1.愛国者によって作られたファリサイ派
今日もマルコによる福音書の伝える物語から皆さんと共に学びたいと思います。まず、今日の箇所に登場するのは「ファリサイ派の人々」と呼ばれる人物です。皆さんもご存知のようにこのファリサイ派と言うグループの名前は新約聖書のあちこちに登場しています。そしてその記録の多くはイエスと激しく対立した人々、イエスを陥れ、十字架にかけた人々として紹介されています。テレビドラマで言えばまさに悪役と言っていい役回りを持った人々です。
私は韓国ドラマが好きでよく見るのですが、韓国ドラマの特徴は悪役がはっきりしていて、同情の余地もないほどに、最初から最後まで主人公を苦しめることに徹しているところにあります。だから最後にこの悪役が主人公によって懲らしめらえるとき、見ている私たちも何か爽快な気分を味わうことができるのです。しかし、実際の社会ではこんな悪役はほとんど存在しないはずです。どの人間にもよい所があり、また悪い所があるのです。むしろ人は様々な状況の中で時には悪役となることがあり、また正義のヒーローとなることもあり得ると言えるのです。
ファリサイ派と言うグループに属する人々もそうであったと考えることができます。ユダヤの国は長い歴史の中で何度も外国の支配の中に入りました。ファリサイ派はあの有名なアレキサンダー大王の後継者の一人が治めていたセレウコス朝シリアの支配下にあったユダヤの国でに生まれたグループです。当時、シリアの王はユダヤの国を政治的に支配するだけではなく、文化においてもギリシャ化を推し進めようとしていました。日本がかつて朝鮮半島を支配した際も、支配者であった日本は朝鮮半島の人々の固有の文化を奪い、最後にはその名前まですべて日本名にすることを強制したことがありました。ユダヤの人々もそのような体験を味わったことがあったのです。そのとき、ユダヤ人としての信仰を、命を懸けて守り抜こうとした人々がいました。それがこのファリサイ派のルーツとなった人々です。彼らは支配者が要求したギリシャ風の生活を拒否して、聖書の教える律法に忠実に生きることでユダヤ人としての誇りを守り抜こうとしたのです。ファリサイ派の人々が律法を守ろうとした背景にはそのような理由がありました。ファリサイ派はこのような意味で愛国者たちのグループであったと言うことができます。決して、ドラマの悪役を演じることが好きな人々が集まっている訳ではなかったのです。
その彼らがどうして新約聖書の中では悪役を演じることになってしまったのでしょうか。その大きな理由のファリサイ派の人々の考えと違い、真の神はユダヤ人だけの神ではないと言うところにあったと考えることができます。ファリサイ派の人々がイエスを救い主として認めることができなかった理由は、イエスが自分たちの期待していたユダヤの国を再建する人物ではなかったと言うところにありました。真の神はユダヤ人のための神ではありませんし、真の救い主もユダヤ人だけを救うために来られた方ではないのです。ファリサイ派の人々はそれが理解できなかったのです。
しかし、これはファリサイ派の人々だけの問題ではありません。私たちも彼と同じように、真の神を、そして救い主を自分の期待を通してだけ見ようとする誤りに陥りやすいです。だから「信じたのに自分の期待通りにではなかった」と嘆くことになるのです。しかし、私たちの人生にとって大切なことは自分の期待がその通りに実現することではありません。いえむしろ、私たちの期待がその通り実現すれば、私たちはもしかたら不幸になってしまうこともあるかもしれません。なぜなら、私たちは自分がどのようになれば幸せになれるかを本当は知らないからです。しかし、真の神は違います。神は私たちの人生に何が大切なのか、どうすれば私たちが幸せになれるかを知っているのです。そして、そのために神は救いの計画を立て、救い主イエスを私たちのために遣わしてくださったのです。だから私たちの信仰生活にとって大切なのは私たちの期待がどのように実現するかということではなく、神が私たちのために何をされようとしておられるかを知ること、そしてその神に従って生きることだと言ってよいのです。そして、ファリサイ派の人々はこの点において、重大な失敗を犯してしまった人々だと言えるのです。
2.しるしを悟らないファリサイ派の人々
「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(11節)。
ファリサイ派の人々は「イエスを試そうとして」ここにやって来ていました。ファリサイ派の人々はイエスに救いを求めてやって来たのではありませんでした。神の国の真理ついてイエスから学ぼうとしてここに来たのではなかったのです。彼らはイエスを救い主としてはもちろんのこと、真理を教える教師としても認めてはいませんでした。むしろ何とか彼を陥れようと策を考えてここにやって来たのです。ファリサイ派の人々がイエスに「自分たちを説得できる天からのしるしを見せてほしい」と願ったとき、もしその願いにイエスが答えなければ、「こいつは何もできないただの人間だ」と人々に言いふらすことができます。また、もし自分たちの願いに答えて何かしようとしても必ず失敗して、自らの醜態をさらけ出すはずだとファリサイ派の人々は考えていたのです。
ここでファリサイ派の人々は「天からのしるしを求めて」と記されています。天からのしるしと聞いて私たちがすぐに思い出すのは、旧約聖書の預言者エリアに関する物語ではないでしょうか(列王記上18章)。預言者エリアはバアルと言う偽物の神に仕える預言者450人とカルメル山上で対決しました。エリアはここで生贄の上に天から火を降らせることのできる神こそ真の神であることを人々に示そうとしたのです。ところがバアルの預言者がいくら祈っても、何もそこでは起こりませんでした。なぜならバアルの神などどこにもいないからです。ところがエリアが真の神に祈りを献げると、天から火が下り、準備した生贄を焼き尽くしたと言うのです。このしるしはエリアの信じる神こそ真の神であることを表し、その神に仕えるエリアこそ真の預言者であることを表すものでした。ファリサイ派の人々はこのエリアと同じような奇跡を起こしてみたらどうかとイエスにここで迫ったと考えることができるのです。
しかし、もしイエスがこの場でエリアと同じ奇跡を起こしたとしても、ファリサイ派の人々がそれで満足するかと言えば、そうではなかったはずです。なぜなら、ファリサイ派の人々もすでに多くの奇跡がイエスの手を通して実現していたことを知っていたはずだからです。イエスが病人を癒し、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出しても、五千人の人々の空腹を五つのパンと二匹の魚から満腹させても、彼らにとってはそれが「天からのしるし」になることは決してなかったのです。むしろ、彼らはイエスが悪霊の頭であるベルゼブルに取りつかれていて、その力によって不思議な業を行っているのだと語ったと言うのです(マルコ3章20〜30節)。これではイエスが何をしても無駄であると言うことになります。だからイエスは彼らの言葉を聞いて、次のように語られたのです。
「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」」
(12節)。
「心の中で深く嘆いて」と訳されている部分は原文に従って読めば「心の中で深いため息を漏らされた」となっています。イエスはファリサイ派の人々の態度を見て、呆れてしまっていることがわかります。次の「今の時代の者」と言う言葉は「現代の人々」と言う意味ではなく、「神を信じない世代の人々」と考えた方が良い言葉です。ファリサイ派の人々は見かけは立派な信仰生活を送っていたようですが、本当は神を信じていないとイエスはここで彼らのことを嘆いておられるのです。
このイエスの言葉に反して、イエスは地上の生涯の中で「天からのしるし」を数多く表されました。しかし、いくらイエスがそのしるしを示しても、ファリサイ派の人々はそれが「天からのしるし」であると悟ることができなかったのです。ですから問題はファリサイ派の人々の心の中にあったと言えるのです。彼らの心がイエスを通して示される「天からからのしるし」を悟ることを困難にさせていたからです。
3.本当に「天からのしるし」を見極めれるためには
①天からのしるしはイエスを示している
「天からのしるし」、それは単に私たち人間を驚かせるために神がなされるものではありません。イエスの奇跡は観客を驚かせるために催されるマジックショーのようなものでは決してないのです。この「天からのしるし」には必ず神からメッセージが託されています。それではその神のメッセージとは何でしょうか。それは私たち罪人を愛し、私たちを罪から解放し、永遠の命を与えるために神が救い主を遣わしてくださると言うことを示すことです。ですから、そのしるしの目的は私たちにイエス・キリストを示すことにあると言えるのです。
「天からのしるし」は私たちを救い主イエスに導くために神から与えられるものです。しかし、ファリサイ派の人々は「天からのしるし」が最終的に示すイエスを目の前にしながら、なおも「天からのしるし」を求めることをしたと言うことになります。これは、まるで富士山の頂上に昇った人が、富士山の頂上までの行き方を示す地図をそこで求めるようなものです。すでに、キリストは私たちのところに来られたのです。だから大切なのはこの「天のしるし」が指し示すイエス・キリストを信じることだけなのです。このイエスを信じなければ、どんなに「天からのしるし」が目の前に実現してもそれは無意味であり、そしてその人にとってはどんなことも「天からのしるし」とはなり得ないのです。
このように神を信じない者、救い主イエスを信じない者にとっては「天からのしるし」は決して与えられないとイエスは語られました。なぜなら彼らの心がそれを悟ることができないようになってしまっているからです。しかし、救い主イエスを信じ、そのイエスを通して示された真の神を信じる者は違います。彼は「天からのしるし」を今でも体験することができます。
旧約聖書の詩編の記者はこのことについて次のような言葉を私たちに語っています。
「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」(詩編19編2〜5節)。
神が造られたこの世界のすべての出来事が、神を信じる者には「天からのしるし」となり、神からのメッセージを豊かに伝える役目を果たしているとこの詩編記者は語っているのです。
②十字架上のイエスを見つめた百人隊長
イエスが十字架にかけられたとき、ユダヤ人たちはイエスに対して「十字架ら降りて自分を救ってみろ」と口々に叫びました。「それを見たら、信じてやろう」と彼らはイエスをあざ笑ったのです(マルコ15章29〜32節)。もしかしたらユダヤ人たちは実際にイエスが不思議な力を発揮することを期待していたのかもしれません。しかし、イエスはこのような言葉をかけられても、決して自分で十字架から降りることはありませんでした。自分で自分の命を救おうとはなさらなかったのです。なぜなら、それは神の計画ではないからです。そして神の救いの計画はイエスが十字架で死ぬことによってのみ実現するものだったのです。多くのユダヤ人は自分たちの期待に反して、イエスから十字架から降りようとしなかったことを見て、自分たちは裏切られたと感じ、彼の元を離れて行きました。
ところが彼らと同じ体験をしながら、「天からのしるし」を十字架のイエスを通して見極めることができた人が一人いました。それはローマ軍の兵士の一人、「百人隊長」と呼ばれる人物です。彼はイエスが十字架にかけられそこで息を引き取るまでの一部始終を目撃していました。その上で彼は「本当に、この人は神の子だった」と語ったと言うのです(同39節)。彼は十字架のイエスを見つめ続けることで、神からの正しいメッセージを受け取ることができたのです。
私たちはよく、信仰生活の中で、自分が考えていたこと違う、自分が期待していたことは違うと言う現実にぶつかり苦しみます。そのとき、私たちはどうすべきなのでしょうか。私たちも聖書の中に登場するファリサイ派の人々と同じように、「これでは信じられない」と考えるべきなのでしょうか。決してそうではありません。
この百人隊長ももしかしたらイエスに対して何かの期待を持っていたかもしれません。しかし目の前で実現した出来事がたとえ自分の期待した出来事ではなかったとしても、彼はそれで「だめだ」と諦めてしまうことがありませんでした。彼は目の前に起こっている出来事にこそ神からの自分たちに向けられた正しいメッセージが示されていると信じたのです。だから彼はイエス・キリストに対する正しい知識をここで得ることがでたのです。
神は今でも私たちに「天からのしるし」を豊かに与え続けてくださいます。私たちにそのしるしを通して、ただしい信仰の知識を与えようとして下さるのです。私たちはそのしるしを自分の期待したことではないからと言って、退けてしまったファリサイ派の人々と同じ間違いを犯さないようにしましょう。私たちがいつも百人隊長のような信仰の姿勢を持って、私たちの人生に起こる出来事を見つめ続けるなら、私たちもまた、私たちを救うためにやってこられたイエスに対する正しい知識を得て、神との絆を強めることができるのです。
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