることができたという人の証しを私たちは耳にすることがあるのではないでしょうか。たぶん、ここに集まる方々の中にも同じような体験をしたことがあると言われる方も多いはずです。なぜ、私たちはこのような体験を通して神を見出すことができたのでしょうか。それは私たちに聖なる霊、神の霊が働いてくださったからです。私たちを罪から解放して命を導くために聖霊が私たちに働いてくださったのです。そしてその聖霊を送ってくださったのは、今も天におられる私たちの救い主イエスなのです。このような意味でイエスは今もなお、私たちに働きかけ、私たちを汚れてた霊の支配から、また罪と死の支配から解放してくださる方であると言えるのです。

②何を見て生きるのか

 興味深いのはこの出来事が起こった後でのそこに居合わせた人々のそれぞれの反応です。イエスに癒された人は「イエスと一緒に行きたい」としきりに願ったと言われています。しかし、イエスはその人の願いを許さず「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)と彼を諭しました。なぜなら彼が自分の家に帰ったとしても、イエスの力は決して彼から離れることがないからです。ここでイエスは癒された人に新しい人生の目的を与えられています。病に苦しむ人は病から解放されること、癒されることが人生の目的のように勘違いをしてしまう傾向があります。しかし、私たちの人生の本当の目的はそこにあるのではありません。神の栄光をあらわすこと、つまり神のすばらしさを人々に自分の人生を持って示すことが私たちの人生に与えられた目的であると言えるのです。イエスはその人がたとえ病を持っていたとしても、また健康であったとしても、どこにあってもその人生の目的、神の栄光をあらわすことができるために助けを与えてくださるのです。だから、私たちは安心して、自分の生活の場所に戻ることができるのです。
 一方、この出来事を体験した町や村の人々の反応は違いました。彼らはイエスに「自分たちの村や町から出て行ってほしい」と願ったからです。それは、彼らがイエスによって汚れた霊から解放された人に関心を示すのではなく、悪霊が乗り移った二千匹もの豚が湖に沈んで死んでしまったことに関心を持ったからです。彼らは自分たちが失った損害だけに目を向けてしまったので、イエスは自分たちには邪魔な存在だと考えてしまったのです。ですから、この出来事は私たちが自分の人生で何を見るのかが、私たちにとってとても重要であることを教えていると言えるのです。
 中世のイタリアで活躍したアッシジのフランシスコはかつて裕福な商人の息子として生活し、何不自由な人生を送っていました。しかし、ある時からフランシスコは人間にとっての本当の自由とは神に従うことにあると考えるようになりました。その時から彼は家族や財産を棄て、神に従う修道士としての道を歩む決心をしたのです。貧しい生活の中でも神に従うことで喜びを持って生きるフランシスコの姿は当時の人々にもとても魅力的に映りました。ですから彼にあこがれて、多くのかつて彼の友人たちが彼の後を追って修道士になったと言うのです。ところがもともと金持ちの息子たちだった彼の友人たちは、貧しく過酷な修道士の生活に疲れ果てて、自分の決断が間違いではなかったのかと思うようになったのです。そのような悩みを持つ友人たちにフランシスコはこう語ったと言うのです。「兄弟たち、あなたたちは自分が失ってしまったものだけを見て悲しんではならない。むしろ、あなたたちはこれから神さまにいただけるものを見て、喜びに満たされないさい」と。
 自分の人生から失われてしまったものだけを見ているなら、私たちは「神を信じて生きることには意味がない」と考えるしかありません。むしろ私たちは、神を信じることで私たちが罪と死の支配から自由にされたこと、そして死ぬべき運命にあった私たちが永遠の命の祝福に入れられることを見つめて生きるなら、私たちの信仰生活は喜びに満たされるのです。この物語はイエスによってそのような喜びを見出した人を私たちに紹介しているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 あなたは汚れた霊に取りつかれて自由を奪われ、自分の意思さえ表現することのできなかった人をそのみ力によって癒し、神の子としてくださいました。同じようにあなたは、私たちに天から聖霊を送ってくださり、私たちの罪と死の支配から解放し、私たちを苦しめるすべての悪の力に勝利してくださいました。私たちは今、そのあなたの悪に勝利された戦いの姿をこの受難節を通して思い起こす機会にあずかっています。どうか私たちが私たちを愛し、私たちのために生きてくださったイエスに信仰の目を向けることができ、喜びと平和をその方から受けることができるようにしてください。願わくは私たちがあなたによって経験した救いのすばらしさを、多くの人々に証することができるように、私たちをお用い下さい。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスと弟子の一行が湖の向こう岸に着いたとき、彼らはどのような人と出会いましたか(1〜4節)
2.この人はイエスに対してどのようなことを願いましたか。イエスはその願いに対してどう答えられましたか(7〜10節)
3.二千匹の豚の群れがそのまま湖に落ちて溺れて死ぬことになった訳は何ですか(11〜13節)。
4.正気になった人はイエスに今度は何を願いました。その願いに対してイエスはどう答えられましたか(15〜19節)
5.この光景を見た町や村の人々はイエスに何を願いましたか(16〜17節)