2018.7.8 説教 「漁師シモン」


聖書箇所

ルカによる福音書5章1〜11節
1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


説 教

1.人間ペトロの信仰から学ぶ
①「岩」と呼ばれたシモン

 この伝道礼拝では福音書の中に登場する救い主イエスに出会った人々について毎月学んでいます。今日は当初の年間計画の予定を変えて、漁師シモンと言う人物にスポットを当てながら皆さんと共に考えて行きたいと思います。この漁師シモンとはどのような人物なのでしょうか。私たちはこの人物をシモンと言う名前より、「ペトロ」と言う名前で呼んだ方がよく分かるかもしれません。ご存知の通りイエスの十二人の弟子の一人であったのがこのペトロと言う人物です。しかも、彼は福音書の中でもその十二弟子の中でも筆頭に挙げられるリーダーのような重要な人物であったとも言えるのです。
 実はこの「ペトロ」と言う名前は本名ではありません。彼の本当の名前は今日の説教題にしたようにシモンと言います。このシモンと言う名前は当時のユダヤ人の社会ではとてもありふれた名前であったようです。だから、その人物をたくさんいる他のシモンと区別するために「ペトロ」と言うあだ名をつけて呼んだのです。さらに、どうもこのあだ名はイエスによってつけられたと言うことが聖書を読むと分かってくるのです。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16章18節)。

 ここで「あなたはペトロ」とイエスはシモンに向かって語り掛けています。実はこのペトロとは名前は「岩」と言う意味を持っています。どうして彼のあだ名が「岩」なのかという説明はどこにも見つけることができません。ガリラヤ湖の漁師として働いていた彼の身体が筋骨隆々として、「岩」のようであったためにそう呼ばれたのでしょうか。それとも彼の性格がそうとう頑固であったために「岩」と呼ばれたのでしょうか…本当の理由はよく分かりません。

②人間ペトロの信じた信仰

 ただ、イエスがこのあと「この岩の上にわたしの教会を建てる」と語っています。実はこの言葉が後世のキリスト教会に大きな影響を与えました。今でもローマにバチカンというところがあって、そこに大きな教会が立てられています。ローマ・カトリック教会の総本山とされる有名な教会です。サン・ピエトロ大聖堂と呼ばれるこの教会には「聖ペトロ大聖堂」とペトロの名前が付けられています。この理由は、この教会の場所がローマで殉教したペトロの墓地の上に立てられていると言う伝説に基づいているからです。つまりこの教会はペトロの墓の上に立てられた教会と信じられているのです。そして先ほどの聖書の箇所の続きでイエスはペトロに対して次のような言葉も語っています。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(19節)。

 この言葉からローマ・カトリック教会はペトロがイエスから天国の鍵を預けられたと考えています。これは実際に鉄か何かでできた建物の鍵を預かったと言う意味ではなく、天国に誰を入れ、誰を入れないかと言う権限を彼が預かったと言うことです。そのペトロの預かった権限をローマ・カトリック教会では代々、ペトロの後継者とされるローマ教皇が預かり続けていると考えているのです。このようにローマ・カトリック教会にとってペトロはとても重要な存在であると信じられているのです。
 プロテスタント教会に属する私たち改革派教会ではローマ教皇だけが天国の鍵を預かっているとは考えていません。私たちが信じているのはペトロと同じ信仰を持つ者の上に教会が立てられ、またその教会に天国の鍵が預けられているということなのです。つまり、私たちにとって大切なのはペトロという特別な人の存在ではなく、ペトロが信じた信仰です。そして私たちはこのペトロの信仰を受け継ぐことが大切だと考えるのです。そのような意味で私たちはペトロを特別な人と考えるのではなく、私たちと同じ人間の一人であると考えることが大切です。なぜなら、ペトロが私たちと同じ人間であるならば、私たちもまた、ペトロが信じた信仰と同じ信仰を持つことができるからです。私たちにとって大切なのは聖人として敬われるペトロではありません。弱さを持ち、失敗もする私たちと同じ人間でありながら、イエスを信じ、イエスに従ったペトロであり、その信仰であると言えるのです。

2.イエスの言葉に従った
①ペトロとイエスの関係

 今日の物語の最後には「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言うイエスの語られた言葉が記されています。そしてその後、漁師であったシモン・ペトロはすべてを捨ててイエスに従ったと説明されているのです(10〜11節)。ここにはペトロがイエスの弟子となったという召命物語が記されています。実はペトロはこのときイエスに初めて出会った訳ではありません。この物語の直前に新共同訳聖書では「多くの病人をいやす」という題名が付けられた箇所が4章にあります。この中にすでにイエスはシモンの家を訪ねていて、そこで病で臥せっていたシモンのしゅうとめを癒されたと言う出来事があったことが記されています(38〜39節)。つまり、ペトロは弟子になる前からイエスのことをよく知っていて、自分の家族をその不思議な力で癒してもらったと言う体験を持っていたのです。すでにイエスとペトロは顔なじみになっていたのでしょう。そこで今日の物語が始まっています。
 このときもイエスの周りにたくさんの群衆が押し寄せて来ていました。彼らはイエスの口から神の言葉を聞こうとして、そこに集まったのです。イエスはこの沢山の群衆に語り掛けるために相応しい場所を探していました。そこでイエスは二艘の舟が岸につながれているのを見つけたのです。しかも、そのうちの一艘はイエスが良く知っているペトロが持っていた舟でした。そのときペトロはガリラヤ湖の岸辺で網を洗っていました。そこで彼は漁の後片付けをして、帰り支度をしていたのです。イエスはこのペトロの舟に乗って少し沖に漕ぎ出してほしいと彼に頼みました。それは舟の上から岸辺に集まる人々にお話をするためでした。ペトロの舟は急ごしらえの説教壇に変えられたのです。

②イエスの言葉に従ったペトロ

 このように漁を終えて家に帰ろうと支度をしていたペトロはイエスに突然呼び止められて、しかもその後、もう一度ガリラヤ湖で漁をすることとなりました。なぜなら、イエスが「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と彼に命じたからです。そしてペトロはこの命令に従ったのです。
 ペトロはこのガリラヤ湖でずっと魚を獲って暮らして来たプロの漁師です。ところが一方のイエスは大工の息子として育った人物であり、おそらく漁に関しての知識は持ち合わせていなかったと想像されます。皆さんなら自分の専門分野に門外漢の誰かが口を挟んできて、「こうしなさい」と言って来たらどう思うでしょうか。なかなかその言葉に素直に従うことができないと言うのが事実ではないでしょうか。しかも、ペトロはこのときガリラヤ湖で一晩中、漁をして何も獲れなかったという体験をしたばかりだったようです(5節)。おそらく、このガリラヤ湖では夜に海面近くに上がって来る魚を獲るという漁の方法が常識となっていたのでしょう。ところが、イエスの命令に従ってペトロが舟を沖に漕ぎ出した時刻は明らかに昼でした。イエスのこのときの命令はペトロが持っている知識や経験とは相容れないものだったのです。しかし、ペトロはこのとき「お言葉ですから、網を降ろして見ましょう」(5節)と決断して行動したのです。
 このペトロの姿から分かることは、彼がイエスの言葉を最優先にして決断し行動したと言うことです。この時のイエスの言葉は彼の知識や経験に反する言葉であったはずです。しかしペトロはむしろイエスの言葉を優先したのです。そして、ここにペトロの持っていた信仰の特徴が示されていると言えるのです。
 以前、ある老齢の牧師が自分の牧師としての経験をもとにして「牧師の仕事」と言う一冊の本を書きました。教会で牧師が遭遇する様々な出来事に対して、このようなことがあった場合どのように対処したらよいのかというところまで記している丁寧な本です。この本は牧師をするものにとっては大変に役に立つ内容が記されているのです。ところがこの本に対して、あるやはり老齢で自分でも何冊も本を記している牧師が書評を書いていたものを私はたまたま目にしました。通常、本の書評というのは「この本はこのように優れた内容で、是非、購入して読んでみるとよいでしょう」と宣伝するために書かれるものす。しかしその書評は全く違っていました。「この本には一人の牧師の貴重な体験がたくさん記されている。しかし、とても残念なのはその記述内容の根拠となる聖句がほとんど示されていないところだ」とその書評は論じていたのです。
 信仰と私たちの持つ知識や内容はどのような関係にあるのでしょうか。その二つは対立したもので、私たちは自分の持つ知識や経験を捨ててイエスの言葉に従う必要があるのでしょうか。私はそう考える必要はないと思っています。むしろ、私たちの持つ知識や経験はイエスの言葉に従うときに生きたものとなり、本当の価値を発揮することができるのです。しかしもし、私たちがイエスの言葉を無視して、私たちの持つ知識や経験だけを最優先にして生きるなら、その人生は大変に危険なものとなってしまうはずです。
 私たちが神を信じて生きると言うことは、私たちが自分の持っている個性を捨てて、ロボットのようなものになってしまと言うことではありません。むしろ、私たちが神に従うとき、私たちの個性は豊かに用いられ、本当の価値を発揮することができるのです。だから私たちは神を信じ、神に従うことを通して自分の人生の本当の意味と価値を見出すことができると言えるのです。

3.イエスを通して自分を見る

 聖書はペトロがイエスの言葉に従ったとき「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」と記しています(6節)。

 「おびただしい」と言う表現でわかるように、この時の漁獲量はペトロがいままで経験したことのないようなものであったことが分かります。一艘では足りず、二艘の舟で引き揚げても舟が沈みそうになるくらいこの時、魚が獲れたと言うのです(7節)。興味深いのはこの大漁の奇跡が起こった後に示されたペトロの反応です。

「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った」(8節)。

 イエスによって起こった大漁の奇跡、皆さんならこのような出来事を体験したらどう思われるでしょうか。まず多くの人はこのような成功体験をこれからも続けて経験できるようにと願うはずです。かつてイエスによって五つのパンと二匹の魚から自分たちの飢えの問題を解決していただいた人々は、その後、イエスを自分たちの王にしようとしました。なぜなら、イエスが自分たちの王となって、同じ奇跡を続けて行ってくれれば自分たちの生活は困ることはないからです。

 しかし、このときのペトロは「イエス様、これからもこのガリラヤ湖で自分たちと一緒に漁をして暮らしましょう」とは言わなかったのです。ペトロはむしろイエスに向かって「わたしから離れてください」と叫んだと言うのです。なぜなら、ペトロはこのときイエスを通して自分自身の姿の正しく知ることができて、自分が罪人であるということがよく分かったからです。ここで示されているペトロの信仰の特徴は自分の本当の姿をイエスを通して知ろうとしたと言う点です。なぜなら、私たちが自分自身の正しい姿を理解することができるためにはこのイエスの存在が絶対に必要だからです。
 子どもの頃に見たアメリカンのテレビドラマで「トワイライトゾーン」と言う奇妙な物語がありました。このドラマの一シーンを私は今でも忘れることができません。手術室の真ん中に顔を包帯でぐるぐる巻きにされた一人の女性が座っています。その女性を囲んで何人もの医師や看護婦たちが取り囲み、心配そうに語り合っているのです。「私たちは今までこんなに醜い顔をした女性に巡り合ったことがない。今まで、何度も手術を繰り返したが、結局失敗だった…」。「今回はどうだろうか…」と語って、医師がその女性の包帯を心配そうに取って行きます。そして包帯が取られた瞬間、医師や看護婦たちの悲鳴が上がります。「また失敗だ!」その声と同時にカメラはその女性の顔をアップで映し出します。するとそこに映し出されたのは美しい女性の顔でした。どうして医師や看護婦たちがそんなに大騒ぎをするのか視聴者は不思議に思います。すると次の瞬間その部屋の電気がつき、彼女の周りを取り囲んだ医師や看護婦の顔が次々に映し出されます。どの顔も口や鼻、目の位置がとんでもないところに着いているのです。彼らは自分たちと違った顔をしたこの女性を「醜い」と言っていたのです。
 私たちは自分の本当の姿をどこで知ることができるのでしょうか。他人が着ける私たちへの評価の中にそれを見出すことができるでしょうか。あるいは自分自身が勝手に考えた自己評価にそれを求めることができますか。自分の本当の姿を知るためにいろいろな方法があるかもしれません。しかし、本当にそこで知り得た自分の姿は正しい姿であると言えるのでしょうか。もし私たちが余った判断のままで一生を送るなら、それこそ不幸なことはありません。
 私たちは救い主イエスを通して自分の正し姿を理解することができます。なぜなら、私たちはこのイエスを通して自分が神から救っていただかなければならない罪人であると言うことを知ることができるからです。その上で、イエスはその罪人である私たちを神がどんなに愛してくださっているかを教えてくださるのです。ペトロもこのイエスを通して本当の自分の姿をこのとき知ることできました。そしてペトロはこの後もイエスを通して自分を本当の姿をさらに知らされて行きます。イエスを信じて生きると言うことは、イエスを通して私たちが罪人であることを知ること、その上で神は決して私たちを見捨てることなく愛し続けてくださっていることを知って行くことだと言えるのです。


祈 祷

天の父なる神さま
 イエスに出会い、イエスに従ったペトロの物語を通してあなたを信じることが私たちの人生にとってどんなに大切であるかを教えてくださりありがとうございます。私たちがこの人生で得た知識も経験も、それだけでは意味がありません。むしろ、私たちがあなたの言葉に従って生きようとするとき私たちの持つ知識や経験が豊かに用いられ、生かされたものとなります。また、私たちは他人や自分自身が勝手に下した評価によって振り回され、苦しむことがありますが、あなたは救い主イエスを通して私たちの正しい姿をも教えてくださいます。私たちは皆、そのままでは滅ぼされるべき罪人ですが、あなたはその私たちを愛して、イエスの命に代えて私たちを救い出してくださいました。そして私たちの命がイエスと同じように素晴らしい価値を持つことを教えてくださいました。どうか私たちがこれからもあなたを信じることにより、自分の人生の本当の価値と喜びを知っていくことができるように助けてください。
 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはどうしてこのときシモン・ペトロの舟に乗ることになったのですか(1〜3節)。
2.イエスが岸辺に立つ群衆たちに話し終わったとき、シモンに何と言われました。この言葉にシモンはどのように反応しましたか(4〜5節)。
3.シモンがイエスの言葉通りに従ったとき、どのようなことがそこで起こりましたか(6〜7節)。
4.とれた魚に驚いたシモン・ペトロはイエスに何と語りましたか。どうしてシモンはこのときこんな反応をしたのでしょうか(8節)
5.このときペトロのほかにどんな人々がそこにいたことが分かりますか(10節)
6.この出来事に驚くシモン・ペトロたちにイエスはどのような言葉を語りかけましたか(10節)。このイエスの言葉の意味は何ですか。
7.この後、シモン・ペトロたちはどのようなりましたか(11節)