1.信仰とは何か
今日は皆さんと共にマルコによる福音書に記された物語から、私たちの信仰について、そして祈りについて少し考えて見たいと思います。私たちはよく「自分の信仰は小さい」とか「弱い」と言う表現を語ることはないでしょうか。おそらく、「私の信仰は完璧、非の打ちどころがない」などと言う人はあまりいないはずです。
確かに私たちは「自分の信仰は小さい」、「弱い」と考えるからこそ救い主イエスの助けを求める必要があることを感じるはずなのです。なぜなら、「自分は完璧だ」とか「自分の信仰には何も問題もない」と考える人にはそれで満足してしまって、神さまの助けなど求める必要がなくなるからです。だから、私たちは自分の信仰が完全でないこと、あるいは弱いと感じることができることを喜ぶべきだと思います。神さまは自分の弱さを痛感する私たちの求めに応じて、恵みを豊かに与えてくださる方だからです。
しかし、信仰が「強い」とか「弱い」と言う表現の中には危険な誤解も隠されていると考えることもできます。なぜなら、結構多くの人が信仰を自分が持っている「信じる力」、能力の一つのように勘違いしているからです。私たちはそれぞれ自分で様々な力をも持っています。肉体的な力だけではなく、考える力と言うものもあるはずです。理解力とか、適応能力とか、あるいは人間的魅力と言うものもあります。おそらくその他にも人間には様々な種類の能力、力が備わっています。そしてその力の強さは人間によってそれぞれ違っています。「信仰」をそのような人間が持つ力の一つと考えてしまう人がいるのです。それは本当に正しいことなのでしょうか。聖書の思考から考えて見るならこの答は明らかです。もし信仰が私たちの持っている「信じる力」であるとしたら、そこには私たちを救う力は全くないと言えるからです。なぜなら、聖書は私たち人間から出るものの一切は人間の救いに対して全く何の役にも立たないと教えているからです。
私が教会に導かれて洗礼を受けて信仰生活を始めようとしたときに一番、悩んだのは「自分はこれからもずっと変わらず神さまを信じ続けることができるのだろうか」と言うことでした。私は自慢ではありませんが、子どものときから「あきっぽい」性格でした。だから今までいろいろなものを初めては途中で放棄するということを繰り返して来たのです。そんな私には信仰生活を続ける自信が全くなかったのです。もし、信仰が自分の持っている「信じる力」だとするなら、自分はその力をいつまでも維持することは決してできないだろうと考えていたのです。
しかし、信仰は私の持っている「信じる力」ではありません。信仰は神が私たちに与えてくださるものであり、そのような意味で信仰とは神から私たちに与えられた力、神の力だとも考えることができるのです。イエスは私たちの信仰について「からし種一粒ほどの信仰があれば何でもできる」と言っています(マタイ17章20節)。それはなぜでしょうか。私たちに与えられている信仰は神の力だからです。その神の力には何でも可能となるのです。このように聖霊なる神が私たちに与えてくださる信仰には無限の力が秘められていると言えるのです。
2.山の下での混乱
①弟子たちには治せない少年
今日の物語は「一同がほかの弟子たちのところに来てみると」(14節)と言う言葉から始まっています。この一同とはイエスとイエスの弟子であったペトロ、ヨハネ、ヤコブの4人のことを指しています。実は彼らはこの箇所の直前で高い山に登り、そこで特別な出来事を体験していました。高い山の上でイエスの姿が素晴らしい栄光に輝く姿に変わったのです。この姿は神の御子であられるイエスの元々持っていた本当の姿でした。三人の弟子たちは私たちと同じように弱い人間の一人となられたイエスが、実は栄光に輝く神の独り子であることをここで知らされたのです。このように山の上では誰もが驚く素晴らしい出来事が起こっていましたが、その山のふもとでは同時刻に大変な出来事が起こっていたと言うのです。
いったい、そこで何が起こっていたのでしょうか。そのことについて「群衆の中のある者」がイエスの問いに答えて次のように説明しています。一人の父親が(実はこの説明をしている者がこの父親本人であることがこの文章からも分かります)その父親が霊にとりつかれて苦しんでいる自分の息子を連れて来ました。彼はたぶん悪霊を追い出し、病の人を癒されるイエスについての噂をどこかで耳にしていたのでしょう。だから父親は「このイエスなら自分の息子に取りつく霊を追い出して、息子を癒してくださるかもしれない」と考え、ここまでわざわざ連れて来ていたのです。ところがこのとき、肝心のイエスは三人の弟子たちと共に山の上に昇っていて、不在でした。その替わり山のふもとには他の弟子たちだけが残されていました。だから、この父親はその弟子たちに「息子にとりつく霊を追い出してほしい」と願ったのです。しかし残りの弟子たちにはそれができなかったと言うのです。そこでイエスや弟子たちのことを心よく思わない律法学者たちが加わって議論が始まってしまいました。おそらく、律法学者は「これはよいチャンス」とばかりに、弟子たちの失敗をここで取り上げて、イエスとその弟子たちを批判する材料としたのでしょう。
②不信仰とは何か
ほぼ同時刻に山の上とその山のふもとで対照的な出来事が起こり、それが福音書に詳しく記されています。この物語についてラファエロと言う画家が「キリストの変容」と言う絵を描いています。その絵の上部には山の上で起こった栄光に輝くキリストの姿と、それと同時にふもとで起こっていた混乱した人々の姿が絵の下の方に描かれていて、それが一枚の絵となっているのです。ある説教者はこのラファエロの絵を使ってイエスがこのとき語った「なんと信仰のない時代なのか」(19節)と言う言葉を説明しています。イエスが語った「信仰がない」と言うこと、つまり「不信仰」とは何かをラファエロの絵から説明しているのです。
この絵の上部にはイエスを中心にモーセとエリアの姿が空中に描かれ、それを三人の弟子が見上げているのが分かります。そしてこの絵の下の方には他の弟子たちや子供を連れてきた父親、そして律法学者や群衆の姿が描かれています。特徴的なのは下の方に描かれている人はすべてキリストに対して背を向けて描かれています。そこには誰一人、キリストを見上げている人はいないのです。つまり、ラファエロがこの絵を通して表現した不信仰とは「キリストに対して背を向けること」、「キリストを見上げない」ことだと考えることできると言うのです。
ですから今日のこの物語の中で起こっている混乱の原因は悪霊の仕業にあるのではないのです。だれもキリストに目を向けおらず、キリストに背を向けながら生きているところに混乱の大きな原因があったと言えるのです。そして救い主イエスはそのことを嘆かれていると言えるのです。
3.信仰を求められた父親
①完全な信仰を持つイエス
ここでイエスの命令によって悪霊に取りつかれた子ともが連れてこられます。すると、イエスの姿を見たその子供に取りついていた「霊」は、その子を引きつけさせ、地面に倒れさせ、転びまわって泡を吹くようにさせました。悪霊は誰よりも早くイエスの正体を見破ります。イエスが自分たちを追い出す力を持ち、滅ぼす力を持っておられることを彼らは知っているのです。悪霊がここで子どもにこのような酷い症状を起こさせたのは、その父親に「何をしても無駄だ」と言うことを知らせ、彼を早々イエスの元から引き離そうとしたからです。そしてその悪霊の策略は次の父親の発言を見ると、ある程度まで効果を上げていると言うことが分かります。
父親は今まで、息子を助けるために自分にできる限りのことをしてきたはずです。しかし、父親はそのたびに期待を裏切られると言う体験をし続けてきたのです。この父親は何度も何度も「まただめだった」という思いに襲われて来たのです。このように期待を裏切られ続ける者は、いつの間にか自分で事前に防衛策を取るようになります。つまり、期待を裏切られたときのことを予め予想して、実際にそれが起こったときのショックを少なくしようとするのです。だからこそこの父親は次のようにイエスに語っています。
「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)。
今まで何度も期待を裏切られ続けて来た父親でした。そして今も、イエスの弟子たちによって同じような体験を繰り返したばかりの父親は、イエスに対しても半信半疑の願いしか表すことができなかったのです。するとイエスはその父親の本心をすぐに見抜いて次のように語られました。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(23節)。
「信じる者には何でもできる」。この言葉には様々な解釈が存在しています。その中で興味深いのはこの「信じる者」とはイエス自身のことを指し示していると言う理解です。なぜなら、イエスだけが100パーセント完全な信仰を持っておられる方であり、父なる神に対する完全な信頼を持っておられる方だからです。だからイエスだけが「自分には何でもできる」と言うことができるのです。
②信仰は神のもの
ところで問題はこのイエスの言葉に対する父親の答えです。
「信じます。信仰のないわたしをお助ください」(24節)。
信仰のない人がなぜ信じることができるのでしょうか。この言葉は矛盾した言葉になっています。しかし、この言葉こそ私たちの信仰の意味をよく表していると言えるのです。なぜなら信仰は私たちの内から生まれてくるものではないからです。私には信じる力が全くないのです。罪を犯した人間は誰もそんな力を持つことはできません。だから「私たちには信仰がない」と言う言葉は正しいのです。しかしおどろくべきことに、その信仰をイエスが聖霊を通して信仰のない私たちに与えてくださるのです。だから、私たちはイエスによって信じることができるようにされたのです。信仰は神の業であり、神の力なのです。この後、霊につかれた子どもはイエスの力によって完全に癒されます(27節)。しかし、神の御業はこの息子の癒しの前に、その父親に信仰を与えるところから始まっていたと言うことができるのです。私たちが神を信じることができるのは奇跡のようなものです。なぜなら、本来私たちは信じることができない者たちだったからです。
このように信仰のない私たちに与えられたものこそが、私たちが今持っている信仰なのです。だからその信仰は私から生まれて来たものではなく、神からの賜物であり、神のものなのです。そしてだからこそ、この信仰には無限の可能性が隠されていると言うことができるのです。
4.どうして弟子たちはできなかったのか
この後、弟子たちは「なぜ自分たちには悪霊を追い出すことができなかったのか」と疑問を感じます。なぜなら、弟子たちはすでにイエスによって悪霊を追い出す権能をいただいていたからです(マルコ6章13節)。その弟子たちがどうしてここでは悪霊を追い出すことに失敗してしまったのでしょうか。この疑問にイエスは次のように答えています。
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(20節)。
失敗の原因はこのとき弟子たちが祈らなかったことにあるとイエスは語っています。祈らないこと、つまり彼らはこのとき神の助けを求めないで、自分たちの持っている力で問題を解決しようとしたと考えることができます。これでは必ず失敗するしかありません。このように神に祈ること、それは神に素直に助けを求めることを意味しています。だから神に祈る人は、まず自分の無力を認めなければならないのです。
私は小さい時から「人に助けを求めることは恥ずかしいことだ」と言った教育を親から受けました。おそらく私の親は私が他人に頼らないで、何でも自分でできるような人間になってほしいと考えたのでしょう。もちろん私の親が私を助けなかったわけではありません。しかし、実際に私が口に出して助けを求めると、私の親は「お前がちゃんとしていないからだ」と言う叱責をまずしてくるのです。ですから私はいつの間にか「人に助けを求めることははずかしい」という価値観を持つようになったのです。もちろん、他人に頼らず自分でできればそれに越したことはありません。しかし、自分にできないのに助けも求められないとしたら、それは不幸なことです。助けを求めることができないならば、自滅する道しか残されていないからです。
祈りとは神に大胆に助けを求めることだと言えます。だから祈るためには自分の無力を認めて、それを神の前にさらけださなければなりません。無力な自分をさらけ出すことを「恥ずかしい」と思う人は祈ることができません。もしかしたら、この時の弟子たちにはプライドがあったのかもしれません。彼らは霊に取りつかれていた息子を連れて来た父親に「私たちにはできません」と言うことが恥ずかしくて言えなかったのかもしれません。しかし、祈るということは恥も外聞も忘れて、神に助けを求めることなのです。プライドを捨てて神の前に自分の本当の姿をさらけ出して、神に助けを求めることなのです。そのとき、イエスは私たちの祈りに答えて、私たちに信仰を与え、その信仰を通して御業を豊かに表してくださるのです。
信仰は私の力ではありません。神からの賜物、神の力です。その信仰を神は自分の無力をさらけ出して助けを求めて大胆に祈る者に、豊かに与えてくださるのです。だから「信じます。信仰のない私をお助けください」と語ったこの子どもの父親の言葉は私たちの言葉でもあるとも言えるのです。
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