2018.4.21 説教 「水上歩行」


聖書箇所

マルコによる福音書6章45〜56節
45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


説 教

1.逆風に苦しむローマ教会
①福音書間の記述の違いの理由

 今日はマルコによる福音書からガリラヤ湖の水面を歩いて弟子たちの乗る舟に近づいて来られたイエスについての物語を学びます。この物語は前回学びましたイエスが五千人の人々にわずかな食物から食べ物を分け与えた奇跡物語とペアのように聖書では紹介されているものです。ただ、不思議なことにルカによる福音書だけは五千人の食事の物語は記録していても、このガリラヤ湖上での奇跡の物語を省略しています。さらに、マタイによる福音書ではイエスがガリラヤ湖の水面を歩くと言う出来事だけではなく、弟子のペトロもイエスと同じように水面を歩くことができたと言う別の物語も取り上げて記しています(マタイ14章13〜21節)。
 すべての福音書はイエス・キリストの教えや行動を私たちに知らせるために書かれた書物です。ところがそれぞれの福音書は同じ出来事を取り上げてもいても違った書き方をしているとこがあります。どうしてそのように違ってしまうのか。そこには様々な理由が考えられるのですが、その理由の一つとして説明されるのは、それぞれの福音書の読者が違っていると言う点です。
私たちも同じ出来事を相手に伝えようとするときに、その相手が違うと伝え方を変えることがよくあります。簡単に伝えて通じることもありますし、もっと詳しく知らせないと伝わらないと言う相手もいるはずです。福音書の間に起こる記述内容の違いの理由の一つはそこにあると考えられているのです。
 たとえば、私たちが今、礼拝で学んでいるマルコによる福音書は福音書の中で一番最初に記された書物であると今では考えられています。ですからこの後で書かれたマタイやルカ、ヨハネといった福音書の著者はこのマルコによる福音書を実際に手に取って読んで、自分が福音書を記す際の参考文献としていたと考えることができるのです。だから、先ほど言いましたように五千人の食事の奇跡を記しながら、このガリラヤ湖での奇跡物語を記さなかったルカによる福音書は、この物語を知らなかったのではなく、意図的に自分の福音書から外してしまったと言うことが推測できるのです。どうしてルカがこの物語を福音書に取り上げなかったかについては、また今度ルカの福音書を皆さんと学ぶ際に考えて見たいと思っています。

②迫害の中にあるローマ教会のために書かれた福音書

 ところで、今、私たちが学んでいるマルコによる福音書はいったいどのような読者を想定して書かれたものなのでしょうか。多くの学者たちの見解によれば、この福音書はローマの教会の信徒に向けて記されたものではないかと言われています。当時、ローマ帝国の都であったこのローマには使徒パウロやペトロと言った人々の活動によってたくさんの人がキリストを信じ信者になっていました。ところがこのローマ教会はすぐに大きな試練に遭遇しなければなりませんでした。なぜなら、当時のローマ政府は新しく生まれたこのキリスト教会を弾圧し、信徒を迫害したからです。教会の伝承によればこの迫害の中で使徒パウロもそしてペトロも殉教の死を遂げたとされています。ですからパウロやペトロと言った教会のリーダーを失った上に、なお激しい迫害の中で信仰生活を送っていたのが当時のローマ教会の人々だったのです。そしてマルコはその教会のためにこの福音書を記したと言われているのです。マルコはこの福音書を記すことによって、迫害の中にあるローマの教会の人々を励まそうとしたのです。そして彼らの目には今、イエスは見えていないかもしれないけれども、イエスの方ではいつも彼らをご覧になられており、助けを与えようとされていることを教えようとしたのです。
 今日の物語の中にはガリラヤ湖上で逆風に出会い、舟を必死に漕いでも少しも前に進むことができない弟子たちの姿が登場します。しかも、このとき彼らが頼りにすべきイエスはこの舟には乗っていなかったのです。多くの聖書学者や説教者たちはこの弟子たちの姿は迫害にあって苦しんでいたローマ教会の姿そのものだと説明しています。そして激しい迫害の逆風の中で前に進むことができない教会に対して、マルコはガリラヤ湖の水面を歩いて弟子たちに近づいてこられたイエスの姿を紹介しようとしたのです。

2.弟子たちを舟に乗せたイエス

 ところでどうしてこのとき弟子たちはイエスから離れて舟に乗ることになったのでしょうか。その事情を聖書は次のように説明しています。

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」(45節)。

イエスから食物を与えられた人々は男性だけでも五千人いたと聖書には記されています(44節)。この人々はイエスの行われた新たな奇跡によって、さらにイエスへの期待を膨らませて行ったはずです。ですからその群衆がイエスから簡単に離れて、家路につくと言うことは考えられません。このままでは晩御飯だけではなく、次の日の朝ご飯の心配までしなくてはならなくなります。そこでイエスは弟子たちを群衆から引き離すために舟に乗せたと言うのです。そして弟子たちが舟に乗って沖に漕ぎ出すと、イエスは一人で群衆を解散させたのです。どうしてこのときイエスが弟子たちから離れて一人になられたかについては、次のような説明が記されています。「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」(46節)。興味深いことにイエスは重要な出来事が起こる前には必ず山に登っています。たとえば、十二人の弟子を選んだときもそうでしたし、十字架に掛けられる前も祈るためにオリーブ山に登られたのです。
一方、舟に乗せられた弟子たちはどうなったのでしょうか。彼らの乗った舟は湖の半ばで逆風に出会い必死に漕いでも前に進まない状態に追い込まれました。以前も弟子たちはこのガリラヤ湖で嵐に会い、自分たちが乗っていた舟が沈みそうになったことがありました(4章35〜41節)。このときは嵐のような風ではなかったようですが、かなり強い風が吹いていたと考えられます。このガリラヤ湖では突然、北東の方から強い風が吹いてガリラヤ湖で働く漁師たちを今でも困らせることがあると言われています。
このように福音書を読むと分かることは、弟子たちがガリラヤ湖で逆風に出会うことになった直接の原因はイエスが彼らを舟に乗せたことにあったと言うことです。しかも、イエスはこれから起こる出来事の重要性を知っていて、一人山に登り、そこで祈られていたと言うのです。つまり、弟子たちの遭遇した強風はイエスの計画の中にあったことが分かります。
私たちもこの時の弟子たちと同じように信仰生活で逆風のような試練に出会うことがあります。その逆風によって一歩も前に進むことができないような状況に追い込まれることがあるのです。しかしこの聖書の箇所から分かることは私たちが出会う試練の背後にイエスの計画があると言うこと、そしてイエスはその試練に私たちが勝利できるように祈ってくださっていると言うことです。このとき弟子たちは自分たちの思いもかけないような試練に遭遇しましたが、この試練を通して、改めて自分たちと共にいてくださる主イエスがどのような方であるかを知らされています。私たちが信仰生活で遭遇する試練も同じような意味があると考えることができます。試練は私たちを苦しめたり、罰するためにイエスによって計画されているものではありません。試練は私たちがもっとイエスのすばらしさを知り、その方を信頼して生きて行くことができるようにとイエスが計画し、私たちに与えてくださるものなのです。

3.どうして幽霊だと思ったのか
①恐怖に捕らわれた弟子たち

 それではガリラヤ湖で逆風に出会い、苦しむ弟子たちはその後どうなったのでしょうか。聖書は次のように説明しています。

「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(48節)。

昔から「夜明け前が一番暗い」と言われることがあります。このとき弟子たちも一晩中逆風と戦い、もう精も根も尽き果てていたと思われます。そしてちょうどその時、イエスは湖上を歩いて弟子たちのところに近づいて来られたと言うのです。ところが弟子たちはこのとき自分たちのところにやって来られるイエスの姿を見て、喜んだ訳ではありません。彼らはこのとき喜ぶどころか、恐怖に捕らわれてパニックになったと聖書は記しているのです。

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」(49節)。

弟子たちは肉体を持った人間が水の上を歩くことはできないと考えていました。だから、今、水の上を歩いてこちらにやって来られる方はイエスではなく、肉体を持たない者、つまり幽霊だと考えようです。だからこの時、弟子たちはまるで心霊現象に出会ったかのように大騒ぎし、ガタガタ震え出したのです。

「皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。」(50〜51節)。

あまりにも弟子たちが怖がるためにイエスが弟子たちに「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」と語り掛けてくださいました。そしてイエスが舟に乗り込まれると風は静まったと言うのです。

②パンの出来事を誤解したから

興味深いことに福音書はこのときの弟子たちが恐怖に陥った原因を次のように説明しています。

「(彼らは)パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(52節)。

弟子たちの恐怖の原因はこの直前に起こったパンの出来事に対する誤解にあったとマルコは説明しているのです。それでは弟子たちはパンの出来事をどのような誤解をしたと言うのでしょうか。この同じパンの出来事を報告しているヨハネによる福音書には次のようにそのときの群衆の反応とその群衆に対するイエスの姿が説明されています。

「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6章15節)。

人々はイエスを自分たちの王としようとしたと言うのです。なぜならこんな不思議な力を持っている者が自分たちのリーダーになってくれれば自分たちの生活は安泰だと彼らは考えたからです。ここには弟子たちの反応は記されていません。しかし弟子たちもまた群衆と同じような期待をイエスに対して持っていたことが分かる場面が聖書には何度も記されています。それはイエスがこの地上に神の国を作り、そこで王となられたとき、自分たちはどれだけ高い位につけるかを考えて、弟子たちの間で争い合ったと言う出来事です(10章35〜45節)。そのような弟子たちであれば、このときパンを食べて満ち足りた群衆を自分たちの運動に利用できると考えたこともあったはずです。そうなればイエスが王となるときがもっと近づくと彼らは思ったはずです。それは自分たちの抱く野望をイエスの力を使って実現したいと言うもので、群衆の考えたこととほとんど変わりません。イエスに対してそのような野望を抱く弟子たちの心の目はその思いによって遮られ、湖の水面を歩いて近づいて来た方がイエスであるとは気づくことができなかったと聖書を説明しているのです。

4.私たちには見えないがイエスには見えている

 この物語の重要なポイントはイエスにはいつも弟子たちの姿が見えているですが、弟子たちにはイエスの姿がちっとも見えてはいないというところです。このマルコによる福音書の内容を詳しく研究して本を記した、ある聖書解説者はこのことについて次のようなたとえを使って説明しています。

「富士山から日本橋は見えないが、日本橋から富士山の姿がよく見える」。
私はこのたとえ話を読んで、「今では日本橋に行っても高速道路しか見えませんが、この本が書かれた時代には富士山がよく見えたのかな」と変なところで感動を覚えました。イエスは日本橋から富士山を見ているように、弟子たちの姿がよく見えていたのです。しかし一方の弟子たちは富士山の頂上から日本橋を見ようとしても無理であるように、一向にイエスの姿を見つけ出すことができないでいたのです。
私はこのたとえ話を読んでさらに考えて見ました。問題は弟子たちが富士山に登ってしまっているところに原因があるのではないかと…。つまり、この時の弟子はイエスよりもはるかに高い位置に立とうとしていたのです。そして弟子たちはその高い位置からイエスに対して上から目線で指図をしようとしたのです。つまり、これがイエスを王様にして、自分たちの野望を実現させようとした弟子たちの誤りだったのです。これではイエスの姿を見つけることはできません。
そうなると私たちがイエスの姿を見るために大切なことが何であるかがよく分かってくるようにも思えます。私たちに必要なのは高い所に昇ることではありません。イエスの前で低くなって謙遜になることです。謙遜になってイエスに従うことなのです。そして私たちがそのようにして低くされるなら、毎日の信仰生活の中でいつもイエスの姿を確認することができるようになるのです。イエスは山上の説教の中でも次のように語っています。

「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」(マタイ5章8節)。

聖書は私たちの内側から出るものはすべて汚れていると教えています。ですから、「心の清い人々」になるには神からすべてのものを受け取る必要があります。私たちが神から恵みを受け取るためにも私たちは謙遜でなければなりません。神は謙遜に生きる人々に恵みを豊かに与えてくださるからです。
マルコはこの物語を通じて試練の中にあるローマ教会の人々にさらに謙遜になって神の恵みを受け入れる準備をしなさいと勧めています。試練の中でも私たちをイエスは見つめ続けてくださっています。そしてふさわしいときに助けを与えようと準備してくださっていることを福音書は湖の上を歩いてこられたイエスの姿を示すことで教えようとしているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 ガリラヤ湖上で激しい風に悩まされ、少しも前に進めないまま苦しみ続けた弟子たちに対して、主イエスは一時もその視線を外すことなく見守り続け、彼らのために祈ってくださいました。その上で主イエスは夜明けごろに湖上を渡って弟子たちを助けに来てくださった姿を学びました。同じように主イエスは今もなお信仰の戦いを続ける者たちを見守り続けてくださいます。彼らがその戦いの中で希望を失うことのないように祈り続けてくださいます。そして、もっともふさわしときにもっともふさわしい形で助けの御手を伸ばしてくださることを私たちは知っています。どうか私たちもまたこの信仰の戦いの中で、謙遜になり、あなたの御声に耳を傾け、あなたに従うことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはどうしてこのとき弟子たちを強いて舟に乗せようとしたのでしょうか(45〜46節)。
2.福音書の記録から弟子たちはガリラヤ湖の真ん中でどのくらいの時間、逆風のために漕ぎ悩んでいたことが分かりますか(47〜48節)。
3.福音書によれば弟子たちから離れたイエスは陸地で何をしていたことが分かりますか(47〜48節)。
4.湖の上を歩いて弟子たちのところに来られたイエスの姿を見て、弟子たちはどうなりましたか(49〜50節)。
5.マルコによる福音書はこのとき弟子たちがおびえた原因をどのように説明していますか(52節)。
6.イエスは舟の上でおびえる弟子たちに何と言われましたか(50節)
7.イエスが舟に乗ると風はどうなりましたか。そしてこの出来事を体験した弟子たちはどうなりましたか(51節)