2018.4.8 説教 「会堂長ヤイロ」


聖書箇所

マルコによる福音書5章35〜43節
35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


説 教

1.信じてイエスに触れる

 先日、読んだ本にこんな笑い話が紹介されていました。ビルのテナントの一室で礼拝を行っている教会がありました。この教会に集まって来ている人々には大きな悩みがありました。それはこの同じビルの一階のテナントに多くの若者が集まって騒ぐディスコが入居していたからです。こんなところにディスコがあれば、教会に集っている青少年に悪い影響を与えるかもしれないと教会の人々は心配したのです。そこで教会員は「早くこのディスコが無くなって自分たちの心配も無くなるように」と祈りました。するとそれからしばらくして、そのディスコから火が出て、火事となりディスコが営業できなくなってしまったのです。そこでディスコの店長は裁判所にこの教会を訴えました。なぜなら店長は教会の人々が「ディスコが無くなりますように」と祈っていたことを知っていたからです。裁判所の判事はこの件に関してディスコの店長と教会の牧師を呼んで、それぞれの言い分を聞くこととなりました。判事が二人に「本当に、教会の人々が祈ったからディスコが火事になって営業ができなくなったと思いますか」と尋ねました。するとディスコの店長はすぐに「その通りです」と答えました。ところが、教会の牧師は「そんなことは言いがかりにすぎません。祈ったからと言って、それで火事になるはずがないじゃありませんか」と抗議したのです。判事はこの二人の話を聞いてこう答えたと言うのです。「わかりました。ディスコの店長には信仰があって。教会の牧師には信仰がないのですね」。
 今日、私たちが学ぶ「会堂長ヤイロ」の物語は先月、私たちが学んだ「十二年間も出血が止まらない女」の物語をちょうどサンドイッチのように挟んでストーリーが展開されています。この二つの物語の共通点は、会堂長ヤイロはイエスが病気の娘の上に手を置いてくれれば、娘の病は癒されると信じていたこと、そして出血の止まらない女もイエスの服に触れれば自分の病が癒されると信じていた点にあります。先月、学びましたようにこのときイエスの周りには多くの群衆が押し迫っていました。おそらくたくさんの人がイエスの服に触れ、その体にも触れていたはずなのです。しかし、だからと言ってそのような人々すべてに何か不思議な出来事が起こったと言うことはありませんでした。このことから二つの物語は信仰を持ってイエスに触れると言うことがどういうことであるかを私たちに教えていると考えることができるのです。
 ただ、今日学ぶ会堂長ヤイロの物語は信仰を持ってイエスに触れたらその通りになったと言う単純なストーリーとはなっていません。なぜなら、ヤイロの娘はイエスに触れる前に死んでしまっているからです。そしてヤイロはこの物語で自分が信じた事柄以上の出来事を体験することになるのです。

2.追い詰められたヤイロ

 この会堂長ヤイロの物語は正確にはマルコによる福音書の5章21節から始まっています。イエスはガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ地方で悪霊に取りつかれて苦しんでいた男を助けました。そこではその男に取りついていた悪霊たちが豚に乗り移り、湖に飛び込んで死んでしまうと言う出来事が起こったのです(5章1〜20節)。ここではイエスは再び、ガリラヤ湖を舟で渡って元居た場所、おそらくカファルナウムの町に戻っています。するとそこに会堂長のヤイロと言う人物がやって来たと言うのです。ヤイロは「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23節)と必死に願い、イエスを病気の娘が待つ自分の家に連れて行こうとしたのです。
 この会堂長は当時のユダヤ人のコミュニティーの中心だった会堂を管理する役目を持っていました。ユダヤ人の会堂では毎週の安息日には礼拝がもたれていました。会堂長はその礼拝で説教する人を手配して準備をします。また、この会堂では安息日だけではなく、他の日にもいろいろな集まりがもたれていました。子どもたちに対する聖書教育もこの会堂で行われていました。現代で言えば「会堂長」は教会の長老のような役目を持っていると考えていいのかもしれません。それぞれの会堂には何人かの会堂長がいて、交代で会堂を管理していたと言います。会堂長はこのような重要な職務を引き受けるために村人から信頼されている人が選ばれました。信仰的にも模範を示すことができる人でなければなりませんから、会堂長の多くはファリサイ派に属する熱心な信徒だったとも言われています。
ヤイロもそのような意味では自分の信仰生活に疑問を抱くこともなく、託された役目を過ごす毎日を送っていたのだと思います。つまり、自分の生活に満足していたヤイロはそのままであればイエスに出会う機会を持つことはできなかったと言えます。おそらく彼は、自分の娘にこんなことが起こらなかったら、イエスのうわさに耳を傾けるくらいの関係に終わっていたと思います。
 私たちとイエスとの出会いはどのようにして始まったのでしょうか。もちろん、そのきっかけは人様々なものであると思います。しかし、私たちにもイエスと出会うきっかけとなったものが必ずあるはずです。そのきっかけがなかったら私たちは一生イエスに出会うことも、イエスを信じることもなかったからです。私たちには偶然のように思えるそのようなきっかけ、しかし、聖書はそのような出来事もまた神から与えられる恵みであると私たちに教えています。ヤイロもここで娘の病と言うきっかけを通して、死の力に勝利する救い主イエスに出会うことができたからです。

3.恐れてはならない

 イエスがヤイロの願いを聞き入れて彼の娘の元に来てくれると言う保証はどこにもありませんでした。だからこそヤイロはイエスに必死な思いで願い出たのでしょう(23節)。イエスはこのヤイロの願いを聞き入れて一緒に出掛けることとなりました。ところがその道の途中でヤイロには思いがけない出来事が起こります。十二年間も出血の止まらない病で苦しむ女性がイエスの衣に触れると言う出来事が起こったのです。もちろんイエスの衣に触れたぐらいなら何の問題もなかったかもしれません。しかし、イエスはここで立ち止まってしまいます。「自分の服に触れたのは誰か」と言い始めたのです。結局このイエスの言葉に促されるようにイエスの服に触れた女性がそこで名乗りを上げて出てきます。このことについては先月の伝道礼拝で取り上げて学びました。いずれにしても、緊急を要する事態であるにもかかわらず、この思いがけない出来事が起こったために時間が大幅に奪われてしまいます。この一部始終を近くで目撃していたヤイロの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。素直に、この女性の病が癒されたことを喜ぶことができたのでしょうか。むしろ、家に向かう時間を遅らせてしまっている女性に彼は恨み言さえ抱いたかもしれません。
 この出来事のせいなのかどうなのかはわかりませんが、このときヤイロの家からやって来た人々によって「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(35節)と言う連絡がヤイロの元に伝えられます。ヤイロはこの連絡を聞いてどんなにショックを受けたことでしょうか。せっかく、イエスが家に来てくれると言う見込みがついたのに、ヤイロの娘はその到着を待たずに死んでしまったと言うのです。人々は「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」とヤイロに語っています。ヤイロの娘は死んでしまったのですから、今更イエスがやって来てもどうにもならないと彼らは言っているのです。おそらく、この言葉を聞いたヤイロもまた「その通りだ」と思ったに違いありません。なぜならば人間の死と言う現実は誰にも動かすことのできない出来事であると言うことを私たちよく知っているからです。
 釈迦の言動を伝える仏典の一つにこのような逸話が残されています。一人の女性が小さな子ども抱いて釈迦の元にやって来ました。しかし、彼女が抱いていた子どもはすでに息を引き取ってしばらくたっていることが誰の目にもわかる状態でした。しかし、母親は自分の子どもが死んでしまったと言う事実を受け入れることができません。だから母親は釈迦に「この子を治してあげてほしい」と必死に願います。釈迦はその母親に「どこかの家からケシの花の種を一つもらってきなさい。そうしたら私がその子を癒してあげよう」と答えました。この言葉を聞いて喜び勇んでケシの種をもらいに行こうとする母親に釈迦はもう一言、ある条件を付け加えました。「そのケシの種はいままで一度も死人を出したことのない家からもらってこなければならない」と言うのです。母親は必死になってケシの種を見つけに家々を巡り歩きますが、一度も死人を出したことのない家は一軒もありません。そして母親はやがて「人は必ず死ななければならないこと」を知ったというのです。釈迦はこの女性が現実を理解し、人の死と言う事実を受け入れることを促したと言えるのです。
 しかし、この時のイエスはそうではありませんでした。なぜならヤイロに「恐れることはない、ただ信じなさい」(36節)と語られたからです。ヤイロはいったいこのとき何を恐れていたと言うのでしょうか。ヤイロは娘の死と言う現実の前で、もはや自分の娘は人間の力ではどうすることもできない死の世界に旅立ってしまったと考えていました。だから彼は娘と自分の関係を引き裂く人間の死と言う底知れない力に恐れを抱いたと言ってもよいのです。

4.私を信じなさい

 イエスは、この人間の死と言う現実に恐れを抱くヤイロに「恐れることはない、ただ信じなさい」と語ります。そして弟子のペトロとヤコブ、そしてヨハネだけを連れてヤイロの家に向かいました。この三人はイエスの生涯で特に重要な場面に同行を許された特別な弟子たちでした。山上でイエスの姿が変わった出来事(9章2節)でも、またゲッセマネの園の祈りの場面(14章33節)でも彼らだけはイエスのそばにいることが許されました。もちろん彼らが特別に優れた人々ではなかったと言うことはゲッセマネの園で彼らが眠り込んでしまったと言うことからも分かります。この三人はイエスと父なる神との密接な関係を知る特権を許された人々であり、その密接な関係を正しく人々に知らせるために選ばれた人々であると言えるのです。なぜなら、今回の出来事でもイエスと父なる神との関係を理解しなければ分からないような出来事が起こっているからです。
 イエスの一行がラザロの家に着くと、そこにいる人々は大声で泣きわめいていました(38節)。「大声で泣きわめく」とは娘の死を悲しむと言う意味もあると同時に、娘を奪った災いの霊がこの家から出て行くようにと願う「お祓い」のような意味もあったようです。いずれにしても、人間は人の死と言う現実を前にして泣き叫ぶしかできないのです。しかし、イエスはこの人々を見て「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」(39節)と言われました。「子供は死んだのではない」と言われても、娘が死んだことはすでに十分確かめられていますから、この言葉を聞いた人々はイエスをあざ笑ったと伝えられています(40節)。「何を馬鹿なことを言うのか」と人々は考えたのでしょう。イエスの十字架の周りに集まった人々も同様にイエスをあざ笑いました。これはイエスの本当の姿を理解することができない人々がいつもとる姿勢と言えます。
 どうしてイエスは死んだ娘を「眠っているのだ」と言ったのでしょうか。それはこの言葉を語るイエスにはこの死んだ娘をもう一度、その床から起き上がらせることができる力があるからです。だからイエスにとっては人の死は、眠っていると言ってよいものなのです。イエスだけは死んだ者を起き上がらせる力を持っているのです。そして私たちもまたイエスを信じて世を去った人々を「眠っている」と言うことが許されています。なぜなら、彼らも必ずイエスの力によってもう一度、起き上がり、復活する日がやって来るからです。
 イエスはこの娘の部屋に入り、娘に「タリタ、クム」と呼びかけます。それは「少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」と言う意味です。死んだ人にいくら語り掛けても、その人がその言葉を聞いて反応することはまずあり得ません。しかし、イエスの言葉は違います。なぜなら、イエスは人に命を与える神の独り子であられるからです。神の独り子であるイエスの言葉は死の力に支配される人間の耳にも届けられることができるのです。そしてこの言葉を聞いた娘はすぐに起き出し、歩き出したと言うのです(41節)。
 ヤイロは自分の信じたものとは違う死んだ娘が生き返ると言う出来事を体験することができました。イエスはこのとき、ヤイロの信仰を超えた素晴らしい恵みを彼の家庭に示してくださったと言うことができます。イエスは人の力ではどうすることもできない死の力に勝利することができる救い主であることをヤイロはここで知ることができたのです。
 このようにしてヤイロの物語は私たちが今、出会っている救い主イエスはどのような方なのかと言うことを教えています。イエスは私たちの抱く願望をそのままかなえてくださる方ではありません。なぜなら、ヤイロの抱いた願望もそのままでは実現していないからです。しかし、私たちのイエスは私たちの抱く小さな願望をはるかに超えた恵みを持って私たちの信仰に答えてくださる方であることをこの物語は教えています。そしてそのイエスは私たちにも「恐れることはない。ただ信じなさい」と呼びかけてくださいます。この言葉こそが私たちの力ではどうすることもできない現実にぶつかっている私たちにとって確かな希望であることを私たちは今日の物語を通して学ぶことができるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 娘の病とその死と言う苦しみを負ながらイエスに出会った会堂長ヤイロは「恐れることはない、ただ信じなさい」と言う言葉に従うことで、自分の想像をはるかに超えたイエスに恵みに出会うことができました。私たちもまた、この世の生活の中で自分の力の無力を痛感し、また追い詰められるような出来事に遭遇します。どうかそのとき私たちもイエスにより頼み、そのイエスを通して希望を受けることができるようにしてください。何よりも死に勝利することができるイエスに信頼することで、私たちがあなたから来る平安を受けて生きることができるように助けてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヤイロは何のためにイエスの元を訪れましたか(22〜23節)
2.ヤイロがイエスと共に自分の家に向かう途中の道でどんなことが起こりましか(25〜34節)
3.この出来事のすぐあと、ヤイロの家からやって来た人々はヤイロにどんな知らせを伝えましたか(35節)。
4.娘の死の知らせを聞いたヤイロにイエスは何と言われましたか(36節)ヤイロはこのとき何を恐れていましたか。また、彼は何を信じる必要があったのでしょうか。
5.ヤイロの家で大声で泣き騒いでいる人々に向かってイエスは何と言われましたか(39節)。このイエスの言葉を聞いた人々はどのように反応しましたか。
6.イエスは死んだ子供の手を取って何と呼びかけられましたか(41節)。この出来事を通して、私たちはイエスについて何を知ることができますか。