2018.7.15 説教 「何が見えるか」
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聖書箇所
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マルコによる福音書8章22〜26節
22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
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説 教 |
1.目が見えない私たち
①健常者の持つ過信
今日もマルコによる福音書の記事から皆さんと共に学んでいきたいと思います。そして今日の箇所の鍵となる言葉は「見える」と言う言葉です。私たちの顔にはものを見分けることのできる目がつけられています。最近、視覚に障害を持つ人や聴覚、つまり耳の不自由な人々の入館を拒否する施設があって、そのことがニュースで問題として取り上げられていまいした。これは障害者に対する差別ではないかと言うのです。ところがそういう措置を行った施設の側の説明を聞いてみるとこの問題は差別と言う言葉だけでは片づけられないと思わされました。施設の側は「目が不自由な人や耳が聞こえない人を緊急時に誘導して避難させる体制が整っていないので、今回はお断りするしかなかった」と言うのです。そう言われると「なるほど」とうなずく点もあります。確かに目が見えないことや、耳が聞こえない者は健常者だけを想定して作られた施設や社会では様々な負担を負わざるを得なくなるからです。
しかし、だからと言ってそれでは「健常者なら大丈夫なのか…」とも言えないような気がします。目が見えていたって、耳が聞こえていたって必ずしも緊急時に適切に避難することができるとは限らないからです。むしろ、目の見えない人や耳の不自由な人の方が、予め緊急時の対応について様々なケースを想定していて、いざとなったら健常者よりも素早い対応ができるように訓練されていることもあり得るのです。その点ではむしろ、目が見えることや耳が聞こえることが過信となって、肝心な時に何もできなくなってしまうと言うこともあり得るのです。
②本当は見えないファリサイ派の人々
聖書の中には自分の能力に過信するあまり、肝心なところで失敗を犯してしまった人々の姿が紹介されています。その代表的な人々はファリサイ派や律法学者と呼ばれる人々です。彼らは子どものころから徹底的に聖書についての訓練を受け、その知識に精通していました。そして聖書の教える律法を自分たちの生活の中で厳格に守ることに熱心だったのです。彼らは自分の人生や自分の信仰生活についてかなりの自信を持って生きていました。だから神が救い主イエスを遣わされたのに、「自分たちにはそんな救い主など必要がない」と考えてしまったのです。一方、救い主イエスの元に集まった人々はこのファリサイ派や律法学者たちとは全く違っていました。彼らは自分の人生について、また毎日の信仰生活について大きな欠けを感じている人々だったからです。そして彼らはどんなに努力しても自分ではその欠けを補うことも、修正することもできないことを痛感していたのです。だから彼らは救い主イエスが遣わされたとき、真っ先に彼の元にやって来て、イエスの語る神の国の福音に耳を傾け、それを受け入れることができたのです。
ヨハネの福音書の中に「生まれつきの盲人」が主人公となった物語が記されています(9章)。イエスはこの生まれつきの盲人の目をその不思議な力で見えるようにされました。そしてこの物語がきっかけでイエスとファリサイ派の人々との間に論争が生じました。その最後のところでイエスはこのような言葉をファリサイ派の人々に投げかけているのです。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9章41節)。
ファリサイ派の人々は最後まで「自分たちはちゃんと見えている」と言い張りました。だから彼らの罪は「過失」ではなく「故意」によるものであると言えるのです。だからその責任を彼らは免れることはできないとイエスはここで語っておられるのです。見えていないと分かっていれば、イエスに目を開けていただくことができます。しかし、本当は見えていないのに、「見えている」といつまでも言い張るなら、イエスからその目を癒していただく機会を失ってしまうのです。
2.人々によって連れて来られた盲人
今日の物語では一人の盲人がイエスの元に連れて来られています。聖書の言葉を読むと、彼はどうも自分からイエスのところにやって来て「自分の目を癒していただきたい」と願った訳ではないと言うこと分かります。彼も自分の目が見えないと言うことは分かっていたはずです。しかし、それだけではイエスの元に行くことはできません。なぜなら、イエスの元に行けば「自分の目は見えるようになる。癒していただける」と言う信仰を持たなければ、誰もイエスの元に行こうとは思わないからです。私たちの周りにも自分の今の生活は決して変わらないと言って諦めてしまっている人が多くいるはずです。イエスを信じれば新しい人生を始めることができると言うことを知らないままで、諦めて人生を送っている人が多く存在するのです。
この盲人をイエスの元に連れて来たのは「人々」と呼ばれる集団です。この「人々」がどのような人たちなのか、この盲人とどのようなつながりを彼らが持っていたのかはよくわかりません。しかし、私たちに分かるのは彼らが「イエスに触れていただければ、この人の目も見えるようになる」と信じていたと言うことです。それは彼らがこの盲人の人をわざわざイエスの元に連れて来たと言うことで分かります。
私たちもかつてはこの盲人のような存在であったと言えます。イエスの元に真っ先に行って、「わたしの目を見えるようにしてください」と願わなければならない者たちなのに、私たちは自分が見えないと言うことさえ自覚していませんでした。私たちもファリサイ派の人々と同じように「自分は見えている」と思い違いをしていたのです。その私たちが今、どうしてこのようにイエスを救い主として受け入れ、聖書の言葉を通して真理を知ることができるようになったのでしょうか。それは私たちをイエスの元に連れて来てくれた人々が存在したからです。彼らが諦めることなく私たちに伝道して、「教会に行こう」と誘ってくれたからです。誰かが連れて行かなければ、私たちは誰も自分からイエスの元に行くことはできません。私たちの目を開いてくださるのはイエスの役割です。しかし、神は先に信仰を与えられた私たちに、まだイエスの元に行くことができないでいる人々を連れて行く使命を与えてくださっているのです。
3.はっきり見えるための過程
今日の物語は他の奇跡物語とは違って、この盲人の目が完全に見えるまでの経過が詳細に記されています。他の物語では「イエスがその人の目を見えるようにしてくださった」と簡単に報告することが多いのですが、ここではそう簡単には記されていません。イエスはこの盲人の目を見えるようにするために「盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった」(23節)とまず記されています。しかも、最初の作業ではこの人の目はまだものをはっきりと見えるようにはなっていません。イエスの癒しはまだ完成していないのです。だからイエスは「もう一度両手をその目に当てられ」(25節)たと記されています。イエスがそうすることでこの人の目は完全に見えるようになったと言うのです。
なぜ、イエスはこの人をわざわざ村の外に連れ出したのでしょうか。それはイエスがこの人と二人きりで向き合うためであったと考えることができます。これは私たちの信仰生活の特徴をよく表していると言えます。確かに教会にはたくさんの兄弟姉妹がいて、私たちはその人たちとの交わりを通しても自分の信仰が育てられていくことが分かります。しかし、もっと大切なのは私自身と神との関係です。この関係が失われてしまったら教会は単なる人間の集団になってしまいます。むしろこの神と私たちとの関係が確かなものとなるとき、教会の兄弟姉妹との交わりは他のどのような集団でも味わることのできない、愛の交わりと変えられるのです。だからこそ、イエスは私たちをまず連れ出して、私たちとの確かな交わりを作ろうとされるのです。
さらにこの物語に登場する盲人はすぐにすべてのものが見えることになった訳ではありません。これもまた私たちの信仰生活の意味を教えるものとなっていると言えます。私たちがイエスを信じることができるのは私たちの力ではありません。イエスが私たちに触れてくださったからです。イエスは私たち一人一人に天から聖霊を送ってくださって私たち触れてくださるのです。だから私たちの見えない目が見えるようになったのです。しかし、信仰生活はそこで終わってしまう訳ではありません。イエスが続けて聖霊を私たちに送ってくださることによって、私たちに触れ続け私たちの目が完全に視力を回復するようにしてくださるのです。そして私たちは見えるようになった目を通して、私たちが神の恵みの中に生かされていることを知り、感謝を献げることができるようにされるのです。
4.自分の目ではっきりとキリストを見る
先日、教会の皆さんの協力によって今年第二回目の教会バザーを無事に開催することができました。実は今回も教会には直接に関係のない方から「教会のバザーで使ってほしい」といくつかの品物をいただくことができました。通常、品物の価格は出品者自らが値段を付けます。その場合は品物の本当の価値を知っている人が値段を付けることになります。しかし、他の人からいただいた品物の場合にはそうすることができません。他の人にはいただいた品物にいくらの値段をつけたらよいのか分かりませんから、こちらで適当に品物の値段を付けることになるのです。すると、100円で販売した品物が、後で有名なメーカの品物であり、相当の値段のするものであると言うことが分かったりして驚かされることがありました。それでも誰も損害を受けた訳ではありません。むしろその品物の本当の価値を知らないで購入した人が得をしたと言うことができるかもしれません。
マルコによる福音書はこのような誤解がイエスの弟子たちの上に起こっていたと言うことを私たちに報告しています。弟子たちは自分たちのために神が遣わしてくださった救い主イエスの本当のすばらしさを知らないでいたのです。イエスと寝食を共にして、その驚くべき御業を身近で目撃しながらも、イエスの本当のすばらしさが弟子たちには分からなかったのです。それは彼らの心の目が閉ざされていたからです。だから彼らの心の目が閉ざされている限り、イエスがどんなに素晴らしい教えを語ったとしても、どんなに素晴らしい御業を行ったとしても彼らはその本当の意味を理解することができなかったのです。だからこのマルコによる福音書は盲人であったのはこの弟子たちだったと言っているのです。
しかし、その弟子たちがやがてイエスが神の子であり、救い主と告白するものと変えられました。それはどうしてでしょうか。イエスが彼らの心の目を開いてくださったからです。そして彼らはこの開かれた心の目を通してイエスの十字架を理解し、イエスの復活を理解することができたのです。すると、どうなったでしょうか。彼らはさらに自分たちに神から与えられている恵みのすばらしさ価値を実感できるようになったのです。
私たちが毎日聖書の言葉を読んで暮らせるように作られたリビングライフ誌ではこのところ毎日、使徒言行録の記事が取り上げられています。この使徒言行録を読んで私たちが驚くのはイエスの弟子たちの人生に起こった変化です。かつてはイエスの言葉を正しく理解することもできず、十字架の出来事の前にして逃げ去ることしかできなかった弟子たちした。その弟子たちが大胆に福音を語ることができるように変えられたのです。
ガリラヤ湖で働く無学な漁師に過ぎなかったペトロが議会に集う律法学者たちを前にして、大胆に、そして正確に聖書の福音を伝えることができました。しかも、彼は「イエスのことをこれ以上伝えたら、命はない」と議会の人々に脅かされても、怖気づくことなくイエス・キリストを証し続けることができたのです。そのすべては、イエスが彼らの心の目を開いてくださったからです。私たちは今日の癒された盲人に起こったことと同じ出来事が弟子たちの上にも起こっていたことを知ることができるのです。
イエスはすでにこのペトロと同じように私たちの心の目をも開いてくださいました。だから私たちは今、ペトロと同じ信仰を告白し、この礼拝に集められているのです。イエスの御業はこれだけで終わってしまった訳ではありません。イエスは私たちの目がもっとはっきり見えるようにとその御業を続けてくださっているのです。そのために天から聖霊を送ってくださることで、私たちは触れ続けてくださるのです。そして私たちもやがて使徒パウロと同じように神に見えるようにされた目を通して「(神が)万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)と確信をもって言えるようにされるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちの目を見えるようにしてくださり、あなたを信じることができるようにしてくださったことを心より感謝いたします。かつて、私たちは自分が本当は見えていなことを知りませんでしたし、またその自分もイエスの元に行けば見えるようになると言うことも知りませんでした。あなたは私たちにたくさん人々を送り、私たちをあなたの御許に連れ出してくださいました。そして私たちに触れてくださって、私たちの目を見えるようにしてくださいました。どうか私たちが見えるようになった目を通して、聞こえるようになった耳を通して、あなたの恵みのすばらしさをもっとよく知り、あなたに感謝をささげ、あなたを褒めたたえることができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスと弟子たちがベトサイダに着いたとき、人々はどのような人をイエスのところに連れて来ましたか(22節)。
2.その人をイエスの元に連れてきた人々は、イエスにどんな願いをしましたか。このような行動を通して彼らがイエスについてどのように思っていたことが分かりますか(22節)。
3.イエスは連れて来られた盲人に対してどのような行動をとられましたか(23節)。
4.イエスによって見えるようにされた人は、イエスにどのような言葉を語りましたか(24節)。
5.この言葉を聞いてイエスはさらにこの人にどのようにされましたか。そしてそのイエスの御業によってこの人は最後にどのようになりましたか(25節)。
6.イエスは癒された人に向かって、どのような指示を送っていますか(26 節)。イエスの御業は人々を驚かせて、自分の評判を高めるためになされるものでは決してありません。しかし、癒された本人は誰よりもイエスのすばらしさを知ることができるようにされます。私たちは自分の信仰生活の中でイエスに見えるようにされたと言う喜びをどのように表現することができるでしょうか。
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