1.イエスの拒否
①外国人の女性
今日もマルコによる福音書の物語から学びたいと思います。今日の箇所で問題となるのは「悪霊につかれた娘を助けてほしい」と願い出た一人の母親に対して語られたイエスの発言です。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27節)
読んでわかるようにイエスはここで母親の「娘を救ってほしい」と言う必死の願いを拒否している、あるいは無視しているように思えます。娘を助けたいと懸命に願う母親に「それは私には関係ない」。イエスのこの言葉はそう語っているように聞こえます。いったい、私たちはこのイエスの言葉をどのように理解したらよいのでしょうか。今日はこのイエスの言葉を巡って明らかになった一人の母親の信仰について学んで見たいと思います。
まず、私たちはイエスのこの言葉を正しく理解するために、イエスがどのような状況の中でこの言葉を語ったのかを知る必要があると思います。マルコ福音書の著者はこの物語を「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」と言う言葉で始めています(24節)。聖書の巻末の地図をご覧になられると、このティルスの町がどこにあるかが分かります。ティルスは地中海に面した港町で、現在で言えばレバノンの南部に位置する町でした。この町は海洋民族として有名なフェニキア人によって作られた町であったようです。地図を見ればここティルスはイエスが活動の拠点とされていたガリラヤ地方からもだいぶ離れたところにあることも分かります。それでは、なぜイエスがこのようなところに来る必要があったのでしょうか。マルコは続けてその事情をこのように語っています。「(イエスは)ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた…」。イエスはこのとき「誰にも知られたくない」と思っていたと言うのです。そしてその願いを実現するために、わざわざこの遠いティルスの町までやって来られたと言うのです。当時、イエスのうわさはイスラエル中に広まっていました。そのためイエスが行くところどこでもたくさんの群衆が集まりました。ですからその群衆から離れて、静かなときを持つ、それがこのときのイエスのティルス行きの目的であったと考えることができます。しかし残念ながら、イエスの願いはここでも適うことがありませんでした。なぜなら、ここティルスでもイエスがやって来られたと言う知らせはすぐに広まって、イエスがティルスの町にいることが「人々に気づかれてしまった」からです。
そしてイエスのうわさを聞いてやって来たのがこの物語に登場する悪霊に取りつかれた娘を持った一人の母親です。マルコは彼女について「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」(26節)と説明しています。同じ物語をマタイによる福音書も記録をしていますが、マタイはこの女性を「この地に生まれたカナンの女」と言っています。カナンは神がイスラエルの民に与えると約束された土地の名前、イスラエルの地の別名です。そして聖書が「カナン人」と記す場合には、モーセに導かれてイスラエルの民がカナンの地やって来た、そのずっと前からこの地に住み着いていた先住民であることを表しています。おそらく、このような福音書の記述を参考にして考えると、この女性はこの地に古くから住む先住民に属する人物あり、ギリシャ語を日常語として使う、つまりイスラエルの民から見れば外国人であったことが分かります。
②イエスはイスラエルの民のために派遣された
そのように考えると、先ほどから問題にされているイエスの発言はイエスが外国人の女性に向けて語られた言葉であることが分かります。それではなぜ、イエスは外国人の女性にこのような発言をしたのでしょうか。このことについてもマタイによる福音書の記録を参考にするとよく分かります。マタイは先ほどのイエスの発言の前に、イエスが語った次のような言葉も記録しています。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15章24節)。
このイエスの言葉から考えるならば、イエスの活動の対象はイスラエル民族にのみ限定されている、だからこの女性はその対象からはずれていたと言うことになります。マタイはこの話の前にイエスが十二人の弟子たちを二人一組にして伝道旅行に派遣されたときに、弟子たちに同じような指示をされたと言う記録を残しています。
「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10章5〜6節)。
このようなイエスの言葉を参考にすれば、イエスの活動対象は約束の民であり、アブラハムの子孫とされるイスラエルの民族だけに向けられていたと言うことが分かります。そう考えるとこの女性は外国人である訳ですから、当然イエスの活動の対象外の人物であったことが分かるのです。
2.イエスの発言の意味と神の計画
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
この言葉は、「イスラエルの民ではないあなたに食べさせる分はない」、「あなたを助ける義務は私にはない」と言っていると言うことになります。そう考えるとイエスのこのときの言葉はやはり娘のことで苦しんでいる母親の願いを無視する冷たい言葉のように思えてなりません。これでは、どうも私たちが普段から抱いているイエスの言葉とはかなり違っているような気がしてならないのです。ですから、なぜイエスからこんな冷たい拒否の言葉をこの女性に語ったのだろうかと言う疑問がさらに強まるのです。
しかし、実はイエスはこのような冷たい言葉を自分の母親であるマリアにも語っているところがあります。ヨハネに福音書の最初の部分には「カナでの婚礼」と言う物語が記されています(ヨハネ2章1〜11節)。イエスが母のマリアと知り合いの結婚式に出席したときのお話です。結婚式の祝宴のために準備していたぶどう酒が足りなくなってしまうという事件がここで起こりました。マリアはそのことを息子のイエスに相談したのです。するとイエスはよりによって自分の母であるマリアに向かって次のように答えたと言うのです。
「イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2章4節)
このイエスの発言は自分の母に対して「私とあなたは何の関係もない。私はあなたの面倒を見るためにここにいるのではない」と言っているような発言となっています。普通なら「親不孝者」と非難されてもよいような言葉です。この発言を理解するための鍵は「わたしの時はまだ来ていません」と言うイエスの言葉です。この言葉から考えるときイエスの行動のすべてはあるタイムテーブル、つまり計画表に従って実行されていると言うことが分かるのです。この計画表とは何でしょうか。それは神が私たち人類を救うために立てられた計画表です。イエスの行動はいつもこの神の計画に従ってなされていると言っているのです。
そう考えると今日の物語でのイエスの発言の内容の真意も分かって来るように思えます。神が立ててくださった神の救いの計画は、まずイスラエルの民であるユダヤ人たちを通して実現されなければなりませんでした。なぜなら、イエスはこのユダヤ人たちによって十字架にかけられて死ぬ必要があったからです。そして神の救いの計画はこのイエスの死と復活を通して、イスラエルの民だけではなく、すべての国民の上に実現するはずなのです。
ですからイエスの「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言う発言は、外国人の女性に「異邦人」が救いにあずかるための順序があることを教え、その計画を実現するためにまず自分はイスラエルの民のために働かなければならないと言っていることが分かります。そしてイエスのこの時の答えはこの母親の願いを聞いて娘の悪霊を追い出すということではなく、この母親やその娘の罪が赦され、彼女たちが永遠の命を受け継ぐためにはどうしても神の計画が実現する必要があると言っていることになるのです。そのような意味では、イエスはこの親子の本当の救いを念頭に置いて、この言葉を語っているとも考えることができるのです。
3.あきらめない信仰
①イエスを主と受け入れる信仰
さてイエスのこのような発言をこの母親はどこまで理解することができたのでしょうか。聖書にはそのことは詳しくは記されていません。しかし、この母親はイエスの語られた言葉に「血も涙もない…」と言って抗議するのではなく、むしろ信頼の姿勢を示していることが聖書の記述から分かるのです。なぜなら、彼女はこのイエスの言葉を聞いた上でイエスに対して「主よ」と呼びかけているからです。イエスに対して「主よ」と呼びかけると言うことは、この女性が自分の人生の導き手としてイエスを認めているということになります。つまり、彼女がイエスを自分の主と呼んだことは、イエスがなそうとしておられる救いの御業が自分のためのものでもあると言うことを彼女が受け入れたと言うことにもなるのです。
私たちは神の計画に従って行動するイエスを本当に自分の「主よ」と呼ぶことができるでしょうか。それが私たちの信仰生活では重要な課題となります。なぜなら、選びの民であったイスラエルの人々はこの女性のように、イエスを自分たちの「主」と呼ぶことができなかったからです。彼らはイエスが神の救いの計画に基づいて行動しようとしたときに、「それは私たちの計画とは違う」とイエスに抗議し、自分たちの計画に従わないイエスを「そんな救い主はいらない」と拒否し、十字架に掛けて殺してしまったからです。
②神の計画に従った異邦人の将軍
旧約聖書の列王記下5章にはアラムの将軍であったナアマンと言う人物が登場します。彼は異邦人でしたがイスラエルの預言者エリシャを通して重い皮膚病(らい病)から癒されると言う体験をしました。この外国人の将軍は最初、自分の病がイスラエルの預言者を通して癒される過程を予め予想していました。ナアマンにはナアマンの立てた計画があったのです。しかし、預言者はその計画とは全く違った行動をとりました。預言者エリシャはナアマンに神の計画を明らかにし、ナアマンにそれに従うようにと命じたのです。ナアマンは当初は預言者の意外な反応に怒りを感じ、そのまま自分の国に帰ろうとしました。ところがナアマンは知恵ある一人の臣下の助言によって思いを翻します、そして彼は預言者を通して示された神の計画に従ったのです。すると聖書は「彼の身体は元に戻り、小さい子供のからだのようになり、清くなった」(列王記下5章14節)と、その結果を報告しています。
私たちの信仰に必要はなのは自分の計画に神を従わせることではありません。また神の計画は自分の計画と違うと言って抗議したり、諦めてしまうことでもありません。大切なのは神の計画に信頼して、その計画に従うことです。そうすれば、神は私たちのために予め準備してくださった祝福を豊かに与えてくださるのです。
4.神の恵みの大きさを知る
①自分の信仰を表明する母親
さて、この母親の信仰は神の計画に信頼し、それに従うことだけで終わるものではありませんでした。それは彼女の次の発言に示されています。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28節)
母親のこの発言はイエスに抗議しているのではありません。彼女はむしろ、父親がまず自分の子どもにパンを与えることは当然ですと神の計画を認めているのです。しかし、彼女はたとえ子どもたちがパンを食べても、必ずそのパン屑が残って、テーブルの下に落ちるはずだと言っているのです。そして「そのパン屑ならたとえ小犬であったとしても、食べていいでしょう」とイエスに語るのです。ここに彼女のイエスの力に対する絶対的信頼が表明されています。
イエスの恵みの力は決して誰かに与えたからと言って足りなくなってしまったり、なくなってしまうことはないとこの母親は信じているのです。イエスが五千人の人々に五つのパンと二匹の魚を分け与えたとき、五千人の人々が満腹するだけではなく、余った食物が十二の籠にいっぱいになったときと同じように(マルコ6章30〜44節)です。イエスの力はどんなことが起こっても決して足りなくなると言うことはないのです。
母親の信仰はさらに自分の娘が悪霊の働きから自由にされて、元気になるためには、余ったパン屑で十分だと考えていることもこの言葉から分かります。今まで誰も解決のできない深刻な問題であったとしても、イエスの力がわずかにでもそこで働くなら完全に解決することができると母親は信じていたのです。
②人生の財産となった信仰
私たちは神の力についてどのように信じているでしょうか。確かに私たちの人生には自分にも解決のできない問題が存在しています。この世の力では解決のできない問題を私たちは自分の人生の中で抱えることがあるのです。しかし、私たちの信じる神はそのような私たちの抱える問題を解決することのできない力のない神なのでしょうか。そうではありません。私たちの抱える問題に対して、神の力が足りないなどと言うことは決してないのです。この母親が語ったように、もし神の力が少しでも働くなら、私たちの抱えている問題は解決するのです。マルコの福音書はこの物語をここに記録することで、私たちにもこの母親と同じような信仰を持つようにと促しています。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
イエスはこの母親の言葉を聞いて「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と答えられています。イエスの言葉はこの母親の言葉を待っていたかのような発言に聞こえます。もしかしたらイエスは最初からこの母親の願いを聞かれるつもりであったのかもしれません。しかし、イエスはただ彼女の娘の悪霊の問題を解決するだけではなく、この母親自身に信仰の告白をさせたかったのかもしれません。なぜならば、この信仰の告白こそが彼女や彼女の娘の人生をこれからも導き、支えるものとなるからです。
確かにこのときイエスの御業によって彼女の娘は悪霊から追放されて、元気になることができました。しかし、彼女たちの人生はこれからも続くのです。これからも彼女たちの人生には様々な問題が起こるかもしれせん。そのときに大切になってくるのは、この母親がここで告白したイエスに対する信仰、強い信頼の姿勢です。「イエスの力に限りはなく、イエスの力が少しでも働くなら、私の問題は解決される」。彼女がこのとき抱いた信仰は彼女のこれからの人生の財産となり、また子供たちに受け継がれる遺産ともなるものでした。そしてイエスはこの物語を読む私たちにも同じ信仰の財産を受け継ぐようにと勧めているのです。
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