2018.5.27 説教 「はっきり話す」
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聖書箇所
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マルコによる福音書7章31〜37節
31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
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説 教 |
1.聞こえない苦しみ
①ヘレン・ケラーとサリバン
皆さんはヘレン・ケラーと言う女性を知っておられるでしょうか。おそらく、皆さんの中にはこのヘレンとその家庭教師だったサリバンと言う二人の女性の姿を描いた映画「奇跡の人」をご覧になられた方があるかもしれません。ヘレンは赤ん坊のころにかかった病気によって、視力、聴力、そして言語能力と言う人間が生きて行くときに最も大切だと思われる機能を失ってしまいました。おそらく両親や家族は自分たちの不注意で娘をこのような状態にしてしまったと言ううしろめたさもあったのだと思います。彼らはヘレン・ケラーがやりたいままにさせる放任主義をとりました。だから彼女はいつも動物のように暴れまわっては家中の人を困らせるような子供に成長してしまったのです。その両親からヘレン・ケラーの教育を任されたのが、アン・サリバンと言う女性でした。彼女自身、子どものころから視力に障害を持っていたため自由にものを見ることができず、盲学校で学んで来たと言う経験を持っていました。そして、サリバンがヘレンの家にやって来ることで、彼女のヘレンに対する熱心な指導が始まります。この教育の過程が映画「奇跡の人」に描かれているのです。私も子供の頃、たぶん学校の映画会でこの映画を見せられたような記憶があります。サリバンが井戸の水をポンプで汲み出し、ヘレンにそこから流れ出る水を触らせる場面で、ヘレンが「ウオーター、ウオーター」と大きな声で叫び出すシーンが私の脳裏に今でも残されています。
別のところで読んだことですが、サリバンはヘレンに最初に出会ったときの印象をこう語っていたと言います。「この子を苦しめているのは彼女の持っている障害ではない。彼女を苦しめていたのは、この子は何もできない可哀想な子供だと思い込んでいる両親たちだ」と思ったと言うのです。つまり、本当の原因は自分の娘に隠されている可能性を見ることも、聞くことも、また語ることのできなかったヘレンの両親にあったと言うのです。つまり三重の障害を持っていたのはヘレン・ケラーではなくその両親であったとも言うことができるのです。
②霊的な能力を失っている人間
実は聖書は私たち人間のすべてがヘレン・ケラーと同じような障害を持って苦しんでいることを教えています。罪と死に支配されている人間は、自分が見聞きする世界だけがすべてであると勘違いしています。だから人間はこの世で希望を持つことなく、最後には無意味な死を迎えなければならないと思い込んでいるのだと言うのです。そして聖書はそれが私たちの思い込みであって、実はそうではないと教えています。なぜなら私たち人間は最初から神の愛の対象であり、その神が私たちにいつも希望を与え続けてくださっているからです。しかし、残念ながら私たち人間は聖書を通して語り掛けてくださる神の声を聞くことができないでいるのです。そしてむしろ聖書が語る真理よりも、私たち自身が経験する毎日の生活で得た知識の方が確かだと思ってしまっているのです。結局、そのために私たちもまたヘレン・ケラーの両親のように、自分は可哀想な人間だとだけ考えています。そして何をやってもだめだと思い込んで、自分たちの人生に秘められた可能性に少しも目を向けようとしないのです。
しかし、神はその私たちをそのままにしておくことはありませんでした。本当のことが聞こえなくなってしまった私たち人間を、また本当のことが見えなくなってしまった私たちを救うためにイエス・キリストを遣わしてくださったからです。今日の物語では一人の耳が聞こえず、舌の回らない人がイエスの元に連れて来られ、イエスによって癒されるという奇跡が紹介されています。そしてこの物語は同時に霊的な機能を失っている私たち人間もこのイエスの御業によって、癒しを受け、霊的機能を回復することができた者たちであると言うことを教えようとしているのです。
2.イエスの癒し
①外国人の癒し
先日の礼拝の箇所ではティルスの町で霊に取りつかれて苦しむ娘を持った一人の母親が登場し、イエスに「自分の娘を助けてほしい」と願った物語を学びました。イエスはこのとき一旦はこの女性が外国人だと言う理由でその願いを断ろうとしました。しかし、母親は決してあきらめずに、イエスに食い下がりました。そしてイエスはご自分の力のすばらしさを見抜いていたこの母親の信仰を見て、母親の願い通りに彼女の娘を癒されたのです。
今日の部分ではイエスはこのティルスの町を離れ、その北部の同じように地中海沿岸に面して作られた港町シドンを訪れ、そのあとヨルダン川の東側にあったデカポリス地方に移っています。そして最後にガリラヤ湖に到着したという彼の旅の行程がまず記されています。おそらく、今日の物語はガリラヤ湖の東部にあったデカポリス地方、つまりユダヤ人ではない人々が住んでいた場所で起こったものと考えられています。そしてここでイエスはユダヤ人ではない人々の願いをすぐに聞き入れています。これを考えると前回学んだイエスの「外国人だからだめ」と言う拒否の理由は言葉だけのことで、むしろこの物語に登場した母親を信仰に導くためのイエスの作戦であったとも考えることができます。イエスはいつでも、私たちの信仰を育てために最善の方法を選んで、私たちに働きかけてくださる方だからです。
②エファタ
このとき人々はイエスの元に「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れて来て、その人の上に手を置いてほしいとイエスに願いました。「手を置く」とはその人の頭の上に手を置いて神に祈り癒しを求める一連の動作を示す言葉です。ここでは人々が「この人を癒してください」と願ったと言う意味で用いられていることが分かります。
この人は「耳が聞こえない」が全くしゃべれないと言うのではなく、何かをしゃべっているが、それが何を語っているか相手に理解できないような音声でしかなかったと言うことがこの言葉から想像できます。私はこのような機能障害について専門的知識を持っていませんからわかりませんが、おそらくこの人は耳が聞こえないために、適切な言葉をしゃべれなかったのではないかと考えることができるのです。
人とのコミュニケーションにおいて、まず相手に適切な言葉をはっきりと伝えることはとても大切になってきます。どんなにたくさんの言葉を語ったとしても、肝心のことが相手に伝わらなければ、せっかくしゃべっても意味がありません。しかし、コミュニケーションでいつも問題になるのは、むしろ私たちが相手の話を正しく聞き取っていないというところにあると言えます。私たちが相手の話を正しく聞き取ることができなければ、その相手に対して適切な返事を返すことができません。コミュケーションの問題で起こるすれ違いは相手の話をお互いに正しく聞くことができないところに一番の問題があるのです。落語では八っさん熊さんの会話がうまくかみ合わないところに面白さがあるのですが。実際の生活でこのような問題が起こっているとしたら深刻です。
イエスはこの人々たちの願いをすぐに聞き入れてその耳が聞こえず、舌が回らない人だけを連れ出されました。そして彼の耳に指を差し入れ、唾を付けた手で舌に触れたと言うのです。イエスが病人を癒される方法はいつでも同じではありません。だからイエスはその人を癒すために、その体に触れる必要は必ずしもなかったはずです。
ここでイエスはこの耳が聞こえず、舌の回らない人をわざわざ群衆の中から連れ出して、その体に触れています。これはご自分のためと言うよりは、この癒しを受ける本人を配慮してこのような動作を行ったと考えることが適切かもしれません。どんなに名医と言う評判があっても、「どうも自分にはこの先生を信用できない」と言うことがあります。「自分の話を真面目に聞いてくれない」、「痛いところに触ってくれるようなことも一切ない」、そんな不満を感じるからです。そう考えるとイエスのこの時の行為は相手の苦しみを理解し、それを一緒に担おうとする態度が示されていると言ってよいかもしれません。
イエスはこの後、「天を仰いで深く息をつ(かれた)」と語られています。天を仰ぐとは祈りの行為を示しています。この人のために懸命に祈るイエスの姿がここに描写されているのです。そこでイエスは「エファタ」と言うアラム語の言葉を語りました。それは「開け」と言う意味です。するとこの人の耳が開き、舌のもつれもとれたと報告されています。イエスの語る言葉は私たち人間の語る言葉とは違います。彼が語る言葉は天地万物をそのみ言葉によって創造された神の言葉と同じものです。だからこそ、この人の死んでいた機能はイエスの言葉によって甦ることができたのです。イエスのみ言葉の力によって、この人の失われていた体の機能が回復したのです。
3.イエスは救い主
この出来事が起こった後にイエスは人々に「だれにもこのことを話してはいけない」と人々に命じています。これは聖書学者たちによって「メシア秘密」と呼ばれるイエスの行動で、他の箇所でも同様な指示がイエスによって語られています。おそらくイエスは、当時の人々がメシアに対して誤った期待を持っていたために、その人々に自分が利用されることを恐れたためと考えることができます。しかし、イエスがどんなに「このことを黙っているよう」にと命じても、この出来事を目撃した人々はその命令に従うことができませんでした。人々は自分たちが体験した感動や喜びを他の人々に伝えずにはおれなかったのです。彼らがこの時感じた感動が彼らの語った言葉によく表されています。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(37節)。
実はこの言葉の背景には旧約聖書に登場する二つの言葉があると考えられています。その一つは旧約聖書の最初にある創世記1章31節の言葉です。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。
神が創造された世界はすべてが、すばらしいものだったと語る箇所です。つまり、この箇所と同じ言葉が語られるということはイエスを通して現わされた御業は天地万物を造られた神の御業と同じものだと言うことを示していることになります。次にもう一つの箇所は旧約聖書のイザヤ書35章5〜6節の言葉です。
「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
これは預言者イザヤがメシア、救い主について預言した言葉の一部です。つまり、この言葉はイエスこそイザヤが預言している救い主であることを表していると考えることができるのです。同様の言葉はかつて獄中にあった洗礼者ヨハネが「来るべき方は、あなたでしょうか」とイエスに質問した際に、イエスが答えた言葉の中にも登場しています(マタイ11章4〜5節)。イエスこそ私たちのために遣わされた救い主であり、私たちの聞こえなかった耳を開き、私たちが自分の口で神のすばらしさを語ることができるようにしてくださる方なのです。
4.私たちの耳を開く救い主
私たちは罪と死という両親のもとで育てられて来た罪人です。だから自分たちの人生には希望がない、無意味な死でその人生は終わるだけだと教育され、その通り考えるように育てられたのです。しかし、イエスはその私たちが本当のことを聞くことができようになるために来てくださった救い主なのです。イエスは私たちのために十字架に掛けられて、ご自分の命を献げることで、罪と死と言う私たちのかつての保護者から私たちを取り戻し、私たちを自由な者としてくださいました。その上でイエスは天から私たち一人一人に聖霊なる神を送ってくださり、私たちが神の御声を聞くことができるようにしてくださったのです。この聖霊の働きによって、聖書に記された言葉が古代の人々が残した単なる言葉の寄せ集めではなく、今、私たちに神が語り掛けてくださっている言葉として聞くことができるようにされたのです。
「エッファタ」、「開け」と言う言葉の通り、私たちの耳も確かにこのイエスによって神の声を聞くことができるように開かれたのです。だから私たちは今、聖書のみ言葉に真剣に耳を傾け、その言葉が示す神を信じて、信仰生活を歩むことができるようにされているのです。イエスが耳を開いてくださらなければ、口を利かせるようにしてくださらなければ誰も神を信じる信仰生活を送ることはできないのです。
かつては自分の人生に希望を見出すことができなかった私たちが、このイエスの御業によって神の言葉を聞き、その言葉によって希望を持って生きることができるようになったことを、マルコはこの物語を私たちに伝えることで教えようとしているのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
罪と死に支配されていた私たちを救い出し、聖書のみ言葉を通して私たちに語られる神の言葉を聞くことができるようにしてくださった主イエスの御業を心より感謝いたします。どうか私たちがあなたの語ってくださる確かな希望を頼りとして信仰生活を送ることができるようにしてください。また希望を見失っている人々に、私たちがあなたにある確かな希望を語ることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスがたどった旅の行程を聖書の巻末に付けられている新約時代のパレスチナの地図を頼りにただって見ましょう(31節)。
2.人々はこのときどんな人をイエスの元に連れてきましたか。またイエスにどのような願いを語りましたか(32節)。
3.イエスはこの人をどのように取り扱いましたか。この人が癒された過程を聖書から説明していください(33〜35節)。
4.イエスはこの出来事を目撃した人々にどのような命令を語っていますか。人々はその命令に従うことができましたか(36節)
5.人々はこのとき自分たちが体験した驚きをどのような言葉で表現していますか(37節)。
6.私たちが聖書を通して自分に語ってくださる神の声を聞くことができるためにイエスは私たちに何をしてくださいますか。
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