1.律法の意味とその役割
①信仰生活は規則尽くめの不自由な生活ではない
何度も皆さんにお話していますが、色々な方に「教会の礼拝に是非お越しください」とお誘いすると、「もっと真面目になったら、行ってみたいと思います」という返事が返ってくるときがあります。そう答えられる人はたぶん教会と言うところは「真面目な人」以外は行ってはいけない所だと思われているのかもしれません。実際に教会には真面目な人だけが集まっているのかどうか、私には断言することができないのですが…。一般の人たちが「教会は真面目な人が行く場所だ」と考えられている背景には、私たちの先輩のクリスチャンが残した立派な証しがあると言ってもよいかもしれません。なぜなら、私たちの先輩のクリスチャンたちはこの世の価値観に流されてしまうことなく、自分たちの信仰の姿勢を固く守り続けて生きたからです。もちろん、その信仰の中心には「神を愛し、隣人を愛そう」とする彼らの熱い思いがあったことを忘れてはなりません。
しかし、そのような先輩たちの信仰の姿勢も単に外側からだけ見るならば、「規則尽くめの面白くもない生活をする人たち」と感じられるところがあったのかも知れません。そのためでしょうか、今でも多くの人はクリスチャンの生活を「規則で縛りつけられた不自由な生活」と考えている傾向があるようです。だから、そんな窮屈な生活をするよりももっと自由な生活をした方がいいと、多くの人は教会に行くことを敬遠してしまうのです。しかし、本当に信仰生活は人間を規則で縛るような不自由な生活と言えるのでしょうか。もちろんそうではありません。イエスは私たちに「真理はあなたを自由にする」(ヨハネ8章32節)と語っています。またご自分について「真理である」(ヨハネ14章6節)とも語っているのです。つまり、真理であるイエスは私たちに本当の自由を与えるためにやって来てくださった方だと言えるのです。だから、そのイエスを信じる信仰生活が不自由な訳はありません。もし、私たちが自分の信仰生活を「不自由なもの」と感じているとしたら、私たちは信仰の原点であえるイエスにもう一度立ち返って、自分たちの信仰生活の本当の意味を考えなおす必要があると言えるのです。
②人間のために作られた律法
ところで信仰生活を「規則尽くめ」と誤解するもう一つの背景には実際に聖書の中に「律法」と言う決まりがたくさん記されていて、その律法を教会が教えているからだとも思われます。こんな「律法」を守らなければならないのだから信仰生活は面倒くさいと思われてしまうのです。しかし、本来神の律法は人間を不自由にするために与えられているものではありません。むしろ、律法は私たち人間の命を守り、その命の可能性を十分に発揮することができるようにと神が与えてくださったものなのです。イエスはそのことを安息日の律法との関係で次のように語っているところがあります。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マタイ2章27節)。
律法に限らず、私たちの周りに存在する様々な規則や決まりと言うものは本来は人間が安心して生活することができるようにと作られたものが多いはずです。しかし、人間はいつの間にかその規則が作られた本来の目的を見失ってしまいます。そして作られた規則が返って人間から自由を奪ってしまうという悲劇が起こるのです。まさに「本末転倒」と言える現象です。聖書を読むとこのような本末転倒の出来事がイエスの時代にも起こっていたと言うことが分かります。
2.律法と昔の人の言い伝え
①汚れの問題
今日の部分ではイエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしたと言うことがファリサイ派の人々や律法学者たちから問題とされ、非難の対象となっています(2節)。確かに「食事をする前に手を洗うことが大切である」と言うことは私たちも子供のときから親や学校で教えられて来たものです。しかし、ここでは私たちが教えられたような手洗いの習慣が問題とされているのではありません。ですからこの福音書を書いたマルコはその事情を知らない読者にも理解できるように、わざわざ次のような説明を付け加えています。
「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3〜4節)。
この時、イエスの弟子たちが非難された理由は「手を洗わないことは不衛生」だと言うことではありませんでした。ユダヤ人であれば誰もが守るべきと考えられていた「昔の人の言い伝え」を彼らが守っていなかったと言うことが問題とされたのです。なぜならば、彼らはそうしなければ自分たちが宗教的に「汚れる」(2節)と考えていたからです。
聖書の解説書を読んでみるとこの問題が詳しくマルコの福音書の中に取り上げられている理由として、当時のローマ教会に起こっていた問題があったと説明されています。昔からユダヤ人はこの「汚れ」の問題に敏感で、たとえばユダヤ人以外の「異邦人」と一緒に食事をすることもふさわしくないと考えていたのです。そのような習慣を持ったユダヤ人がキリスト者となったときに、同じ教会に属している異邦人のキリスト者と食事を同席することに抵抗を感じる、そんな問題がローマ教会の中で実際に起こっていたと言うのです。だからマルコはこの問題に対するイエスの答えをここに記したとも考えられているのです。
②昔の人の言い伝え
そもそもここで問題になっているのは「昔の人の言い伝え」と呼ばれるものです。これは私たちが大切だと考えている聖書が教えている「律法」とは違うと言うことをまず私たちはここで理解しておく必要があります。当時のユダヤ人は「昔の人の言い伝え」と呼ぶ規則を持っていて、それを守ることが大切だと考えていました。もちろん、この「昔の人の言い伝え」も聖書が教える律法と深い関係の中で生まれたものであると言えます。そのような意味でこれは聖書が教える律法に関する「昔の人の言い伝え」と呼んでもよいのです。
それではこの「昔の人の言い伝え」とはいったい何を教えているのでしょうか。それは聖書の律法を自分たちの生活に適応するために作られた規則集であると考えることができます。現在で言えば、この規則集は様々なところで使われている「マニュアル」(手引き書)に似たものと考えてもよいかもしれません。このマニュアルが整備されていれば経験の浅い初心者でも、様々な問題に対応することができます。そこでユダヤ人も神の律法に従う生活を送るためのマニュアルを自分たちで作り出したのです。それがここで言う「昔の人の言い伝え」と言うものの正体です。
しかし、マニュアルはとても便利なところがある一面で、他方では多くの弊害をも生み出すことがあります。まず、マニュアルの決まりが細かくなればなるほど、それを覚えて実践することは容易ではなくなります。また、その他にも起こる弊害は「マニュアルを守っていればそれでよい」と考えてしまうことです。マニュアルだけに頼る者は、目の前に起こっている問題について自分で考えることを止めて、規則だけ守っていればよいと考えてしまう傾向があるからです。イエスがここで引用したイザヤ書の言葉はそのようなマニュアルの弊害を語っていると言うことができます。
「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(6〜8節)
イエスはここで「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」とユダヤ人たちの犯していた誤りを指摘しています。それではなぜ「昔の人の言い伝え」を守ることが、神の掟を捨てることとなるのでしょうか。
3.自分を正当化するために
その問題が具体的に説明されているのが、次に語られている「コルバン」つまり神への供え物に関するお話です。コルバンとは自分が神に供えると決めたもののことです。もし事前に「これはコルバンです」と言っておけば、その他の必要に応じることを拒否することができる有力な理由となるのです。
おそらく、このコルバンと言う規則も神への供え物がまず優先されるべきであるというところから生まれたものだと考えることができます。イエスも「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6章33節)と教えられています。しかし、ここではその規則は本来の目的では使われていないのです。当時、父や母に提供しなければならないものであっても「コルバン」だと言えば、その義務から免れることができると考えられていたからです。つまり、ここで「昔の人の言い伝え」はそれを父と母のためには使いたくないと考える自分の考えを正当化するために利用されているのです。決して、神を大切にしたいという願いから生まれて来ているものではないのです。昔の人の言い伝えを使えば「父と母を敬え」と言う律法の第五戒を守らなくてもよいと言う理由になると言うのです。イエスはここで言い伝えを優先して、神の掟を捨てるということはこう言う意味だと教えているのです。
4.イエスと律法
イエスはあるところで聖書の教える律法を簡単に要約して、それは「神を愛し、隣人を愛することだ」と教えてくださっています(マルコ12章28〜34節)。しかし、ユダヤ人は「昔の人の言い伝え」を自分が律法の教えに従わなくてもよいという理由に用いてしまっていました。まさにこれは本末転倒です。もちろん今の私たちはこのような「昔の人の言い伝え」を熱心に守っている訳ではありません。しかし、私たちもまた本末転倒の信仰生活に陥ってしまう可能性を持っていることは否定できません。だから私たちもそのことに気を付けなければならないのです。
聖書には神の律法は私たちのための「養育係」のようなものだと例えられています(ガラテヤ3章24節)。律法は私たちに救い主が必要なことを悟らせる大切な役目を持っています。だから、もし私たちが律法を守ることで「自分は完璧だ」と考えてしまっていたら、律法の本来の役目が奪われてしまっていると考えてよいのです。ユダヤ人たちは「昔の人の言い伝え」を守ることでこの律法の本来の役目を忘れてしまいました。だから彼らは救い主としてこの地上に来られたイエスを自分たちには不必要なものと考え、十字架に付けて殺してしまったのです。
私たちは律法を守ることができない言い訳を考える必要はありません。その替わりに律法を守れない自分のために救い主イエスが来てくださったことを信じればよいのです。イエスはそのように信じる者を「義人」、ただしい者としてくださるからです。
さらに神の律法は救い主によって正しい者とされた私たちが、神に感謝を献げて生きる方法も教えています。なぜなら神はこの律法に従って生きる私たちを喜んでくださるからです。しかし、その際も私たちが忘れてはならないことは、私たちがこの律法に従うことができるのは私たちの努力や力によるものではなく、神の働きによるものだと言うことです。聖霊が働かなければ私たちは神の律法に従うことは不可能だからです。だから律法に熱心に従う者はいつでも神の助けを求め続けなければなりません。そのような意味で神の律法は私たちと神との関係を親密なものとするのです。
聖書の教える律法は私たちを規則で縛りつけるために与えられているものではありません。むしろ、私たちを救い主イエスへと導き、神との関係を深めることで、私たちの命を守り、私たちを罪と死の呪いから解放し、本当に自由を得るために与えられているものだと言えるのです。
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