1.集中しない弟子たち
①マインドフルネスになれない弟子たち
先日、友人から電話がかかってきました。久しぶりなので、一通り挨拶の言葉を交わして後のことです。友人は挨拶から本題に移ろうとしたとき、しばし沈黙しています。そして、やっと口を開いて語った言葉は「あれ、何のために電話したんだっけかな…?」と言うものでした。その言葉を聞いた私も、そしてそれをしゃべった友人も大笑いです。「いや、お互い年を取った証拠だね」と話しながら、自分にもそんな経験がよくあると話しを続けました。そしてしばらくそのまま雑談をしていたところ、やっと友人が「そうそう思い出した…」と言いことになって、電話の話題は本題に戻されたのです。
「物忘れ」は確かに老化の影響によるものかもしれません。しかし、「物忘れ」の原因は突然、重要な要件を忘れてしまうと言うよりは、むしろ途中で別のことを考えたりすることで、本来の要件の記憶がどこかに行ってしまうことによって起こるような気がします。私はよく、二階の書斎から三階の牧師館にものをとりに行くことがありますが、やっと三階に上がって「さて、自分はここまで何を捜しにきたのか」と考えることが度々あります。その場合はもう一度、二階の書斎に戻ると結構、忘れた記憶も戻って来ることがあります。このようなときは必ず、私は二階から三階に上がる途中で、別の要件が脳裏に浮かんでしまって、元の要件を忘れてしまうようなのです。皆さんの場合はどうでしょうか。
最近、カウンセリングでは「マインドフルネス」という話題が良く取り上げられています。「マインドフルネス」は私たちが目の前の出来事に集中するための方法を教えています。心理的な困難を覚える人の多くは「マインドフルネス」とは違って、目の前の出来事に集中することができません。後から後から自分の脳裏に別の心配事が浮かんできて、今、自分が取り組むべき課題に全力を注ぐことができなくなってしまうのです。そして結局は、何もできずに時間を浪費してしまうことが多いのです。
今日の福音書には舟に乗るイエスとその弟子たちのお話が記録されています。イエスは舟に乗っている弟子たちに大切な話を語っています。しかし、弟子たちはその言葉に耳を傾ける余裕がありません。彼らは自分たちが抱える問題を考えることで精一杯になっていたからです。
②目の前の出来事に集中する
ルカによる福音書にはこの時の弟子たちと同様な状況に陥った人の話が紹介されています。それはマルタとマリアと言う姉妹の上に起こりました(10章38〜42節)。あるときこの姉妹の家にイエスがやって来られることになりました。働き者の姉であったマルタは自分の家にやって来たイエスをもてなすために懸命に働きます。しかし、妹のマリアはイエスの足元にひざまずいてその話に聞き入るばかりで、姉を一向に手伝おうともしません。これに腹を立てたマルタは妹のマリアだけではなく、イエスに向かってもその怒りを爆発させています。「どうして妹に、「こんなときころに座っていないで、姉さんの助けをしてあげなさい」と言ってくれないのか」とイエスに抗議したのです。イエスはそのマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)と語っています。つまりマルタはマインドフルネスになれない、しなければならないことに集中できていないのです。そしてイエスはマルタに続けて語ります。「しかし、必要なことはただ一つだけである」(42節)と。マルタも目の前の出来事に集中する必要があったのです。妹マリアはその一つのことだけに集中することができました。だからイエスはマリアを「良い方を選んだ」(42節)と言って称賛したのです。
それでは弟子たちはこのとき、どんなことで心を乱していたのでしょうか。そして彼らが本来心を向けなければならないこととは何であったのでしょうか。
今日の物語は「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14節)と言う文章で始まっています。このとき舟に乗っていたのがイエスと12人の弟子だけであったと想定するならば、ここにいたのは合計13人になります。その人数に対して一つのパンでは、どうにもなりません。これは明らかに弟子たちの犯した失敗です。弟子たちはイエスと共に舟にのる前に自分たちに必要な十分なパンを買っておくべきだったのです。しかし、忙しさのために彼らはそのことも忘れてしまったのでしょうか。彼らがこのことに気づいたときには後の祭りでした。ガリラヤ湖に浮かぶ舟の上ではどこからも新たにパンと手に入れることはできないからです。弟子たちは解決不可能な問題を抱えてしまっていました。もしかしたら、このとき弟子たちはお互いにその失敗の責任を責め合って、言い争いになっていたのかもしれません。
2.パン種に注意せよ
①イエスに対する姿勢は同じ
その時ですイエスは自分と一緒に舟に乗っている弟子たちに「「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた」と言うのです(14節)。
パン種はパンを作る際に重要な材料です。パン種が入っていなければいくら小麦粉をこねたとしてもふっくらとしたパンを作ることはできません。しかし聖書ではこのパン種はあまり良い意味には使われていないようです。パン種のようなわずかな悪が、最後には全体を犯すまでに増え広がってしまう。そのような意味で「パン種」と言う言葉が使われているからです。イエスがここで語っているパン種の意味も同じことです。
ここでイエスが取り上げているファリサイ派は絶えずイエスと敵対し、その命を狙い続けた人々の集団です。一方、ヘロデと言う名前はガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスとそれを支える人々を指しています。ヘロデは自分の利権を守るために当時のユダヤを支配していたローマの力を利用しようとした人物です。この点では愛国主義者のファリサイ派の人々とは政治的に激しく対立していました。しかし、この両者はイエスに対する姿勢において不思議にも一致していたのです。ファリサイ派の人々もヘロデを指示する人々もイエスの存在を自分たちにとって邪魔だと感じていた点では同じだったからです。
②ファリサイ派の人々の偽善
ルカによる福音書ではこのファリサイ派のパン種とは彼らの信仰生活に表された「偽善」のことだと説明されています(12章1節)。彼らは人前では熱心な信仰者を演じていますが、その本心では神に従おうとしない人たちだと言っているのです。イエスはこのファリサイ派の偽善の影響に注意を払いなさいと弟子たちに語ったのです。
このファリサイ派の特徴はその独特な律法解釈にあったと言えます。皆さんも聖書の教えを読んでいると「こんなこと自分では守ることができない」と深刻に悩むときがあるはずです。聖書の教えに熱心に耳を傾け、その教えに従おうとする人は誰でも同様な感想を持つことがあります。つまり、これは聖書の戒めに対する正しい反応であると言えるのです。しかし、ファリサイ派の人々はこの悩みの解決のために独特な方法を生み出しました。それは聖書の戒めを自分たちが守りやすい戒めに変えてしまうという点に特徴がありました。そのためにファリサイ派の人々は聖書に書いていない様々な戒めを自分たちで作り出してしまったのです。そして自分たちが作った戒めを守ることで、自分たちは神の戒めに熱心に守っている者たちだと言う姿を人々に演じて見せたのです。
③神の律法、戒めの本当の役割
実は神の戒めは簡単に私たちが守れないところに意味があるのです。なぜなら、神の戒めは私たちが皆、罪を犯した罪人であることを明らかにする役目を果たすからです。罪人には神の戒めを守る能力は残されていません。そしてこの戒めを自分の力では守ることができないことを知る私たちは自分が罪人だと言うことを自覚することができるのです。そしてその罪から私たちを救ってくださるために神がイエスを救い主として遣わしてくださったことが分かるようになるのです。つまり、罪人を救うためにこの地上にやって来られたイエスは、自分を救うためにやって来られた方だのだと言うとことが守ることのできない神の戒めによって分かるのです。
神の戒めはイエスに救われた私たちにでも容易に守ることはできません。なぜなら、私たちがこの戒めを守るためにはいつも聖霊の助けが必要だからです。つまり、神の戒めは私たちの信仰生活に日々聖霊の助けが必要であることを悟らせ、私たちが聖霊の助けを祈り求めて生きるようにされるのです。ファリサイ派の人々は「自分たちは神の戒めを立派に守っている」と勝手に思い込んでしまっていたのです。だから彼らにはイエスの救いも、聖霊の助けも必要ないと考えたのです。
ヘロデとそのヘロデを支持する人々は最初から神の戒めなど気にする人々ではありませんでした。なぜなら彼らは自分たちにとってはこの世の権力が一番大切であると考えていたからです。この世の権力があれば何でもできる。だからその権力を握る自分たちには神の助けなど必要ないと考えたのです。彼らもまた自分が神によって救われなければならない者たちであること、また聖霊の助けを日々必要としていることを者たちであることを理解することができなかったのです。
イエスは「ファリサイ派やヘロデのパン種に気をつけなさい」と弟子たちに語られました。なぜなら、イエスを信じる者たちにもこのパン種は危険なものであると言えるのからです。このパン種をそのままにしておけば、私たちの内側でどんどんふくらんできて私たちにイエスの救いや聖霊の助けが必要であることを分からなくさせてしまうのです。
3.何に私たちの心を向けるべきか
①自分の犯した失敗に心を支配された弟子たち
このようにイエスが弟子たちに大切なことを語ったのに弟子たちはこのイエスの言葉の内容を全く理解していなかったと聖書は語っています。弟子たちがこの話をイエスから聞いた時「弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」(16節)と言うのです。
弟子たちはイエスが「パン種」と言う言葉を使ったので、パンを準備することを忘れた自分たちを責めているのだと勘違いしてしまったのです。もし、イエスの言葉に正しく耳を傾けるなら誰でもイエスが言おうとしていることはそうではないことが分かります。イエスは弟子たちがパンを準備できなかったことを責めるために「パン種」の話をしたのではありません。むしろイエスは弟子たちのことを心配して「ファリサイ派やヘロデのパン種に注意するように」と警告されているのです。ところが弟子たちはこのときイエスの言葉を正しく理解することができませんでした。それは彼らが「パンを準備できなかった」と言う自分の犯した失敗だけに心を支配されていたからです。だからイエスはこのような弟子たちに対して「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17〜18節)と語られたと言うのです。
②神を信じてどのような変化があったか
先日、フレンドシップアワーに参加したとき、「あなたは神さまを信じてどのような変化を体験したか」というような設問がありました。そして参加者がそれぞれ自分の体験を語り合いました。そのとき、私も自分が信仰に入ったときのことを思い出す機会を得ました。私が母を介護していたときよく私の母は「お前は役に立たないな…」と私に語ったことがありました。そして私はその言葉を母から聞くたびに、子どものころからのいやな記憶がよみがえるような気がしてならなかったのです。なぜなら、私は子どもの時から「自分は役に立つ人間だ」と言うことを証明したいと願って生きて来たからです。私は親や周りの人々にそのことを証明しなければならないと必死に努力して来ましたが、結果は必ず失敗に終わるのです。そして結局、私は「自分は役に立たない、自分の存在は無意味だ」と言う思いに支配されてしまうのです。その私が聖書に出会い、そしてイエス・キリストの福音を信じたときに、どう変わったのでしょうか。私は「自分は神によって造られた存在だ。そして神が造らえた自分が無意味なことは決してないと思うようになりました。さらにイエス・キリストは私のために十字架にかかってくださった。だから私の存在はそれほど神から大切にされていると思うようになったのです。私はイエスを救い主として受け入れた時から「自分は役に立たない存在だ」と言う思いから解放されるようになったのです。
③イエスを思い出す
イエスは自分たちが犯した失敗に心を支配されていた弟子たちに次のように語りかけました。
「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた」(19〜21節)。
イエスはここで弟子たちに彼らが体験した奇跡で増えたパンの量を尋ねているのではありません。そうではなく、その素晴らしい出来事を成し遂げてくださったイエスと言う方を思い出すように促しているのです。私たちが自分の犯した失敗や悩みを考え続けても、そこから私たちが解放されることはありません。むしろ、私たちはそのこと考えることに時間を費やしてしまって、大切な人生の時間を無駄遣いしてしまうだけなのです。
私たちがすべきことは、私たちと今一緒に舟に乗っておられるイエスを思い出すことです。なぜならこの方こそ、私たちの失敗や悩みを解決してくださることができる唯一のお方だからです。私たちが「マインドフルネス」、目の前の出来事に集中して生きるために大切なことは、まず、私たちが私たちと共にいてくださるイエスを思い出すことにあります。私の犯した失敗を解決してから、私の悩みを何とかしてからと考えていれば、私たちの思いはイエスからどんどん引き離されて行ってしまいます。そんな私たちにイエスは今日もこの礼拝の中で自分を思い出しなさいと私たちに命じています。そしてこのイエスが私たちの人生の失敗も悩みもすべて引き受けてくださっていることを教えてくださるのです。
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