2018.7,22 説教 「人生最大の質問」
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聖書箇所
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マルコによる福音書8章27〜30節
27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
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説 教 |
1.人生を決める問い
今日も皆さんと一緒にマルコによる福音書の物語から学びたいと思います。今日の箇所では「イエスとは誰れか」というテーマが取り上げられています。昔のテレビドラマで月光仮面と言う番組がありした。このドラマのテーマソングでは「月光仮面は誰でしょう?」という歌詞が繰り返し歌われています。この場合の歌詞の意味は「月光仮面の正体は誰でしょう」と歌っていると考えてよいでしょう。ですから「イエスとは誰か」、あるいは「イエスとは何者か」という問いの正確な意味は「イエスの正体は誰か」ということを聞いているとも考えることができます。なぜなら、この地上で活動されたイエスの姿は普通の人間とどこも変わらない平凡なものだったからです。そのままでは誰もが見逃してしまうような、どこにでもいるようなありふれた人間の姿をとってイエスはこの地上で生き、活動されたのです。
しかし、見かけの姿は普通の人間と変わりがなくても、イエスの行動や言葉を知れば、彼が普通の人間ではなかたっということが誰にでもわかります。ですからこのイエスの言動を記した聖書の記録はイエスの正体を私たちに教えているものだと言ってもよいのです。聖書はイエスの顔がどうであったかとか、外見はどうであったかというようなことを一切、記してはいません。なぜなら、福音書の著者たちは私たち読者にイエスが神の子であり、私たちの救い主としてこの地上に遣わされた方であることを紹介しようとしているからです。ですから私たちは、この聖書の言葉を通してイエスが誰であるのか、つまりその正体を正しく知ることができると言えるのです。
ところがイエスの弟子たちの場合には私たちとは事情が少し異なって来ます。なぜなら、彼らの時代には私たちの持っているようなイエスを証しする新約聖書はまだ存在していなかったからです。確かに彼らはそれ以前に記されていた旧約聖書の内容はよく知っていましたが、その旧約聖書が教え続けて来たメシア、つまり救い主が自分たちと共におられるイエスであることを悟ることはなかなかできなかったようです。それは彼ら弟子たちとイエスとの物語を記した福音書の内容を読んでみてもよく分かります。
今日の箇所ではその弟子たちのリーダーともいえるシモン・ペトロがイエスに対して「あなたはメシアです」と語ったことが記されています。弟子たちはこのときまでイエスと寝食を共にして来た訳ですから、イエスについて様々なことを知っていたはずです。その彼らがこの時点で初めて「このイエスこそ、旧約聖書に約束されている救い主だ」と信じるようになったと言うのです。ですから、この箇所は福音書の中でも重要な転換点を示すところだと考えることができます。確かにここまでの間で弟子たちは全くイエスが「救い主」だと考えなかったという訳ではないと思います。「もしかしたらこの人は旧約聖書に約束され来た救い主かもしれない」と彼らも思うことはあったのかもしれません。しかし、ここから弟子たちは「イエスこそが自分たちのメシア、つまり救い主だ」と信じ始めます。だからこれ以後の福音書の記事はその「弟子たちが信じたイエスとはどのようなメシアであるのか」ということが論じられていくことになるのです。それを説明するために福音書はこれからこのメシアであるイエスが十字架にかかって死ななければならないこと、また三日目に死から甦らた方であることを私たちに証明していくのです。
2.イエスは誰なのか
①人生の行方を変える大切な質問
今日のお話の最初は弟子たちに向けられて語られたイエスの問いから始めっています。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(27節)とイエスは弟子たちに問うたのです。
最近、私が知った単語で「エゴサーチ」と言う言葉があります。これはインターネット社会の中で生まれてきた言葉です。エゴサーチとはネットの検索で自分の名前を打って自分のことを調べることを表す言葉です。もちろん、平凡な生活を続けている私たちがネットの検索に自分の名前を打ったところで、自分についての情報がたくさん出て来る訳ではありません。しかし、テレビに出ているような有名人は私たちとは違います。彼らがネット検索で自分の名前を入れると、そこには数限りない彼らについての情報が表示されるのです。もちろん、そこに出てくる情報は必ずしも正しいものだけではありません。むしろその大半は不特定多数の人々がいい加減に書いた情報の場合が多いのです。さらにその中には本人を評価する良い情報もありますが、大半はその人を誹謗したり中傷する内容で満ちていると言います。だから最近ではこの「エゴサーチ」をしてノイローゼになってしまったというタレントも多いというのです。これはネット社会が生み出した新たな問題と言えます。
もちろん、イエスは人々の評判を気にしてこの問いを弟子たちに向けた訳ではありません。この問いは弟子たちを次の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という質問に導き出すためになされたものであると言えます。それではイエスはどうしてこのような質問を弟子たちにしたのでしょうか。この箇所を読むと、この質問の目的は自分に対する他人の評価を調べるためと言うものではなく、むしろ弟子たちのための質問であったことが分かります。なぜなら、このイエスの質問にどのように答えるかで弟子たちの人生の行方が大きく変わってしまうからです。そして、このイエスの質問は弟子たちだけに問われているものではありません。福音書を記したマルコはこのイエスの質問をここに記すことで今、この福音書を読んでいる私たちにも同様の質問を投げかけようとしているからです。そして、私たちもこの質問にどのように答えるかによって、私たちの人生が行方が大きく変わってしまう可能性があるのです。
②イエスに向けられた人々の評価と期待
まず、ペトロはイエスの「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問いに答えて、こう語っています。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28節)
ここでペトロが紹介している人々のイエスについての評価はそれぞれ、人々がイエスに対して抱いていた期待を表しているとも言えます。
まず、洗礼者ヨハネはこの福音書でも最初の部分からすでに登場している人物です。ヨハネは当時、形ばかりの信仰生活を送ることで満足している人々に対して、真剣に神と向き合って生きることを勧めました。そしてヨハネは神の裁きが近づいていることを人々に語りながら、彼らに悔い改めを迫ったのです。ヨハネは神の裁きを逃れる道はただ一つしかないこと語りました。そのためには神がやがて遣わしてくださる救い主を待ち、その方に救っていただくしかないと教えたのです。
また、エリアは旧約聖書に登場する代表的な預言者の一人です。この預言者の特徴はエリヤだけは他の預言者たちと違って死を体験することがないまま、火の戦車に乗って天に昇っていったところにあります(列王記下2章11節)。ですから、同じ旧約聖書のマラキ書という預言書の中にはこの地上に神の最後の裁きが下る前に、このエリヤが天から遣わされて、裁きから人々が逃れるために働くことが預言されています(3章23〜24節)。
「他の預言者」とは誰のことを言っているのかわかりませんが、旧約聖書にはエリヤ以外にもたくさんの預言者が登場し、神の言葉を伝える大切な役割を果たしています。当時の人々は自分が目撃したイエスについてのイメージをもとにそれぞれ旧約聖書に登場する預言者の誰と似ているのかを勝手な想像をしていたのかもしれません。このように人々はイエスについて勝手に想像し、またそのイエスに様々な期待を抱きました。しかし、この人々の考えに共通しているのは、イエスは預言者の一人かもしれないが、イエスは約束された救い主ではないと考えていた点にあります。
3.どうしてイエスは私の救い主なのか
一方、イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対してペトロは即座に「あなたは、メシアです」と答えました。先ほど、このイエスの問いは自分の正体をどのように考えているのかと言う質問になっていると語りました。しかし、ここでもう少しこの質問の意味を丁寧に考えて見るとイエスはペトロに「あなたにとって私は何者だと信じているか」という意味を持った質問をしていると考えることができます。なぜなら、この質問はイエスについての一般的な知識を問うている質問ではないからです。聖書を綿密に研究して、聖書について私たちよりもはるかに多くの情報や知識を身に着けている人はこの世にたくさんいます。大学の研究者の中には聖書をヘブライ語やギリシャ語で読んで研究している人もたくさんいます。しかし、その人々がすべてイエスに対する信仰を持っているかといえばそうではありません。なぜなら、彼らにとってはイエスは単なる学問の対象でしかないからです。聖書やイエスについてどんなにたくさんの知識を持っていたとしても人はそれだけで救われる訳ではないのです。それではどんな人が救われることができるのでしょうか。聖書は私たちの救いに次のようなことを教えています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10章9節) 。
「口でイエスは主であると公に言い表す」。ペトロが今日の箇所で語った言葉はこのローマ書の言葉が表しているものと同じだと言えます。だから今日の箇所は「ペトロの信仰告白」とよく呼ばれています。私たちが読んでいる新共同訳の小見出しにも「ペトロ、信仰を言い表す」と書かれています。この信仰の告白は、単なる私たちの知識を語るものではありません。私たちがイエスをどのように信じているのか、私たちにとってイエスはどのような存在なのかを言い表す言葉こそがこの「信仰告白」の意味だからです。
私たちが救われるために何が必要でしょうか。聖書は聖書についての膨大で詳細な知識が必要だとは言っていません。ましてや、ファリサイ派の律法学者のように律法を厳格に守る必要があるとも言っていないのです。私たちが救われるために必要なことは、私たちがイエスを自分の救い主と告白すること、信仰告白をすることだと教えているのです。
それではイエスを自分の主の告白すると言うことはどんな意味を持っているのでしょうか。もちろんこの告白は口先だけの言葉ではありません。むしろ、私たちの全存在がかかっている言葉であると言えるのです。なぜなら、イエスを主、自分の救い主だと告白するということは、このイエスがいなければ自分は生きてはいけないということを自分の口で表明することを意味しているからです。私たちが生きていくためには様々なものが必要です。しかし、そのすべてがなくなっても、これだけは失ってはいけないもの、これが無くなったらもう生きてはいけないと言えるもの、それが私たちのイエスであると言うことです。逆に言ってしまえば、どんなことがあってもこのイエスが私たちの主として、また救い主として私たちとともに生きてくださるならば、私たちの人生にどんなことが起こっても生きていける、大丈夫だということを表明することがこの信仰の告白の意味だと言えるのです。だからイエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いは、私たちに「あなたは私がいなければ、自分は生きて行けないと信じているのか」と言う問いになっているとも言い替えることができるのです。
4.聖霊の働きによって
ペトロはここでイエスに対する正しい信仰の告白をすることができました。しかし、この箇所の続きを読んでみると、ペトロはこの時、イエスについて必ずしも正しい知識を持っていたかどうかが疑われる出来事が後に続いています。はっきり言って、この時点でのペトロのイエスに対する信仰は全く不完全であったことがわかるのです。それなのにこんな不完全なペトロがなしたこの信仰の告白がなぜ重要だと言えるのでしょうか。私たちも同じです、たとえペトロと同じようにイエスに対して信仰の告白ができたとしても、私たちはまだまだイエスについて何も知らないし、多くの点で誤解していることがあるはずです。それでも私たちの信仰告白が私たちの救いの根拠となりえるとしたらそれはどうしてなのでしょうか。
答えは簡単です。この私たちが信仰の告白ができるのは聖霊の働きによるものだからです。私たちは自分が自分の考えで、信仰を告白したように考えているかもしれません。しかし実はそうではありません。聖霊が私に働いてくださったからこそ私たちは信仰の告白ができたのです。マルコはこの信仰の告白の意味を知らせるために、ここまでイエスの弟子たちが目が見えない盲人、耳が聞こえない人のようであったことを語ってきました。弟子たちはイエスが神のもとから遣わされた救い主であるということが全くわからないまま、ここまで行動を共にして来たのです。そんな彼らがなぜ、ここでイエスに対する信仰の告白がでるようになったのでしょうか。それは聖霊が働いて彼らの心の目を、そして彼らの心の耳を開いてくださったからです。聖霊が弟子たちに信仰の告白ができるように働いてくださったのです。そして私たちの信仰の告白は聖霊の御業によるものであるからこそ私たちにとって救いの根拠となりえるのです。
私たちは今、この聖霊の働きによって「イエスを主、あなたは私の救い主です」と告白できる ようにされています。確かに私たちのイエスについての知識、神に対する知識はまだ全く不十分でたくさんの誤解が私たちの内には残されているかもしれません。しかし、私たちはそれで不安になる必要はありません。なぜなら私たちに信仰の告白をさせてくださった聖霊は、私たちを決して見捨てることはないからです。聖霊は私たちの信仰生活にこれからも働き続けて、私たちとってイエスがどのような方であるかを、また神がどのような方であるかを教え続けてくださるのです。そしてこの聖霊は私たちの人生にとって救い主イエスが絶対に必要な方であることを私たちの心に焼き付けてくださるのです。
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祈 祷 |
天の父なる神さま
私たちに聖霊を遣わして私たちの心の目と耳を開いて、イエスを信じることができるようにしてくださったあなたの恵みに感謝いたします。私たちも確かに聖霊の働きによって「イエスは私のメシア、わたしの主です」と告白し、洗礼を受け信仰生活を始めることができました。そして聖霊は今も私たちの信仰生活を導き、私たちの信仰を育て、イエスに対する私たちの希望と確信を深めてくださることを心から感謝いたします。私たちには自分の人生を変える力はありません、しかし、聖霊はこの私たちを変えてくださることを信じます。私たちがこの聖霊の働きに信頼し、またその働きに自らを委ねて生きることができるように助けてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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聖書を読んで考えて見ましょう |
1.イエスと弟子たちはこのときどのような地方に出かけましたか(27節)。※このフィリポ・カイザリアはローマ皇帝を称賛するために建てられた町でローマ皇帝を神とあがめる信仰の拠点と呼べる場所でした。
2.イエスは旅の途中で弟子たちにどのような質問をされましたか(27節)。このときの弟子たちの答えから当時の人々がイエスについてどのように考えていたことが分かりますか(28節)。
3.この後、イエスは弟子たちにどのような質問をされましたか。この質問に弟子を代表して答えた人物は誰ですか。彼はこの質問に何と答えていますか(29節)。
4.ペトロがここで語った「あなたはメシア」と言う言葉の意味をあなたも考えて見ましょう。
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