2018.6.3 説教 「群衆がかわいそうだ」
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聖書箇所
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マルコによる福音書8章1〜10節
1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
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説 教 |
1.繰り返された奇跡
①二つの奇跡物語
今日もマルコによる福音書の記事からイエスの行われた奇跡について皆さんと共に学んで見たいと思います。私たちが礼拝で使っている新共同訳聖書ではこの部分に「四千人に食べ物を与える」と言う表題が付けられています。私たちは少し前に「五千人に食べ物を与える」と言う表題が付けられた箇所を学んだはずです(マルコ6章30〜43節)。イエスの周りにたくさんの群衆が集まり、彼らは自分が食べる食物を持っていませんでした。だからその群衆の食事をどうするのかという問題が生まれました。そしてその問題を解決すべく、イエスによって驚くべき奇跡が行われました。イエスが手持ちのわずかな食物を人々に分け与えられると、そこに居合わせた人々全員の空腹は解決され、皆が満腹になることができたからです。おまけにそこで食べ残したパンくずを集めて見ると、たくさんの籠に山のようにパン屑が集まったと言うのです。五千人のときも、今日の四千人のときも同じような出来事が繰り返し起こりました。
この二つの食事に関する奇跡物語の内容は今、見たように非常によく似ています。そこで多くの聖書学者はこの二つの物語は同じ一つの出来事を取り合付けっていると主張するのです。確かにイエスによってたくさんの人々の飢えが解決される奇跡が起こりました。そしてその出来事をその目撃者たちを通してたくさんの人々に伝えました。それがいつのまにかいろいろと変形して人々に伝えられていったと言うのです。そして人々によって伝えられたこの奇跡物語はいつの間にか二つの奇跡物語として人々に誤解されて伝えられるようになったと言うのです。だから福音記者マルコはこの別々に伝えられた伝承資料を自分の福音書に取り上げて、この食事の物語が二回起こったと読者に紹介したのです。実は五千人の食事の奇跡はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が共に取り上げて記述しています。しかし、この四千人の奇跡はこのマルコと他にはマタイだけが福音書(15章32〜39節)に取り上げているのです。ルカやヨハネは同じような物語を二度も伝える必要はないと考え、この物語を割愛したのかもしれません。
ただ二つの物語は多くの点で似ているのですが、その記述の内容が微妙に異なっているところも存在しています。まず、大きな違いは奇跡の対象となる群衆です。前回学びましたように、この四千人の奇跡の物語の前に起こった「耳が聞こえず舌が回らない人の癒し」はガリラヤ湖の東側にあったデカポリス地方、つまり異邦人の地でなされたと考えられています。そしてその物語に続いて起こった今日の物語も同じデカポリス地方で起こったと考えることができるのです。この後、イエスたちは舟にのってガリラヤ湖の西岸に向かわれたとマルコは記しているからです。つまり、そうなるとここに集まっている人はユダヤ人ではなくデカポリス地方に住んでいた異邦人たちであったと考えることができるのです。また、この奇跡で用いられるパンの数は七つ、他に小魚がいくらかあった(7節)とも言われています。しかし五千人の場合と違い、魚の数はあえて数えられていません。さらに、食べ残したパン屑の籠の数は七つとなっており、その出来事を経験した人々の数もおおよそ四千人と言う点でも微妙な違いが生じています。
そのような違いに注目するとき、この奇跡物語は約束の民ユダヤ人に対してではなく、異邦人に対して行われたという点に大きな特徴があると言えるのかも知れません。イエスが分け与えられるパンによって生かされる人はユダヤ人だけではなく異邦人をも同じであると聖書はこの物語通して私たちに教えているからです。
イエスは別の聖書箇所で「わたしが命のパンである」と語られています(ヨハネ6章35節)。私たちが生きて行くためには物質的なパンだけではなく、この命のパンであるイエスが必要なのです。そしてそのイエスの命はすべての人たちに提供されています。だからこの福音書はユダヤ人だけではなく、異邦人に向けてもイエスの奇跡が実現したことを読者に伝えているのです。
②神の恵みをすぐ忘れる人間の性質
しかし、このように奇跡の対象は違っていたとしても、問題はさらに残されています。それはここ登場する弟子たちの存在です。弟子たちはイエスによって五千人の人々に食事が与えられた奇跡を少し前に実際に体験していました。それなのに弟子たちは今日の物語の中ではあたかも初めてこのような出来事を体験するかのように、「たくさんの人々の食事を準備するためにどうしたらよいのだろうか」と悩んでいるのです。五千人の食事の物語では空腹を覚える大群衆に対してイエスは弟子たちに「あなたが彼らにたべものを与えなさい」と命じられました。すると弟子たちは「そんなことは無理だ」と考え、イエスに「わたしたちは百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と叫び、音を上げているのです。
このとき弟子たちはイエスの驚くべき奇跡を目の前で確かに体験したのです。ところが弟子たちはイエスに対して「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」(4節)と語っています。彼らはここでも「それは無理なことだ」と音を上げているのです。どうして弟子たちは「イエス様。あなたがおられるならば大丈夫です」とは言うことができなかったのでしょうか。聖書学者たちはこの弟子たちの態度があまりにも不自然に思えると言うのです。
しかし、このような弟子たちの反応も私たち人間の性質を考えるときにむしろ自然な反応ではないかと考えることができます。なぜなら、私たちは神の素晴らしい恵みを経験しても、すぐにそれを忘れて目の前に起こった問題に心を奪われ、失敗を繰り返してしまう者たちだからです。
旧約聖書の出エジプト記には葦の海の奇跡(14章)と言う驚くべき神の御業が起こったことが報告されています。皆さんもこの物語を描いた映画などで海が真っ二つに割れて、その真ん中にできた道をモーセに連れられたイスラエルの民が歩んで行くシーンをご覧になったことがあると思います。このような驚くべき奇跡を体験したイスラエルの民なのにこのすぐ後で彼らは、「荒れ野には食べ物がない」と怒りだし、「これならエジプトで生活していた方がましだった」と叫び出しています(16章)。そしてこの時、神はイスラエルの民のために天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らしてくださったのです。この物語でも分かるように、私たち人間はどんなに素晴らしい神の恵みを体験しても、すぐにそれを忘れてしまう性質を持っているのです。
イエスによって同じような奇跡が繰り返されたと言う理由もこの人間の性質を考えるとうなずけるものがあるのです。私たち人間は一度体験すれば、一度聞けば、そして一度学べばそれで大丈夫などと言うことは決してできないのです。どんなに素晴らしい神の恵みを体験できても、すぐにそれを忘れて失敗を繰り返してしまうのが私たち人間だからです。そして、イエスはその私たちを見捨てることなくまた同じ出来事を体験させてくださるのです。
③神の忍耐
先月まで聖書を毎日学ぶために作られている月刊リビングラフ誌ではしばらく、旧約聖書のイザヤ書のメッセージを学ぶことが続きました。このイザヤ書を読んでいて気付くのは、神の裁きと神の赦しのメッセージが何度も何度も繰り返して語られていると言うことです。「あれ、この言葉、昨日も読んだような気がする」。そんな錯覚に陥るほどに、イザヤ書のメッセージには繰り返しが多いような気がします。神の恵みを忘れて、無力なこの世の偶像に頼って失敗を犯したイスラエルの民を、神は赦します。赦された民はそのことを感謝しながらも、またすぐに偶像に頼ろうとして失敗を繰り返すのです。そしてまた神はそのイスラエルの民を赦すと言う内容がずっと続いているのです。このイザヤ書のメッセージを私たちが読んで感じるのは神の忍耐のすばらしさです。なぜなら失敗を繰り返す民を決して見捨てない神の姿がイザヤ書の中に一貫して描かれているからです。
あるとき弟子のペトロがイエスに「兄弟が自分に罪を犯したなら、何回赦すべきですか」と質問したことがありました。するとイエスはペトロに「七の七十倍の赦しなさい」と命じられたのです(マタイ18章21〜22節)。七の七十倍であればそれは490回となります。だれも、そんなことは無理だと言わざるを得ない命令です。しかし、なぜイエスがこのようにペトロに命じられたのでしょうか。それは神の私たち人間に対する忍耐の態度が前提とされているからです。神の忍耐に比べたら490回など大した数ではありません。なぜなら、神はどこまでも私たちを見捨てることがない方だからです。私たちは神から受けた恵みを忘れてしまいます。しかし、神はそんな私たちにまた同じ恵みを示してくださるのです。そのような意味で、イエスも同じ奇跡を弟子たちに示されたと考えることができるのです。
2.イエスに差し出されたパン
イエスはこのとき弟子たちに「パンは幾つか」と尋ねられました。弟子たちが調べたところ、そこに「七つのパン」があることが分かりました。もちろん、七つのパンだけでは四千人の空腹を満たすことは到底できません。七つのパンは彼らが直面する現実に対して、あまりにもつまらないものにすぎませんでした。この七つのパンはむしろ人間の無力を証明するようなものでもあったのです。私たちも「これではどうにもならない」と自分の手に持っているものを見つめてつぶやきます。それがこの七つのパンの意味するものなのです。
しかし、聖書は五千人の出来事の場合と同じように、そのパンがイエスの手に渡されるときに素晴らしい力を発揮するものとなったことを伝えています。七つのパンが四千人の人々の飢えを解決する力あるものに変えられたからです。
ある説教者はこう語っています。「人間の持っているものは、このパンと同じように、つまらないようもののように見える。しかし、そのつまらないものもイエスの手に引き渡されるなら驚くべき力を発揮することができる。もし私たちがそれを自分のためにだけに使おうとするなら、つまらないものはつまらないもののままで終わってしまう」と。
私たちはこの七つのパンを私たちの命と考えることができるかもしれません。私たちがこの地上の人生でできることはほんのわずかかも知れません。しかし私たちはその命の時間を思い煩いに支配されながら、自分のためだけに使おうとしてしまうのです。しかしもし、私たちが自分の命を神のために使うなら、神は私たちの命を用いて、私たちだけではなく、多くの人を豊かにさせてくださるのです。私たちの神への献身の意味はここにあります。イエスが用いてくださるなら「つまらない」と考えられていた私たちの人生が、素晴らしい人生に変えられるのです。七つのパンによって四千人の人々が食卓にあずかることができたように…。
3.信仰の旅路を支える食卓
このときイエスは自分の後に着いてここまでやって来た群衆を見て次のように語っています。
「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(2~3節)
イエスはこのとき「群衆がかいわいそうだ」と思われたと言うのです。イエスは群衆に「まだ力の余っている者だけが私に従って来なさい」とは言われませんでした。弱り果てて、前に進むことも、後に戻ることもできない者を「かわいそう」に思われ、彼らのために食物を与えようとされたのです。イエスに従う私たちに対してイエスは同じ思いを持っておられます。私たちも信仰生活の中で疲れ果てることがあります。自分の弱さのゆえにどうすることもできないと思ってしまうことがあります。しかし、イエスはそのような私たちを決して見捨てることがありません。むしろ自分に着いて来ようとする者を配慮し、彼らが疲れ果てることなく信仰の歩みを最後まで続けることができるようにしてくださるのです。
私たちがこの後にあずかる聖餐式のパンとぶどう酒は信仰の歩みを私たちが続けることができるためにイエスが私たちに提供してくださる食べ物であると言えるのです。イエスは決して力のある者や能力のある者だけが自分に従ってくればよいとは考えておられないのです。力もなく能力もなくてもイエスに従うことができるように、イエスは助けを与えてくださるのです。私たちが信仰生活を続けることができるのは、イエスが私たちに力を与えてくださるからです。聖餐式はイエスが私たちのために定めてくださった礼典です。だから聖餐式にあずかる者にイエスは天から聖霊を送ってくださり、私たちが信仰生活を続けることができるように助けを与えてくださるのです。
聖書学者は同じような出来事が繰り返されるのは不自然と考えましたが、それなら私たちが毎月のようにこの聖餐式を繰り返し行うことはなお不自然なことになってしまうのかも知れません。しかしそうではありません。私たちの信仰生活には繰り返しが必要なのです。神の恵みを忘れ、自分の力や人の力を頼りにして失敗を繰り返す私たちに、神は再び聖餐式を通して赦しと力を与えてくださるのからです。
私たちは私たちのために何度もでも同じことを繰り返してくださる神の忍耐に心から感謝をささげたいと思うのです。そして、私たちもこの神の忍耐を通して示された愛を、多くの人々に伝えることができる者となれるように祈り続けたいのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちのために恵みを豊かに与えてくださるあなたに感謝いたします。しかし、私たちはその恵みを実際に自分の信仰生活で体験しながらも、すぐそのことを忘れて、目の前の出来事に心奪われ、この世の様々な力に頼っては繰り返し失敗を犯してしまいます。しかし、忍耐深いあなたはどこまでもその私たちを棄てることがなく、イエス・キリストを通して私たちの罪を赦してくださることを覚えて感謝いたします。私たちは自分の力ではあなたの後に従うこともできませ。どうか私たちを聖霊の助けを持って導いてください。その聖霊の助けを私たちが聖餐式にあずかることで確かなものと確信することができるように助けてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.マルコが1節で語っている「そのころ」とはいったいどのような出来事が起こった時期を指していますか(参照/7章31〜37節)。
2.イエスは群衆のどんなところを見て「かわいそうだ」と思われましたか。そこでイエスはどのような発言をされましたか(2〜3節)
3.弟子たちはこのイエスの言葉にどのように答えましたか(4節)
4.ここにパンがいくつありましたか。イエスはそのパンをどのように取り扱われましたか(5〜7節)。
5.イエスが七つのパンを群衆に配ったときどのようなことが起こりましたか(8節)。
6.あなたは今での自分の信仰生活の中でイエスから受けた恵みを覚えていますか。どうして私たちは信仰生活の中でそのような恵みを神からいただきながら、それをすぐに忘れる失敗を犯してしまうのでしょうか。
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