2018.6.10 説教 「百人隊長」


聖書箇所

ルカによる福音書7章1〜10節
1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。


説 教

1.百人隊長とユダヤ人コミュニティー

 東川口教会では毎月第二週の日曜日を伝道礼拝と定めています。伝道礼拝では毎月、福音書の中からイエスに出会った様々な人々を取り上げて学んでいます。今日はその伝道礼拝でお話した聖書の箇所を皆さんと一緒に学びたいと思っています。そして今日のお話の主人公は「百人隊長」と呼ばれる人物です。この百人隊長というのはもちろん人の名前ではありません。聖書にはこの人物の本当の名前は紹介されていません。ただ、彼の職責であった「百人隊長」と言う名称が福音書に記されているだけなのです。百人隊長はローマ軍の軍人の職責で、百人の兵隊を束ねる勤めをもった軍人を意味しています。このことからこの百人隊長はローマの軍隊であったと普通は考えられています。しかし、この聖書箇所を説明した東京恩寵教会の元牧師である榊原康夫先生によれば、この時代はまだカファルナウムの町にローマ兵は駐屯していなかったと言うのです。当時、このカファルナウムを含むガリラヤ一帯はヘロデ・アンティパスの領地でした。このヘロデ・アンティパスは有名なヘロデ大王の息子の一人で、皆さんも覚えておられると思いますが、洗礼者ヨハネを捕まえて牢に入れ、最後にはその首をはねて殺してしまった人物です。このヘロデ・アンティパスはローマの権力の後ろ盾を得て、ガリラヤ一帯の領主として任命されていました。しかしユダヤ人たちにはすこぶる評判の悪い人物であったようです。そこで彼は自分を守るために私兵を雇っていたと言われています。つまり、今日の物語に登場するのはこのヘロデ・アンティパスに雇われていた傭兵、外人部隊の兵士であったと考えられているのです。
 今申しましたように領主ヘロデはあまり評判のよい人物ではありませんでした。しかし、彼に雇われていたこの百人隊長はそうではなかったと言うことがこの箇所の文章を読むと分かります。それは今日の物語の中でイエスの元に百人隊長からの使いとしてやって来たユダヤ人の長老たちの発言からよくわかります。彼らはこの百人隊長についてイエスにこう言っているからです。

「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4〜5節)。

長老たちはこの百人隊長が自分たちにとってどんなに大切な人物であるかをここで説明しています。なぜならこの百人隊長は「ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」からだと言うのです。ここに登場する会堂は、ユダヤ人たちのコミュニティーの中心とされる場所です。ユダヤ人の会堂は神に礼拝を献げる場所であると共に、ユダヤ人の子弟に聖書を教えるところでもありました。使徒パウロは各地を巡りキリストの福音を伝えましたが、彼はその伝道の場所として最初に必ずこのユダヤ人の会堂を訪れました。ユダヤ人が住む場所であれば、たとえそれが海外であっても彼らはまずこの会堂を建てたからです。本来、この会堂はそこに集うユダヤ人たちが献金を出し合って建設し、維持するものでした。ところがこの百人隊長は自分はユダヤ人ではないのにこの会堂を建てるためにかなりの献金を献げていたのです。長老たちの話ではまるでこの百人隊長一人が会堂を建てたかのように説明されています。それほどこの地のユダヤ人たちは彼に恩義を感じていたのだと考えることができます。
 それではどうしてこの百人隊長は自分はユダヤ人でもないのにユダヤ人のために犠牲を惜しむことなく会堂建築に協力したのでしょうか。かつて、ヘロデ・アンティパスの父親であったヘロデ大王はエルサレムの地に巨大な神殿を建設したことで有名です。彼はなぜそのような神殿を建設したのかと言えば、それは自分の権威をその神殿を通して示したかったからだと考えられています。現代でもそうですが、独裁者たちは実用性とはかけ離れた巨大な建造物を建てようとする傾向があります。それは自分の力をその建物を通して民衆に誇示しようとするからです。また、元々外国人であったヘロデ王はユダヤ人のために神殿を建てることで彼らから好意を得てようとも考えたのです。
 しかし、このような理由はこの百人隊長にはあてはまらないことがこの物語を読んでいると分かります。なぜならこの百人隊長はイエスから「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(9節)と評価されているからです。この百人隊長は真の神への信仰を持っていました。だから、彼はその神を礼拝するための会堂を建てようとしたのです。ユダヤ人の長老はこの百人隊長は「ユダヤ人を愛してくれている」と語りました。外国人がこれほどまでにユダヤ人に愛情を注ぐのはまれであったからこそ、このように語ったのかも知れません。しかし、この百人隊長が本当に愛していたのは聖書が教える真の神であったのです。そしてその神に選ばれたとされているイスラエルの民を彼はその信仰の故に愛していたのです。

2.百人隊長の信仰
①部下思いのリーダー

 イエスはこの百人隊長の信仰を「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(9節)と言う言葉を使って褒め称えています。それではこの百人隊長が示した信仰とはどのようなものなのでしょうか。私たちはこの百人隊長の信仰を聖書の言葉をさらに調べることで、学んで行きたいと思うのです。
 まず、この物語は「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた」(2節)と言う理由から始まっています。この言葉から百人隊長が病気の部下を思いやる心を持った人物であったことがわかります。最近、ニュースを騒がせているアメリカンフットボールの話題では、勝利至上主義に支配されたチームのリーダーたちが、選手の人間性までも奪うようなことをしても、それについて何の疑問にも思わないような言動が繰り返されていると報道されています。しかし、この問題はスポーツの問題に限らないのかもしれません。なぜなら、いつの時代にも結果を出すリーダーは評価される傾向がるからです。たとえ、そのリーダーが部下の人間性さえ奪うような人物であったとしてもです。この点においてこの物語に登場する百人隊長は決してそのような人物ではなかったかことが分かります。おそらく、この部下に対する態度もこの百人隊長が持っていた信仰に基づくものであったと考えることができます。

②自分には資格がない

 このカファルナウムの町にはイエスの弟子のペトロの家があり、この町で起こったペトロの姑の癒しの物語についてマルコによる福音書は最初の部分で取り上げています(マルコ1章29〜34節)。イエスはこの町でその他にもたくさんの人々の病を癒されていました。おそらく百人隊長はこのことを知っていたからこそ、自分の部下のためにイエスに助けを求めたのだと考えることができます。興味深いのはこのとき、彼は自分で自らイエスの元に行ってお願いするのではなく、代わりに自分の知り合いのユダヤ人の長老たちをイエスの元に派遣しているところです。「異邦人の自分が行ってイエスにお願いするより、ユダヤ人の長老に行ってもらった方が、イエスの心を動かすことができる」と彼は考えたのでしょうか。しかし、聖書を読むと、その理由はそれだけではなくもっと違った理由があったことが分かります。なぜなら、百人隊長自らが、自分がイエスの元に行かなかった理由を次のように説明しているからです。

「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。」(6〜7節)。

「自分には資格がない」と百人隊長はそうここで言っているのです。彼に代わってイエスの元にやってきたユダヤ人の長老たちは「彼には資格がある」と説明しています。しかし、本人はたとえユダヤ人の会堂のために莫大な献金を献げたとしても自分にはイエスにお会いする資格はないと語っているのです。ここにこの百人隊長の信仰の性格が示されています。自分は神に愛される資格はありません。しかし、その資格のない自分を神は愛してくださる方であること、決して自分たちを見捨てることをされない方であることを百人隊長は信じていたのです。そしてこれが百人隊長の示した信仰の特徴の一つだと言うことができるのです。
ユダヤ人が陥った律法主義という誤りはこの百人隊長の信仰に対して対局にある考え方であると言うことができます。自分は神に愛される資格を持っていると彼らは考えていました。その根拠として、彼らは自分が持っているユダヤ人の血統であったり、また自分が律法に従って生きていると言うことだと考えていたのです。そして神の自分への愛は、この自分が持っている能力や力に比例するとユダヤ人たちは考えていたのです。
よく、「年を取ってとってしまって、私たちは以前のようにできなくなった」と語り合うことがあります。これは若者には分からない悩みかもしれません。今までだったら簡単にできてきたものが、加齢のためにできなくなってしまっているのです。このために年を重ねるごとに味わう寂しさ、そして不安を私たちは感じているのです。確かに私たちが持っている能力は年々、少なくなっていくような気がするのです。しかし、年を重ねても全く変わることがないものがあります。それが私たちに対する神の愛です。この愛は私たちが変わってしまっても、決して変わることがありません。なぜなら、この神の愛は私たちが持っているものを根拠にして、私たちに与えられるものではないからです。百人隊長が語るように、私たちにはその資格は全くないのです。しかし、その私たちを愛してくださるのが私たちの神なのです。百人隊長の信仰はこの点において、この神の愛への信仰が示されているのです。

3.神のみ言葉の権威を認める

 この百人隊長の信仰を考えるとき、もう一つ私たちが注意して考えるべき事柄があります。それはこの百人隊長が語った言葉の中に登場する「権威」と言う事柄です。百人隊長は部下のためにイエスに癒しを求めながらも、自分の家に向かおうとされたイエスに対して次のように語り、自分の家に来る必要はないと伝えています。

「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(6〜8節)。

百人隊長は「わたしも権威の下に置かれている者です」とここで語っています。彼は百人の部下を従わせる権威を持っている軍人であると共に、自分の上官や、領主であるヘロデ・アンティパスの権威に従う立場にあった人物でした。ここではその「権威」が問題となっています。現代の私たちはこの「権威」について、むしろ「権威的」などと言った言葉を使って、どちらかと言うと否定的な用い方をします。しかし、本来の権威は人が生きていくためには重要なことであると言えます。調べて見るとこの権威は「自発的に同意や服従を促す能力や関係」と説明されています。そしてこの権威と違って「威厳や武力によって強制的に同意や服従をさせる能力や関係」は「権力」と表現されていて、権威と権力の違いが強調されていました。
アメリカのピューリタン(清教徒)の影響を受けている私たち改革派教会では牧師が通常の礼拝などでガウンのような式服を着ることをしません。その理由は牧師の権威は神のみ言葉を語ることを通してのみ示されるものであって、それ以外の方法で牧師の権威を示すことはできないと考えているからです。つまり、言葉を換えていればいくらその人が「牧師だ」と言っても、その人が人間の考えを語るだけで、聖書に示された神の言葉を語らなければ牧師としての権威を持っているとは言えないのです。そして牧師が本当に神のみ言葉を語るならば、そのみ言葉には人間を自発的に服従させる力があると言えるのです。
百人隊長はなぜここでこの「権威」と言う言葉を使ったのでしょうか。それはイエス・キリストこそ真の権威をもたれる方、神の子であることを彼が信じていたからです。福音書は別の箇所でイエスの教えを律法学者たちのようなものではなく、権威ある者のように教えられたと語っています(マルコ1章22節)。つまり、このイエスの教えに心から耳を傾ける者は、自発的にそのみ言葉に服従せざるを得ないような力がその教えにはあったと言っているのです。百人隊長はこの権威をイエスが持っておられることを信じていたのです。だからそのイエスの語る言葉であれば、すべてのものが自発的に従うと確信できたのです。もしイエスが病の人に「元気になるように」と言われれば、すぐにその人の病は癒されるはずなのです。それは病気の人だけではありません。病気のために死んでしまって、既に墓に葬られた人にさえ、イエスが「出てきなさい」と言えば、その人は生き返って墓から出てくることができたのです(ヨハネ11章43節)。人間だけではなくすべてのものが従わざるを得ない力をイエスは持っておられるのです。だからそのイエスに来ていただかなくても、イエスのみ言葉をいただくだけで十分であると彼は語りました。なぜならイエスのみ言葉だけで私たちは救われることができるからです。
イエスが天に昇られた後、私たちは昔の弟子たちのようにイエスの姿を自分の肉眼で見ることはできなくなりました。今の私たちにはその声を自分の耳で聞くこともできません。しかし、だからと言って私たちは昔の人々より不幸だとか、信じることが難しいと考える必要はありません。なぜなら、私たちはイエスのみ言葉を、そのイエスを私たちのために遣わしてくださった神のみ言葉を、聖書を通して今でも聞くことができるからです。すべての者が従わざるを得ない力ある神のみ言葉を私たちは昔と同じように聖書の言葉を通して聞くことができるのです。私たちが献げる礼拝の中心はこの権威ある聖書のみ言葉にあります。そしてその聖書のみ言葉には私たちの人生を変え、世界を変える力が備えられているのです。百人隊長はこの聖書のみ言葉の力に信頼する信仰をここで示したのです。そしてイエスはこの百人隊長の信仰を私たちの信仰の模範とするようにと勧めるために、彼の信仰を褒め称えているのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 百人隊長の信仰から私たちに信仰についての真理を教えてくださるあなたに心から感謝します。私たちは自らはあなたに愛されるべき何の資格も持たない者たちです。しかし、あなたはその私たちを一方的に愛して、その証拠として御子イエスを私たちに遣わしてくださったことを心から感謝いたします。私たち人間の語る言葉は無力なものですが、あなたが私たちに示してくださったみ言葉には私たちを変え、世界を変える権威があります。私たちがこの信仰の真理を百人隊長と同じように大胆に信じることができるように、聖霊を遣わして私たちを助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはこのときどの町に入られましたか(1節)。今まで、この町で起こった出来事であなたが覚えていることがありますか。
2.この物語に登場する百人隊長はこの時どのような問題を抱えていましたか(2節)。彼はその問題を解決するために何をしようとしましたか(3節)。

3.イエスの元にやってきたユダヤ人の長老たちはこの百人隊長についてどのような証言を語っていますか(4〜5節)。
4.百人隊長の家に向かおうとしたイエスのところにやってきた百人隊長の友人はどんな伝言をイエスに語りましたか(6〜8節)。
5.この百人隊長から届けられた伝言の言葉によって、彼がイエスに対して抱いていたどのような信仰がわかりますか。
6.イエスはこの百人隊長からの伝言を聞いて、どのような言葉をかたりましたか(9節)。結局、百人隊長の抱えていた問題は最後にはどのようになりましたか(10節)。