2018.4.22 説教 「青空食堂」


聖書箇所

マルコによる福音書6章30〜44節
30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。42 すべての人が食べて満腹した。43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。44 パンを食べた人は男が五千人であった。


説 教

1.飼う者のない羊たちのために
①時間を忘れるイエス

 今では日本人がノーベル賞を受賞することもそんなに珍しいことではなくなりました。皆さんもご存知かもしれませんが、このノーベル賞を日本人として初めて受賞したのは物理学者の湯川秀樹と言う人物です。何しろ、日本人として初めてのノーベル賞受賞でしたから、当時の日本では大変話題となり、多くの人々の関心の的となったようです。この湯川博士について以前こんなお話を誰かに聞いたことがあります。あるとき一人の新聞記者が湯川博士の夫人に「いままでご主人と共に生活して来て、ご主人のことで困ったことはありませんでしたか」と尋ねたと言うのです。おそらく、ノーベル賞を受賞する天才にもどこかに人間的な弱さがあるのではないかと考えて新聞記者はそう質問したのかもしれません。ところがこの質問に対する湯川夫人の答えは意外なものでした。なぜなら夫人はこう答えたからです。「主人は本を読みだすとご飯を食べるのも、眠るのも忘れてしまうので本当に私は困っています」と…。
 今日はイエスの行われた奇跡の中でも特に有名な五千人に食べ物を与えると言う物語をマルコによる福音書から学びます。聖書を読んでみるとこの出来事が起こったきっかけが次のように記されています。

 「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」」。(35〜36節)

②群衆を憐れむイエス

 このときイエスと共にいた弟子たちはイエスが食事の時間も忘れていることをここで注意しています。弟子たちはイエスに「時間を考えて見てください」と言ったのです。それではイエスは食事の時間さえ忘れてこのときいったい何をされていたのでしょうか。直前の箇所にその理由が簡単に説明されています。

 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)。

 たくさんの群衆がこのときイエスの周りに押し寄せていました。イエスはその群衆を見て「深く憐れみいろいろと教え始められた」と言うのです。なぜならイエスにはこの時の群衆が「飼い主のいない羊」のように見えたからです。「飼い主がいなくなったら羊は自由で気ままに暮らせるのではないか」と思う人がいるかもしれません。しかし、羊は野生では生きていけない動物なのです。羊は自分では餌を見つけることも、自分の身を守ることもできないからです。
 この羊に関して最近でもこんな実話があったそうです。あるとき羊飼い同士が相談をするために羊を置いて一か所に集まりました。そのときのことです。一匹の羊が勝手に群れから離れて歩き出しました。するとその羊の後を群れの他の羊たちもついて行ってしまったと言うのです。そしてやがて先頭にいた一匹の羊が誤って崖から足を滑らせて落ちてしまうと、後からついて来たたくさんの羊の群れも同じように崖から滑り落ちてたくさんの羊たちが死んでしまったと言うのです。イエスにはこのときの群衆が飼い主を見失った羊のように思えたのです。このままではすべての人々が歩むべき道を見失って大切な命を落としかねないとイエスには思えたのです。だからイエスは彼らが歩むべき正しい道を教え、彼らが永遠の命を受けることができるようにと時間も忘れて教えられたのです。一人の命も失われてはいけないと考えられたイエスはこのとき時間を忘れて、群衆に向けて語り続けておられたのです。

2.あなたたちで準備しなさい
①無理難題

 「私たちや彼らの食事をどうするつもりですか」。食事のことで心配する弟子たちに対してイエスは次のように語られました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)。このイエスの答えを聞いて弟子たちは驚きました。なぜならこの物語の最後のところに「男が五千人」いたとあるように、たくさんの人がこのときイエスの周りに集まって来ていたからです。「そんなたくさんの人々に自分たちが食事を提供することなど不可能だ」と考えた弟子たちは次のようにイエスに問い返しました。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」(37節)。当時の労働者一日分の賃金が一デナリオンであったと言われています。二百デナリオンは二百日分の賃金となりますから相当の金額となります。弟子たちは「そんな多量のパンを自分たちで用意することは不可能だ」と言っているのです。
 イエスのこの命令は普通に考えて見ても無理難題であることが私たちにも分かります。しかしそれならなぜ、イエスは弟子たちがすぐに困ってしまうような命令をここでしたのでしょうか。その事情はこの物語の最初の部分から読んでみると推測することが可能となります。この物語の最初は先週の礼拝でも取り上げましたか、宣教旅行に派遣された弟子たちがイエスの元に帰って来て報告したところから始まっています。

 「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(30節)。

 きっとこのときの弟子たちはとても興奮していたのだと思います。なぜなら彼らの活動の結果が次のように別の箇所で報告されているからです。

 「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(12〜13節)。

 十二人の弟子たちがイエスの命令に従って人々に宣教すると、そこで驚くべき出来事が起こりました。今までイエスにしかできないと考えられていた奇跡が弟子たちの活動を通してもできるようになったからです。「私たちが宣教をすると、こんな素晴らしいことが起こりました」。もしかしたら弟子たちは得意げにイエスに自分たちに起こった出来事を報告したのかもしれません。しかし、イエスはそのような弟子たちに「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(31節)と命じられたのです。弟子たちが興奮状態から覚めて、静かに休む必要があるとイエスは考えられたのです。

②成功体験によって生まれる勘違い

 毎月一回、教会では夜の教理を学ぶ時間に、イギリスの一人の神学者が伝道について聖書的な立場から語っているテキストを読んで学びを行っています。先日の学びではこんな話が私たちの関心の的となりました。そのテキストが書かれたのは今から70年近い前の第二次世界大戦が終わってすぐのイギリスことで、その当時の教会で問題となった伝道についての論争が取り上げられているのですが、その問題は決して古いとは感じられないのです。著者は述べています、伝道について今でも様々な方法が考え出され、計画を立てて実行されている。そしてその中で成果が上がった方法は人々の関心の的となり、人々は自分たちもその方法をまねて伝道活動をしようとすると言うのです。しかし、同じやり方をしても二度目は一度目よりも思ったような効果があがらないと言うのです。さらには三度目、四度目と同じ方法を繰り返してみても、どんどん効果は無くなっていくと言うのです。その原因は最初の方法で効果が上がったのは神がその方法を用いられたからなのだと言う事実を忘れて、その伝道の方法自体に成功の秘訣があると人々が考えてしまうからだとこの神学者は説明しているのです。なぜならどんな方法であっても神が用いられるなら効果が現れます、しかし、そうでなければ何をしても好ましい効果は現れないからです。しかし、その神の働きを忘れて人間は特定の伝道方法に何か特別な力があると考えてしまうのです。そしてそこに現代の伝道活動の問題があると言っているのです。
 弟子たちもこのとき、同じような過ちに陥る可能性がありました。彼らの宣教が祝福され、彼らを通して様々な奇跡が実現したのは、神が彼らを用いて、それを可能としてくださったからです。だからその神が働かなければ、たとえ同じことを繰り返しても、同じ効果を得ることは不可能なのです。しかし、人間はこのような成功体験をすると、いつの間にか何かその方法自体に力があると考えてしまうのです。そしてそれを繰り返せば、あるいは真似をすれば必ず効果があがると思い込んでしまうのです。
 イエスはこのとき弟子たちが、彼らの成功体験の本当の原因は神が働いてくださっていたからだと言うことに気づかせようとしたのです。なぜなら、私たち自身の考えた方法や働きには人々を神に導く力は全くないからです。弟子たちがそのように自分の経験した成功体験にしがみついている限りは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とイエスに命じられても、「どうしたらいいのだろうか」と悩むことぐらいしかできないのです。なぜならこの命令は弟子たちにとっては無理難題でしたが、神の力にとっては可能なことだったからです

3.増やされたパン
①持っているものをもう一度調べなさい

 イエスは続けて弟子たちにこう尋ねました。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」(38節)。弟子たちが自分の考えた出した方法や自分の力に解決策を求める限り、自分たちが今持っているものは問題を解決するためにはあまりにもわずかで、足りないと考えざるを得ません。「もっと自分たちに豊かな才能があったら」。「もっと自分たちに力があったら」。「もっと若くて活動的な年齢であったら」。「もっとたくさんの人が一緒に働いてくれれば」。私たちがもしそう考えているのなら、私たちはこのときの弟子たちと同じように「これでは足りません。これでは何もできません」と答えることしかできません。しかし、イエスはそんな私たちにもう一度、「あなたが持っているものを調べて見なさい」と語られるのです。「神はこのときのためにあなたに何かをすでに与えてくださっているのではないか」と言われているのです。五つのパンと二匹の魚は自分の考え出す方法、自分の持つ力に固執する者には何の足しにもならないわずかなものにすぎません。しかし、神の力を信じる者には不可能を可能とする大きな力が秘められていたのです。

②イエスを通して与えられる恵み

 「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」(39〜41節)
 イエスはパンと魚を取り「天を仰いで賛美の祈りを唱え」、パンを裂いて弟子たちに配らせ、あるいは魚を分配させたと福音書は記しています。多くの聖書解釈者たちはこのイエスの行為は聖餐式の執行のスタイルと酷似していることを強調しています。ですからこの五千人の食事の奇跡の物語は、単なる飢えの問題がイエスによって解決されたと言うことを伝えているのでないと言うのです。むしろこの物語は私たちにイエスを通して与えられる神の豊かな恵みを教えていると言えるのです。五つのパンと二匹の魚がイエスの手を通して人々に配られたとき、人々は「満腹」することができました。それだけではなくさらにあまったパンくずと魚の残りを集めて見ると十二の籠にいっぱいになったと言うのです。
 弟子たちはこの出来事を通して、人々を満ちたらせることができるのは、自分たちの考え出した方法や力ではなく、イエスご自身であることを学ぶ必要があったと言えるのです。

③信仰を分かち合えば、増やされる

 この物語は、私たちそれぞれにすでに与えられている信仰の秘められた力を教えているとも考えることができます。なぜなら、この世のものは人に与えてしまえば少なりなり、やがては必ずなくなってしまうものですが、イエスを通して与えられたパンと魚はなくなるどころか、増え続けたからです。

 弟子たちはイエスの命令によって宣教活動を通して人々を信仰に導く働きに従事しました。そして弟子たちがこの活動に従事にするために神はまず弟子たちに信仰を与えてくださったのです。私たちの信仰は神から与えられた賜物であって、私たちが作り出したものではありません。信仰は神が与えてくださったものですから、だから人に分け与えれば必ずなくなってしまうこの世の物質と違います。むしろ信仰は他の人と分かち合い、他の人に伝えたとしても、決して私たちからは無くなってしまうものではないのです。むしろこの信仰は人々に分かち合えば分かち合うほど、伝えれば伝えるほど、無くなってしまうのではなく祝福されて、大きなものとなっていくのです。
 ですから、もし私たちが「自分の信仰の足りない、小さい」と嘆いているとしたら、その信仰を内に秘めてしまうのではなく、むしろ人々に進んで伝える必要があるのです。私たちのイエスは私たちと共に働いてくださる方です。たとえ私たちの信仰が五つのパンと二匹の魚のように、わずかなものに見えたとしても、イエスはその私たちの信仰を増やし強めてくださるのです。だからイエスの宣教命令に従うと言うことは私たち自身の信仰が祝福されるためであるとも言えることを私たちはこの物語から学ぶことができるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 自分の持つ力や自分の考え出した方法に過信する私たちには「五つのパンと二匹の魚」は何の役にも立たないもののように思えてしまいます。しかし、主イエスはこの「五つのパンと二匹の魚」を通して、五千人以上の人々を満たし、さらに有り余る恵みを示してくださいました。私たちが私たちの持っている「五つのパンと二匹の魚」をあなたに献げることができるようにしてください。それを用いて大いなる業を実現してくださる主イエスを信頼して、その主の命令に忠実に従っていくことができますように導いてください。 
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.弟子たちが宣教旅行から帰ってきてイエスに報告をしたとき、イエスは弟子たちに何をするように命じましたか(30〜31節)
2.どうしてイエスはこのとき食事をする時間も忘れていたのでしょうか(34〜35節)。イエスの関心はどこに向けられていましたか。
3.イエスは群衆に食事を与えるために弟子たちに何を命じましたか。その命令を聞いた弟子たちはどのように反応しましたか(37節)
4.イエスに命じられて弟子たちが調べてみるとそこに何があることに彼らは気づきましたか(38節)。
5.イエスはそのパンと魚をどのようにしましたか(39〜41節)。するとそこでどのようなことが起こりましたか(42〜43節)。
6.私たちの信仰生活にとって五つのパンと二匹の魚はどのような意味を持つとあなたは思いますか。考えて見ましょう。